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日本平の雲工場

 幹夫青年は、けふも朝から胸の底に、ひとつ湿つた石を入れてゐるやうな気がしてゐました。

 駅前のガラスは白く光り、車は「さあさあ」と流れ、電線の影はきちんと舗道に線を引いてゐるのに、幹夫の胸の中だけが、どうしても整列しないのです。

 ――ぼくは、何をそんなに重たくしてゐるんだらう。

 幹夫はふと空を見上げました。

 富士の方角に、ほんのりと青い影があるはずなのに、けふは雲が厚くて、輪郭が見えません。

 見えないと、なぜか胸が余計にざわつきます。見えたら見えたで、また別のざわつきが来るのに、見えないときのざわつきは、どこか「取りこぼした宿題」みたいにしつこいのでした。

 幹夫は駅の南口のバス停へ行きました。

 日本平(にほんだいら)ゆきの札が、風にすこし揺れてゐます。

 バスが来て、「ぶるる、ぶるる」と腹の底を鳴らし、扉が「ぷしゅう」と開きました。

 幹夫は窓ぎはに腰をおろして、町が後ろへ下がつてゆくのを見てゐました。

 呉服町の看板が遠のき、茶畑の緑が増え、空の色が少しずつ広がります。

 山の方の道へ入ると、風の匂ひが変はりました。土の匂ひ、茶の葉の青い匂ひ、そこへ遠い海の塩が、針みたいにすうつと刺さるのです。

 やがて日本平の展望地の近くで降りると、そこはもう、町の音が薄くなつてゐました。

 かわりに、風の音がよく聞こえます。

 「すう……」

 「ごう……」

 風は、どこから来てどこへ行くのか分りませんが、行つたり来たりしてゐるやうで、ほんたうはいつも、どこかへ「運んで」ゐるのです。

 展望台へ上がると、眼の前に雲がゐました。

 雲は白いといふより、白さの中に灰いろの線が混じり、しかもその線が、ゆつくり「くるり、くるり」と動いてゐます。

 雲の動きは、ただ流れてゐるのではありません。どこかで回転してゐる。回転しながら、形をこしらへてゐる。

 幹夫は手すりにもたれて、しばらく見てゐました。

 すると、雲の向うから、かすかに、機械のやうな唸りが聞こえて来たのです。

 「……ぶうん……」

 「……がしゃ……がしゃ……」

 「……しゅう……」

 幹夫は耳を澄ませました。

 展望台の売店の冷蔵庫の音ではありません。

 観光バスのエンジンでもありません。

 もっと高くて、もっと透明で、それでゐて、たしかに「働いてゐる」音でした。

 幹夫は、その音の方へ歩いてゆきました。

 展望台の裏手に、細い道があり、そこは松の木が少し密で、風が松葉をこすつて、

 「さらさら、さらさら……」

 と鳴るのです。

 松の音に混じつて、さつきの機械の唸りが、だんだんはつきりして来ました。

 道の先に、霧のやうな雲の切れ目があつて、そこに、古い木の札がぶら下がつてゐました。

 札には、白い字で、こんなふうに書いてあります。

 「雲工場 入口

  関係者以外立入注意

  (第七気団班)」

 幹夫青年は、思はず笑ひさうになりました。

 雲工場――。

 そんなものがあるはずがありません。

 けれども幹夫は、なぜだかそこを「嘘」とは思へなかつたのです。

 嘘なら、こんなに風が正確に鳴くはずがない。

 嘘なら、こんなに雲が規則正しく回るはずがない。

 幹夫が雲の切れ目へ一歩入ると、空気がふいに冷たくなり、同時に、頬のまはりが「しゅわっ」と湿りました。

 雲の中は、霧の粒がたくさん浮いてゐて、それが皮膚へぶつかつて、すぐまた逃げるのです。

 その粒がぶつかるたび、幹夫の胸の底の石が、少しだけ「ころり」と位置を変へるやうに感じました。

 雲の中を抜けると、そこは、ひろい室内みたいになつてゐました。

 天井は雲、壁も雲、床も雲です。

 けれども真ん中に、鉄とガラスでできた大きな機械が並び、歯車が「かち、かち」と回り、ベルトが「しゃらら」と走り、細い管から蒸気が「しゅう」と出てゐるのです。

 そして、その機械のあひだを、小さな者たちが走り回つてゐました。

 小さな者たちは、白い作業着を着て、目に銀いろのゴーグルをつけ、背中に小さな箱をしよつてゐます。箱の横には、細い字で、

 「露点計」

 「湿度弁」

 「凝結核カートリッジ」

 などと書いてありました。

 幹夫がぼんやり立つてゐると、いちばん手前の機械の上から、声がしました。

 ――ミキオ青年。

 ――ヨク来タ。

 ――キミ、タメイキ、多イ。

 ――イマ、必要。

 幹夫はびつくりして、自分の胸を指さしました。

 「え……ぼく?」

 小さな者たちの中から、少し背の高い者が出て来ました。

 帽子の縁に、雲の糸がついてゐて、胸には、青い札がぶら下がつてゐます。

 「輪郭係(りんかくがかり)」

 と書いてありました。

 輪郭係は、雲の壁の向うを指さしました。

 向うの雲のスクリーンに、富士山の影が映つてゐるのです。

 けれどもその影が、すこしだけ歪んでゐました。

 頂上のところが、ほんの少し丸い。

 左肩のところが、ほんの少し欠けてゐる。

 輪郭係は言ひました。

 ――キョウ、風向(ふうかう)ズレ。

 ――上昇気流(じやうしようきりう)強スギ。

 ――雲、伸ビル。

 ――富士ノ輪郭、ズレル。

 ――ズレルト、下(した)が困ル。

 「下……?」

 幹夫が訊くと、輪郭係は、雲の床の隅に置かれた、透明の板を叩きました。

 板の中には、小さな町が映つてゐます。静岡の町です。

 茶畑があり、港があり、川があり、屋根があり、そこを小さな人が動いてゐます。

 輪郭係は、指先で一人の小さな影を示しました。

 病院の窓辺に、子どもがゐました。

 子どもは窓の外を見てゐて、けれども雲が厚くて、富士が見えません。

 子どもの顔が、少しだけしよんぼりしてゐます。

 輪郭係は言ひました。

 ――アノ子、毎晩、富士数エル。

 ――見エルト、食ベル。

 ――見エナイト、食ベナイ。

 ――タマニ、少シダケ、見セル。

 ――少シダケ、輪郭。

 幹夫の胸が、きゅうとしました。

 富士の輪郭を数へる――。

 それは、ばかばかしいやうで、たしかに「祈り」のやうでもあります。

 輪郭係は、機械の中央の大きな筒を指さしました。

 筒には、

 「呼気ボイラー(こきボイラー)」

 と書いてあります。

 ――ミキオ青年。

 ――キミノ息、湿リ、多イ。

 ――タメイキ、蒸気(じようき)。

 ――蒸気、糸(いと)。

 ――糸、雲。

 ――雲、輪郭。

 幹夫は思はず、胸の中の石をさはりました。

 ため息は、いつも役に立たないものだと思つてゐました。

 ため息は、逃げ道だと思つてゐました。

 けれども、ここでは、ため息が仕事の材料なのです。

 幹夫は筒の前に立ちました。

 筒の口は、ちやうどラッパのやうにひらいてゐて、ふちが少し温かい。

 輪郭係が、レバーを「かちん」と下げました。

 すると機械が、

 「ぶうん……」

 「がしゃ……」

 「しゅう……!」

 と一段と強く鳴り、筒の中が淡く光りました。

 ――イマ。

 ――タメイキ、一本。

 ――長ク。

 ――静カニ。

 幹夫は息を吸ひました。

 雲の匂ひがしました。冷たい水の匂ひ。

 それから幹夫は、胸の底の石を、そのまま息に乗せるやうにして、長く吐きました。

 「ふうう……」

 筒の中が「しゅわあ」と白くなりました。

 吐いた息が、筒の中で冷えて、細かい霧になつて、霧が糸のやうに集まるのです。

 ガラスの管の中を、小さな水の糸が走り、

 「さらさら、さらさら」

 と鳴りながら、奥の機械へ運ばれてゆきました。

 輪郭係が叫びました。

 ――糸、来タ!

 ――凝結核(ぎようけつかく)、入レロ!

 ――塩粒(しほつぶ)三つ!

 ――花粉(かふん)一つ!

 ――氷晶(ひようしよう)二つ!

 小さな者たちが走り回り、カートリッジを「かち、かち」と差し込みました。

 すると機械の上の大きな輪が回り、

 「ごうん……ごうん……」

 と低く唸り、雲の糸が織機(しよつき)のやうに織られはじめました。

 雲は布になり、布は波になり、波はふいに、富士の輪郭の形へ曲がつてゆきます。

 雲のスクリーンに映る富士の影が、少しずつ直つてゆきました。

 頂上の線が、すつと尖り、左肩の欠けが埋まりました。

 輪郭係は、テンプレートの板を、細い棒で「とん、とん」と叩きながら調整しました。

 ――二分(にぶ)下げ。

 ――北西(ほくせい)へ一尺(いつしやく)寄せ。

 ――露点(ろてん)〇・三上げ。

 ――ヨシ。

 幹夫は、ぼんやりその作業を見てゐました。

 雲が、たしかに「作られて」ゐます。

 雲は勝手に生まれるものだと思つてゐたのに、ここでは、雲は糸で、布で、製品でした。

 しかもその製品は、誰かの窓のために、誰かの「食べる」ために、少しだけ形を変へるのです。

 輪郭係が、もう一度言ひました。

 ――ミキオ青年。

 ――モウ一本。

 ――今度ハ、少シ、あたたかい息。

 ――「うれしい」ヲ混ゼロ。

 幹夫は戸惑ひました。

 うれしい――。

 そんなものは、胸のどこにあるのか分りません。

 けれども幹夫は、ふとさつきの病院の子どもの顔を思ひ出しました。

 富士が見えたら食べる。

 その「見えた」の一瞬のために、雲の工場が働いてゐる。

 幹夫は、胸の底の石のわきに、ちいさな火種のやうなものを探しました。

 そして、ほんの少しだけ見つけました。

 それは、うれしいといふより、温かいといふより、ただ「やつてみる」といふ小さな決心みたいなものです。

 幹夫は息を吸ひ、今度は少しだけ口もとをゆるめて、吐きました。

 「ふう……」

 筒の中の霧が、さつきより少しだけ、淡い黄金を帯びました。

 機械が「きいん」と高い音を出して、雲の糸がまた走りました。

 その瞬間、雲の壁の向うの町の映像で、病院の窓の子どもが、ぱつと顔を上げました。

 そして、唇が動きました。

 「……見えた」

 声は届きません。

 けれども幹夫の胸の中で、その言葉が「こつ」と鳴りました。

 こつ、と鳴つた瞬間、胸の底の石が、すこしだけ軽くなりました。

 軽くなつたのではありません。

 石が「道具箱の重さ」になつたのです。運べる重さ。役に立つ重さ。

 輪郭係は、ゴーグルの奥で、にやりと笑つたやうでした。

 ――ヨシ。

 ――本日ノ輪郭、完成。

 ――雲ハ、隠ス日モ、見セル日モアル。

 ――見セルトキハ、少シダケ。

 ――少シダケガ、効ク。

 小さな者たちは一斉に、工具を片づけ、弁を閉め、記録紙にカタカタと書き込みました。

 紙には、

 「第七気団班 富士輪郭調整 完」

 「供給者:ミキオ青年(呼気)」

 と、きちんと記されました。

 幹夫青年は、しばらく立ち尽くしてゐました。

 自分のため息が、雲になり、富士の輪郭になり、誰かの「見えた」になつた。

 そんなことは、学校の教科書には書いてありません。

 けれども、教科書にない仕事の方が、世の中にはたくさんあるのです。

 輪郭係は、幹夫の掌へ、小さな白い綿の玉をのせました。

 それは雲の切れ端で、触ると、

 「ひんやり」

 とし、すぐに

 「ふわり」

 と形が変はりました。

 ――コレ、雲票(くもひよう)。

 ――キミ、帰ル途中、雨(あめ)ニナルカモ。

 ――雨ハ、茶畑へ行ク。

 ――茶畑ハ、また光ヲ作ル。

 ――循環(じゆんかん)。

 幹夫はうなづきました。

 循環――。

 循環は、ぐるぐる回るだけで、どこへも行かないやうに見えて、ほんたうは、少しずつ場所を変へるのです。

 水が雲になり、雲が雨になり、雨が茶になる。茶が人の身体に入り、息になり、また雲になる。

 幹夫は雲の切れ目を抜けて、外へ出ました。

 すると風が「すう」と頬を撫で、空の色がいつの間にか暮れに近づいてゐました。

 展望台へ戻ると、富士の方角に、ほんのすこしだけ、輪郭が見えました。

 雲の間に、きりりとした三角の線が、短い時間だけ現れて、それからまた雲がかぶさりました。

 ――少しだけ。

 幹夫はその「少しだけ」を、胸の中で反復しました。

 少しだけ。

 少しだけ。

 少しだけが、効く。

 幹夫青年は、日本平の坂を下りはじめました。

 茶畑の方から、青い匂ひが上がつて来ます。

 どこかで、ほんの小さな雨粒が「ぽつ」と落ちました。

 雨はすぐ止みました。

 けれどもその「ぽつ」は、幹夫の胸の底へも落ちて、井戸の水面を、ちいさく丸く震はせました。

 幹夫青年は、ポケットの中の雲票が、ふわりと形を変へるのを感じながら、静岡の町の灯の方へ帰つて行きました。

 雲は遠くから来る。

 けれども雲は、近いところで使はれる。

 そして、幹夫のため息も、いつかどこかの「近いところ」で、また仕事になるのだと思へました。

 
 
 

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