団地の窓・朝の星座(舞台:静岡市清水区 御門台)
- 山崎行政書士事務所
- 2025年12月26日
- 読了時間: 5分

幹夫青年は、御門台の朝の白さで目がさめました。
白さといっても雪の白ではありません。御門台に雪はめったに降りません。
白いのは、冬の朝の光と、冷えた空気の透明さと、どこかの家の湯気が混ざった白さでした。
その白さは、地面の上に薄い紙を一枚敷いたみたいで、音も匂ひも、その紙の上をすべって来るのです。
幹夫は布団の中で、ふうっと息を吐きました。
白い息は見えません。けれど胸の中では、白い息がふくらんで、ほどけて、消えるのが分かりました。
消えるのに、あたたかい。
そのとき、いつもの裁判官が胸の中で机を叩きました。
――「遅い。」
――「いまさら。」
――「昨日の返事も、まだだ。」
――「朝から、どうする。」
幹夫は、その机の音が嫌ひでした。
けれど今朝は、窓の外の白さが、机の上に薄い紙を敷いて、音を鈍らせてゐました。
鈍ると、裁判官の声は少し遠くなります。
遠くなれば、起きられます。
幹夫はコートを着て、手袋をして、外へ出ました。
御門台の道は、朝になると夜より細く、そしてやさしく見えます。
家々がまだ「急がない顔」をしてゐるからです。
息を吐くと、白い息が見えました。
白い息は、街灯の残りの光の中でいちどふくらみ、それから朝の光へ溶けて消えました。
消えるのに、あたたかい。
そのあたたかさが、幹夫の肩の角を少しだけ丸くしました。
幹夫は、団地の方へ歩きました。
御門台の団地は、朝になると先に目がさめるところがあるのです。
階段の踊り場、並んだベランダ、規則正しい窓の列――それらが、朝の光の中で、急に「図」みたいになります。
団地の前で立ち止まると、窓が幾つか光ってゐました。
黄色い光。
少し白い光。
そして、まだ眠ったままの暗い四角。
幹夫は、それを見て、ふいに星座を思ひ出しました。
星は空の上に並ぶのに、窓は地面の上に並びます。
けれど、並び方が似てゐるのです。
点があって、点の間に見えない線が引ける。
線が引けると、意味が生まれます。
(朝の星座だ。)
幹夫は、胸の中でそう言ひました。
窓の灯は、だれかの台所の灯。
だれかのやかんの湯。
だれかの靴ひもの結び目。
だれかの「今日を始める」合図。
その合図は、長い説明をしません。
ただ、ぽっと点く。
点いたら、そこに人の暮しがある。
幹夫は、理科のことを思ひ出しました。
光には色があって、色には温度がある、と先生が言ったことがあります。
黄色い光は、少し低い温度の光。
白い光は、少し高い温度の光。
つまり窓の灯は、家の「熱の気分」を、外へ出してしまふのです。
(この窓は、やかんの星。)
(この窓は、トーストの星。)
(この窓は、まだ暗いけれど、もうすぐ点く星。)
幹夫は、星座の中の暗い窓を見て、胸がきゅっとなりました。
暗い窓は、悪い窓ではありません。
ただ、まだ点いてゐないだけ。
けれど幹夫の胸の裁判官は、すぐ暗い窓を「遅い」と呼びたがるのです。
――「ほら、点いてない。」
――「ほら、遅い。」
そのとき、団地の入口で、箒の音がしました。
さっ、さっ。
年配の人が、階段の下を掃いてゐました。
箒の音は短く、一定で、用水のさらさらの代りみたいでした。
一定の音は、胸の裁判官の机の音を、すこしだけぼかします。
幹夫は、反射で言ってゐました。
「おはようございます」
声は小さかったのに、朝の空気はよく運びました。
運ばれると、言葉は軽くなります。
軽い言葉は、胸を冷やしません。
箒の人は顔を上げて、にこっとしました。
「おはよう。寒いねえ。窓がきれいだよ」
窓がきれい。
そのひとことが、幹夫にはひどくうれしかった。
星座を見つけたのが、自分だけの幻ではなかったからです。
その瞬間、団地の上の方で、ひとつ窓が点きました。
暗い四角が、ぽっと黄色くなりました。
点いた、といふだけで、世界の形が少し変はります。
星座の点が一つ増えたのです。
そして遠くで、静鉄の音が短く来ました。
御門台の朝の、あの短い合図です。
ツン。
幹夫は、その音を、叱りではなく、(よし)といふ合図みたいに受け取りました。
窓が点く。
ベルが鳴る。
息が白く出る。
それだけで、朝はちゃんと始まるのです。
幹夫は、団地の窓の星座をもう一度見上げました。
空の星座は遠い。
けれど窓の星座は近い。
近いから、こちらも混ざれます。
混ざれるなら、自分も点いていい。
幹夫はポケットからスマホを出しました。
画面の白い光は正確で、少し厳しい。
けれど今朝は、団地の窓の黄色と白が、画面の白に薄い“にじみ”を足してくれる気がしました。
にじむ白は叱りません。
にじむ白は、短いものを通します。
幹夫は長い文を書きませんでした。
星座だって点だけで出来てゐる。
点を結ぶ線は、心が勝手に引く。
なら、言葉も一行でいい。
幹夫は、たった一行だけ打ちました。
――「御門台の団地の窓が朝の星座みたい。おはよう。元気?」
送信すると、胸の中で、なにかが小さく発車しました。
汽笛は鳴りません。
でも、窓の灯が点くみたいに、ことばが一つ、外へ点いたのです。
幹夫青年は、御門台の団地で大きな奇跡を見たわけではありません。
ただ、窓の灯を星座と思ひ、「おはよう」を言ひ、一行を送っただけです。
けれど、その“一行だけ”があると、朝はちゃんとあたたかい方へ進みます。
御門台の窓の星座は、今朝も静かに並びながら、ひとりの胸の中の暗い四角を、そっと点けてゐたのでした。



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