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久能山の葵ねじ

 

朝の久能山(くのうざん)は、石段の一段ごとに海の匂いをしまっていました。朱(あか)の欄干は陽(ひ)を一枚うすくして返し、松の影は細い針で砂時計を刻みます。八歳の幹夫は、石の縁に手をついて、のぼる足(あし)と止まる足のあいだに生まれる小さな「ま」を、息のように確かめていました。上のほうで、漆(うるし)のにおいがかすかに甘く、門の彫り物は金の粉をまだらに抱いています。

 そのとき、朱の柱の陰から、薄い金色の封書が、松葉の上をすべって幹夫の足もとへ来ました。紙は笹の葉のさわり心地で、極細の字が葉脈みたいに走っています。

 — 至急 東照(とうしょう)ひかり調律所 久能山支局  昨夜のおろし風により、「照」の火点(ひだて)いっこ緩(ゆる)む。  このままでは正午のひかりが朱を照らしすぎ、  影の座がほどけます。  正午までに「葵ねじ」を一本新調し、楼門(ろうもん)内側の留(と)め金へ装着のこと。  採取物:   ① 長い石段の「のぼる」と「とまる」のあいだに輪になる間(ま)の円   ② 唐門(からもん)の唐草(からくさ)が描く渦の端(は)ひと巻   ③ 葵の三つ葉が合(あ)う金具の上に落ちる影の結び  組立:三つを撚(よ)り、ねじに成形。  提出先:楼門内側 葵座(あおいざ)

「読み書き、上手だね」

 欄干の先から、虹の切れ端みたいに肩が青い、小さな鷹(たか)がひらりと降りました。足首には細い皮ひもがひとすじ、きちんと結ばれています。

「案内係の鷹です。東照(ひがしのてらし)の『照』は、火の点が四つでできている。きのうの風で、そのうちの一つがゆるんでしまってね。朱がまぶしすぎると、影の席がなくなる。きょうは君に、葵(あおい)のねじを撚って、火点をきっと座らせてほしい」

 幹夫はうなずき、ポケットのハンカチとランドセルの余りひもを確かめました。

   *

 まずは間の円。石段の途中で立ち止まり、幹夫は右足と左足のあいだにできる、透明な輪をじっと見ました。のぼる意志と、止まる安心が、ちょうど重なって生まれる小さな円(まる)。白いハンカチの角で、その輪をそっと受けとめると、布はひやりとして、糸目の間に見えない輪がひとつ座りました。

「一本め、取れた」 鷹は尾を一度だけ上下させ、目を細めました。「つぎは渦の端。唐門の唐草は、風の描いた地図。渦のはじっこに、よく回る芽(ね)がある」

 朱の門の前で、幹夫は彫り物の陰に指をかざしました。金の唐草がひとところでくるりと巻き、ちょうどほどけそうな端を小さく光らせています。幹夫が息を合わせ、余りひもで小さな輪を作って触れると、渦は音もなく「り」と鳴って、ひもの輪へひと巻ぶん移りました。

「二本め、良いねじ芽だ」 鷹は楼門の影をぴんと張りました。「最後は影の結び。葵の三つ葉が合わさる金具の上には、いつも小さな影が結んでいる」

 金具の上で、光がひとしきり遊んだあと、三枚の葉の付け根に、濃い影の粒がひとつ、すわっていました。幹夫はハンカチの端でその影を受け、間の円渦の端のそばにそっと重ねました。布は一瞬だけ、朱の内側みたいな温度になりました。

   *

 楼門の、ひかりと影のさかい目。幹夫はひざにハンカチを広げ、三つの材料を指先で合わせました。最初はそれぞれが別の方角へ戻りたがりましたが、撚るたびに、小さく「り」「ん」「り」と鳴って、細いねじの形になっていきます。よく見ると、ねじの溝(みぞ)には、足の間の円、唐草の渦の端、葵の影の結びが、三つ綾(あや)になって流れていました。

「さ、取りつけよう」 鷹は肩の青をちらりと光らせ、楼門の内側を指しました。「葵座(あおいざ)に差し、ひと息だけ締(し)める。固すぎず、ゆるすぎず」

 幹夫は深呼吸をして、ねじを葵座にそっと当てました。ひと回し、ふた回し。ねじは、ほんの一回だけ「り」と鳴って止まりました。その瞬間、朱の面(おもて)はまばゆさを譲り、光は少しだけ影に席をわけました。門の金の粉は散りすぎず、欄干は自分の赤さを思い出します。石段の一段おきにしまってあった海の匂いが、ほんのひと匙ずつ開き、遠くの畑では苺(いちご)のビニールがぱりん、と気持ちよく鳴りました。

「できた」 幹夫が手をおろすと、鷹は空の低いところをいちど円にして、戻ってきました。「火点が座った。これで正午のひかりは、朱を照らしすぎない。影は椅子をもらえる。お礼に、切手を一枚」

 鷹が足の皮ひもの中から取り出した切手は、透明で、小さな葵の三つ葉のかたちをしていました。光にかざすと、三枚の葉の中心に、極細のねじが一本、うすく描かれて見えました。

「『葵ねじ』の切手。君の一日の光が強すぎたり、影が座れなかったりしたら、胸の地図に貼ってごらん。『ただいま』が、ひかりと影のちょうどのあいだで出てくる」

   *

 石段をおりる前、幹夫は朱の柱の陰で、お弁当の卵焼きをひとつ食べました。口のなかで甘さが小さく折り畳まれ、のどの奥でさっきのねじがもう一度だけ微かに鳴りました。欄干の朱は、指のあとを受けとめながらも、手のひらを赤く染めすぎません。

 家の門をくぐると、幹夫は声を丸くして言いました。「ただいま」

 その「ただいま」は、さっきの葵座をいちど通ってきたみたいに、照りすぎも陰りすぎもしませんでした。台所からの「おかえり」は今日の光加減で返ってきて、味噌汁の湯気は柱の木目をまっすぐのぼります。胸のなかの切手がいちどだけ淡く光り、見えない小さなねじが、心の前でそっと止まりました。

 正午。日ざしは朱を洗い、影は石段の脇に自分の椅子を置き、参道の砂は粒の順序を整えました。鳶(とび)が遠くで輪を描き、駿河の海は青の深さをひと目盛りだけ増やして見えました。

 夕方。門の金は、昼の話をきらりと短くしてから黙(だま)り、漆はひかりをうすくたたんで納めました。石段の「のぼる」と「とまる」のあいだの間の円は、帰る人たちの足もとで静かに増え、葵の金具の上では、影の結びがゆっくりとひとつ結び直されました。

 夜。久能山の空は、朱の粉で星をとめ、松の針は風の譜面の上で細く休みました。幹夫が枕に頭をのせると、胸のねじが小さく「り」と鳴り、遠くで唐草の渦の端が、夢の端とやさしく噛(か)み合いました。

 — 足の「間」  門の渦  葵の影  それらを撚って、一本のねじにすると、  ひかりと影は、  ちゃんと交代で君の胸を通る。

 朝。石段はまた海の匂いを一段ごとにしまい、朱は新しい日の一枚目を受け取りました。幹夫は靴ひもを結び直し、胸の切手の冷たさをひとつ吸いこんで、ゆっくりと学校へ向かいました。背中のどこかで、小さな葵ねじが、今日の最初の「ほどよさ」を静かに指していました。

 
 
 

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