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安倍川の花火、約束をしない見上げ方

 幹夫青年が安倍川の河原へ向つたのは、誰かに誘はれたからではない。 誘はれたら誘はれたで、今度は「断つたら角が立つ」と思ひ、角が立つのが怖いから、腹の据わらぬ返事をして、結局どちらにも失礼をする――さういふ手合ひの男である。ならば最初から誘はれない方が気楽で、気楽でゐられる自分がまた少し情けない。

 それでも今夜、外へ出た。 花火の日だと聞いたからである。花火は、見ても見なくても誰にも叱られぬ。叱られぬものほど、人を動かす。叱られぬのに胸がざわつくのは、花火が「勝手にきれい」だからだ。勝手にきれいなものの前では、人間の言ひ訳は少し黙る。

 日が落ちて、町の灯が白くなつたころ、幹夫は静岡駅の方から歩き出した。 車の列が普段より遅く、警備の人が笛を吹き、浴衣の袖があちこちで揺れてゐる。屋台の匂ひが、もう道の端から忍び込んで来た。焼きとうもろこしの焦げ、ソースの甘さ、かき氷のシロップの匂ひ――匂ひは雑で、雑だからいい。丁寧に整へた匂ひは、こちらの生活を責める。雑な匂ひは、生活の方へ寄つて来る。

 河原へ近づくにつれ、人の波が太くなつた。 家族連れがレジャーシートを抱へ、学生らしい一団がやけに大きな声を出し、恋人同士が「ここでいい?」などと相談してゐる。幹夫は、それらを横目に見て、いつもの癖で少し斜に構へさうになつた。 ――皆、花火を口実にして、ちゃんと誰かとゐる。 だが、斜に構へると自分の孤独が濃くなる。濃くなる孤独は、河原の風に似合はぬ。幹夫はその癖を、今夜は一つだけ棚に上げた。

 堤防の下に降りる途中、茶の屋台が目に入つた。 紙コップと湯気。静岡の町は、何かにつけて湯気を使ふ。湯気があると、人は急に優しくなる。幹夫は思はず近づき、先に言つてしまつた。

「こんばんは」

 屋台の女は、目を細めて笑つた。

「こんばんは。暑いでしょ。冷たいのもあるけど、今日はね、温いお茶がちやうど効くよ」

 幹夫は、温い方を選んだ。選ぶのが怖い男が、今夜は迷はず選んだ。 紙コップを握ると、掌に小さな熱がのる。掌が温まると、胸の石の角が少し取れる。角が取れれば、歩ける。

 河原へ出ると、安倍川の水の音がした。 暗い中に、流れだけが白く見える。向う岸の灯が、ゆらゆらと水に映つて、落ち着かぬほどきれいだ。きれいだが、威張らない。川のきれいさは、誰にも見せびらかさぬ。見せびらかさぬきれいさは、長持ちする。

 幹夫は、人の輪の少し外れたところに腰を下ろした。 レジャーシートは持つてゐない。持つてゐないと、何だか人生が即席に見える。即席なのが恥づかしいが、今夜は即席でいい。花火は即席の天国だ。出て、消える。消えても、責任を残さぬ。

 やがて、空のどこかで、低い音がした。

 どん。

 腹へ来る音である。胸へ上がり、背骨を軽く叩いて、また川の方へ流れて行く。 続いて、しゆる、と細い音が上がつて、ぱつ、と開いた。赤が一瞬、空に咲き、次に金が散り、煙がふわりと残る。 客席が「わあ」と言ふ。言つた声が一つに揃ふと、幹夫の胸もつられて少し明るくなる。明るくなると、すぐ「明るくなつたふり」をしたくなるのが彼の癖だが、今夜はふりをしない。花火の明るさは、ふりの上に乗るとすぐ滑る。

 隣に座つてゐた年配の男が、孫らしい子どもに言つた。

「ほら、見ろ。今のは菊だな」

「また来年も見る?」

 子どもが問ふ。 男は、少し笑つて言つた。

「来年も“見られたら”見る。約束はしない。――約束すると、花火が小さくなる」

 幹夫は、その言葉に思はず耳を澄ました。 約束すると花火が小さくなる――妙な理屈だが、妙に分る。立派な約束は、こちらの胸を先に固くする。固くすると、目が上を向かなくなる。上を向かなくなると、花火が小さく見える。花火が小さく見えたら、わざわざ来た甲斐がない。

 ぱつ、ぱつ、と空が続けて咲いた。 青、紫、銀。 色が変るたびに、人の息が変る。息が変ると、幹夫の頭の中の裁判が止まる。止まつた裁判の代りに、ただ煙の匂ひが来る。火薬の匂ひは、どこか懐かしい。懐かしいのに、理由がない。理由のない懐かしさは、前向きに近い。

 幹夫は紙コップのお茶をひと口飲んだ。 温さが喉を通ると、胸の内側がほどける。ほどけたところへ、ふと、返事を遅らせてゐる名前が頭をよぎつた。 ここで「明日から変る」とか「もう二度と」などと立派な誓ひを立てるのは簡単だ。簡単だが、幹夫はその簡単さを疑ふ癖がある。誓ひは簡単に立つ。簡単に立つものほど、簡単に倒れる。

 だから幹夫は、約束をしないで、ただ一行だけ送ることにした。 スマホを出し、画面の明かりを袖で隠し、短く打つ。

 ――「いま安倍川で花火見てる。きれいだよ。元気にしてる?」

 それだけ送つて、スマホをしまつた。 返事が来るかどうかは分らぬ。分らぬが、約束ではなく挨拶なら、胸が重くならない。挨拶は、明日を縛らぬ明るさを持つてゐる。

 終盤の花火は、音も光も大きくなつた。 どん、どん、どん。 空が何度も昼になる。川の水面まで光り、顔の輪郭まで明るくなる。人の群れが一斉に上を向き、上を向いた顔が、どれも少し幼く見える。花火の下では、大人も子どもも同じやうな顔になる。幹夫は、その平等が好きだつた。

 最後の大玉が開いた。 金の雨が、空から降りるやうに散り、散りきる寸前で、もう一度だけ強く光つた。 客席が拍手をした。ぱち、ぱち、ぱち。 幹夫も、一拍だけ叩いた。

 ぱん。

 一拍で十分だ。 一拍だけでも、花火には届く気がする。届くかどうかは知らぬが、届いた気がするだけで、今夜のところは勝ちである。

 人波が立ち上がり、帰り支度を始めた。 足元には、紙コップや割り箸の袋が落ちてゐる。幹夫はひとつだけ拾ひ、近くの袋へ入れた。大げさな善行ではない。だが、花火の後の河原に、空つぽを一つ残さぬだけで、気分は少し軽い。軽い気分は、明日を決めずに持ち帰れる。

 堤防を上がると、夜風がひやりと頬を撫でた。 振り返ると、煙がまだ空に薄く漂ひ、川は相変らず流れてゐた。花火は終つたが、終りは悲しくない。花火は最初から終るものとして咲く。終るものとして咲くものは、終り方が上手い。

 幹夫青年は、安倍川の花火を見上げた。 そして、来年のことを決めなかつた。 決めなかつたが、今夜の明るさだけは決めて持ち帰つた。 約束をしない見上げ方――それは、意外に長持ちする前向きであつた。

 
 
 

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