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ブルージュの運河にて


橋の欄干に肘を置いた瞬間、花の影がふわりと視界を占めた。紫と濃いピンクの花びらが、少しだけ風に揺れている。近づくと、花びらの表面は薄い絹みたいに光を抱えていて、指先で触れたら、冷たい水に落ちた色のようにほどけてしまいそうだった。

顔を上げると、運河はまっすぐに街の奥へ吸い込まれていく。水面は灰色ではなく、薄い青と雲の白を混ぜた色をしていて、ゆるい波がそのまま空を刻んでいる。右手には白い壁の家並みが続き、窓枠の四角が等間隔に並ぶのに、ひとつとして同じ表情の窓はない。反射の角度が違うだけで、窓がそれぞれ別の空を持っているみたいだ。

赤い瓦屋根は、陽射しの下で乾いた焼き菓子みたいな色をしている。屋根の傾斜が少しずつ違って、煙突が出ていて、空へ向かうラインが不揃いなのに美しい。手入れの行き届いた白い外壁の隣に、レンガの建物が肩を寄せる。レンガは赤というより、時間が染み込んだ茶色に近く、目を凝らすと一つ一つの粒がざらりと息をしているように見える。

左側の道には車が並び、遠くでエンジン音が小さく滑った。けれど不思議と、騒がしくはない。ここでは音が角を丸められて届く気がする。人の声も、足音も、街の中へ溶けていって、代わりに残るのは、水が動く気配と、風が花を揺らす軽さだけだ。

私は、観光地でよくある「見てやろう」という目つきが、自分の中からほどけていくのを感じた。写真で見たことのある景色に、今さら驚くはずがないと思っていたのに、実際は逆だった。写真は輪郭だけをくれる。ここに立つと、その輪郭に“温度”が戻ってくる。

空は高く、雲がゆっくり流れている。雲の影が家並みを横切るたび、壁の白が少しだけ冷たくなる。次の瞬間にはまた明るくなる。その小さな変化が、目の前の街を「作り物」から「生き物」に戻していく。

私は花の向こうの運河を見つめながら、理由のない安堵を覚えた。予定を詰めて走り回る旅ではなく、ただ立ち止まる時間が、こんなにも贅沢だとは思わなかった。急ぐほど取りこぼすものがある。けれど、立ち止まってみると、取りこぼしていたのは景色ではなく、自分の呼吸だったのかもしれない。

もう一度、花に目を落とす。紫の花びらの中心は淡く、濃いピンクは、光を浴びるとほんの少し透明になる。私はその“透明”が、今の自分に似ていると思った。どこかへ行きたい気持ちと、ここに留まりたい気持ちが重なって、境目がぼやけている。

運河は変わらず、静かに奥へ続いている。この街は私に「感動しろ」とは言わない。ただ、「ちゃんと見て」とだけ言っている気がした。私は頷く代わりに、ポケットの中で指をそっと握り、冷たさを確かめた。現実は冷たい。けれど、その冷たさがあるから、花の色も、白い壁も、いっそう鮮やかに感じられる。

— ブルージュは、派手に心を揺らす街じゃない。でも気づくと、心の結び目がいくつか、ほどけている。そんな静かな魔法が、運河の上には確かに漂っていた。

 
 
 

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