日本平の雲工場
- 山崎行政書士事務所
- 2025年12月22日
- 読了時間: 9分

幹夫青年は、けふも朝から胸の底に、ひとつ湿つた石を入れてゐるやうな気がしてゐました。
駅前のガラスは白く光り、車は「さあさあ」と流れ、電線の影はきちんと舗道に線を引いてゐるのに、幹夫の胸の中だけが、どうしても整列しないのです。
――ぼくは、何をそんなに重たくしてゐるんだらう。
幹夫はふと空を見上げました。
富士の方角に、ほんのりと青い影があるはずなのに、けふは雲が厚くて、輪郭が見えません。
見えないと、なぜか胸が余計にざわつきます。見えたら見えたで、また別のざわつきが来るのに、見えないときのざわつきは、どこか「取りこぼした宿題」みたいにしつこいのでした。
幹夫は駅の南口のバス停へ行きました。
日本平(にほんだいら)ゆきの札が、風にすこし揺れてゐます。
バスが来て、「ぶるる、ぶるる」と腹の底を鳴らし、扉が「ぷしゅう」と開きました。
幹夫は窓ぎはに腰をおろして、町が後ろへ下がつてゆくのを見てゐました。
呉服町の看板が遠のき、茶畑の緑が増え、空の色が少しずつ広がります。
山の方の道へ入ると、風の匂ひが変はりました。土の匂ひ、茶の葉の青い匂ひ、そこへ遠い海の塩が、針みたいにすうつと刺さるのです。
やがて日本平の展望地の近くで降りると、そこはもう、町の音が薄くなつてゐました。
かわりに、風の音がよく聞こえます。
「すう……」
「ごう……」
風は、どこから来てどこへ行くのか分りませんが、行つたり来たりしてゐるやうで、ほんたうはいつも、どこかへ「運んで」ゐるのです。
展望台へ上がると、眼の前に雲がゐました。
雲は白いといふより、白さの中に灰いろの線が混じり、しかもその線が、ゆつくり「くるり、くるり」と動いてゐます。
雲の動きは、ただ流れてゐるのではありません。どこかで回転してゐる。回転しながら、形をこしらへてゐる。
幹夫は手すりにもたれて、しばらく見てゐました。
すると、雲の向うから、かすかに、機械のやうな唸りが聞こえて来たのです。
「……ぶうん……」
「……がしゃ……がしゃ……」
「……しゅう……」
幹夫は耳を澄ませました。
展望台の売店の冷蔵庫の音ではありません。
観光バスのエンジンでもありません。
もっと高くて、もっと透明で、それでゐて、たしかに「働いてゐる」音でした。
幹夫は、その音の方へ歩いてゆきました。
展望台の裏手に、細い道があり、そこは松の木が少し密で、風が松葉をこすつて、
「さらさら、さらさら……」
と鳴るのです。
松の音に混じつて、さつきの機械の唸りが、だんだんはつきりして来ました。
道の先に、霧のやうな雲の切れ目があつて、そこに、古い木の札がぶら下がつてゐました。
札には、白い字で、こんなふうに書いてあります。
「雲工場 入口
関係者以外立入注意
(第七気団班)」
幹夫青年は、思はず笑ひさうになりました。
雲工場――。
そんなものがあるはずがありません。
けれども幹夫は、なぜだかそこを「嘘」とは思へなかつたのです。
嘘なら、こんなに風が正確に鳴くはずがない。
嘘なら、こんなに雲が規則正しく回るはずがない。
幹夫が雲の切れ目へ一歩入ると、空気がふいに冷たくなり、同時に、頬のまはりが「しゅわっ」と湿りました。
雲の中は、霧の粒がたくさん浮いてゐて、それが皮膚へぶつかつて、すぐまた逃げるのです。
その粒がぶつかるたび、幹夫の胸の底の石が、少しだけ「ころり」と位置を変へるやうに感じました。
雲の中を抜けると、そこは、ひろい室内みたいになつてゐました。
天井は雲、壁も雲、床も雲です。
けれども真ん中に、鉄とガラスでできた大きな機械が並び、歯車が「かち、かち」と回り、ベルトが「しゃらら」と走り、細い管から蒸気が「しゅう」と出てゐるのです。
そして、その機械のあひだを、小さな者たちが走り回つてゐました。
小さな者たちは、白い作業着を着て、目に銀いろのゴーグルをつけ、背中に小さな箱をしよつてゐます。箱の横には、細い字で、
「露点計」
「湿度弁」
「凝結核カートリッジ」
などと書いてありました。
幹夫がぼんやり立つてゐると、いちばん手前の機械の上から、声がしました。
――ミキオ青年。
――ヨク来タ。
――キミ、タメイキ、多イ。
――イマ、必要。
幹夫はびつくりして、自分の胸を指さしました。
「え……ぼく?」
小さな者たちの中から、少し背の高い者が出て来ました。
帽子の縁に、雲の糸がついてゐて、胸には、青い札がぶら下がつてゐます。
「輪郭係(りんかくがかり)」
と書いてありました。
輪郭係は、雲の壁の向うを指さしました。
向うの雲のスクリーンに、富士山の影が映つてゐるのです。
けれどもその影が、すこしだけ歪んでゐました。
頂上のところが、ほんの少し丸い。
左肩のところが、ほんの少し欠けてゐる。
輪郭係は言ひました。
――キョウ、風向(ふうかう)ズレ。
――上昇気流(じやうしようきりう)強スギ。
――雲、伸ビル。
――富士ノ輪郭、ズレル。
――ズレルト、下(した)が困ル。
「下……?」
幹夫が訊くと、輪郭係は、雲の床の隅に置かれた、透明の板を叩きました。
板の中には、小さな町が映つてゐます。静岡の町です。
茶畑があり、港があり、川があり、屋根があり、そこを小さな人が動いてゐます。
輪郭係は、指先で一人の小さな影を示しました。
病院の窓辺に、子どもがゐました。
子どもは窓の外を見てゐて、けれども雲が厚くて、富士が見えません。
子どもの顔が、少しだけしよんぼりしてゐます。
輪郭係は言ひました。
――アノ子、毎晩、富士数エル。
――見エルト、食ベル。
――見エナイト、食ベナイ。
――タマニ、少シダケ、見セル。
――少シダケ、輪郭。
幹夫の胸が、きゅうとしました。
富士の輪郭を数へる――。
それは、ばかばかしいやうで、たしかに「祈り」のやうでもあります。
輪郭係は、機械の中央の大きな筒を指さしました。
筒には、
「呼気ボイラー(こきボイラー)」
と書いてあります。
――ミキオ青年。
――キミノ息、湿リ、多イ。
――タメイキ、蒸気(じようき)。
――蒸気、糸(いと)。
――糸、雲。
――雲、輪郭。
幹夫は思はず、胸の中の石をさはりました。
ため息は、いつも役に立たないものだと思つてゐました。
ため息は、逃げ道だと思つてゐました。
けれども、ここでは、ため息が仕事の材料なのです。
幹夫は筒の前に立ちました。
筒の口は、ちやうどラッパのやうにひらいてゐて、ふちが少し温かい。
輪郭係が、レバーを「かちん」と下げました。
すると機械が、
「ぶうん……」
「がしゃ……」
「しゅう……!」
と一段と強く鳴り、筒の中が淡く光りました。
――イマ。
――タメイキ、一本。
――長ク。
――静カニ。
幹夫は息を吸ひました。
雲の匂ひがしました。冷たい水の匂ひ。
それから幹夫は、胸の底の石を、そのまま息に乗せるやうにして、長く吐きました。
「ふうう……」
筒の中が「しゅわあ」と白くなりました。
吐いた息が、筒の中で冷えて、細かい霧になつて、霧が糸のやうに集まるのです。
ガラスの管の中を、小さな水の糸が走り、
「さらさら、さらさら」
と鳴りながら、奥の機械へ運ばれてゆきました。
輪郭係が叫びました。
――糸、来タ!
――凝結核(ぎようけつかく)、入レロ!
――塩粒(しほつぶ)三つ!
――花粉(かふん)一つ!
――氷晶(ひようしよう)二つ!
小さな者たちが走り回り、カートリッジを「かち、かち」と差し込みました。
すると機械の上の大きな輪が回り、
「ごうん……ごうん……」
と低く唸り、雲の糸が織機(しよつき)のやうに織られはじめました。
雲は布になり、布は波になり、波はふいに、富士の輪郭の形へ曲がつてゆきます。
雲のスクリーンに映る富士の影が、少しずつ直つてゆきました。
頂上の線が、すつと尖り、左肩の欠けが埋まりました。
輪郭係は、テンプレートの板を、細い棒で「とん、とん」と叩きながら調整しました。
――二分(にぶ)下げ。
――北西(ほくせい)へ一尺(いつしやく)寄せ。
――露点(ろてん)〇・三上げ。
――ヨシ。
幹夫は、ぼんやりその作業を見てゐました。
雲が、たしかに「作られて」ゐます。
雲は勝手に生まれるものだと思つてゐたのに、ここでは、雲は糸で、布で、製品でした。
しかもその製品は、誰かの窓のために、誰かの「食べる」ために、少しだけ形を変へるのです。
輪郭係が、もう一度言ひました。
――ミキオ青年。
――モウ一本。
――今度ハ、少シ、あたたかい息。
――「うれしい」ヲ混ゼロ。
幹夫は戸惑ひました。
うれしい――。
そんなものは、胸のどこにあるのか分りません。
けれども幹夫は、ふとさつきの病院の子どもの顔を思ひ出しました。
富士が見えたら食べる。
その「見えた」の一瞬のために、雲の工場が働いてゐる。
幹夫は、胸の底の石のわきに、ちいさな火種のやうなものを探しました。
そして、ほんの少しだけ見つけました。
それは、うれしいといふより、温かいといふより、ただ「やつてみる」といふ小さな決心みたいなものです。
幹夫は息を吸ひ、今度は少しだけ口もとをゆるめて、吐きました。
「ふう……」
筒の中の霧が、さつきより少しだけ、淡い黄金を帯びました。
機械が「きいん」と高い音を出して、雲の糸がまた走りました。
その瞬間、雲の壁の向うの町の映像で、病院の窓の子どもが、ぱつと顔を上げました。
そして、唇が動きました。
「……見えた」
声は届きません。
けれども幹夫の胸の中で、その言葉が「こつ」と鳴りました。
こつ、と鳴つた瞬間、胸の底の石が、すこしだけ軽くなりました。
軽くなつたのではありません。
石が「道具箱の重さ」になつたのです。運べる重さ。役に立つ重さ。
輪郭係は、ゴーグルの奥で、にやりと笑つたやうでした。
――ヨシ。
――本日ノ輪郭、完成。
――雲ハ、隠ス日モ、見セル日モアル。
――見セルトキハ、少シダケ。
――少シダケガ、効ク。
小さな者たちは一斉に、工具を片づけ、弁を閉め、記録紙にカタカタと書き込みました。
紙には、
「第七気団班 富士輪郭調整 完」
「供給者:ミキオ青年(呼気)」
と、きちんと記されました。
幹夫青年は、しばらく立ち尽くしてゐました。
自分のため息が、雲になり、富士の輪郭になり、誰かの「見えた」になつた。
そんなことは、学校の教科書には書いてありません。
けれども、教科書にない仕事の方が、世の中にはたくさんあるのです。
輪郭係は、幹夫の掌へ、小さな白い綿の玉をのせました。
それは雲の切れ端で、触ると、
「ひんやり」
とし、すぐに
「ふわり」
と形が変はりました。
――コレ、雲票(くもひよう)。
――キミ、帰ル途中、雨(あめ)ニナルカモ。
――雨ハ、茶畑へ行ク。
――茶畑ハ、また光ヲ作ル。
――循環(じゆんかん)。
幹夫はうなづきました。
循環――。
循環は、ぐるぐる回るだけで、どこへも行かないやうに見えて、ほんたうは、少しずつ場所を変へるのです。
水が雲になり、雲が雨になり、雨が茶になる。茶が人の身体に入り、息になり、また雲になる。
幹夫は雲の切れ目を抜けて、外へ出ました。
すると風が「すう」と頬を撫で、空の色がいつの間にか暮れに近づいてゐました。
展望台へ戻ると、富士の方角に、ほんのすこしだけ、輪郭が見えました。
雲の間に、きりりとした三角の線が、短い時間だけ現れて、それからまた雲がかぶさりました。
――少しだけ。
幹夫はその「少しだけ」を、胸の中で反復しました。
少しだけ。
少しだけ。
少しだけが、効く。
幹夫青年は、日本平の坂を下りはじめました。
茶畑の方から、青い匂ひが上がつて来ます。
どこかで、ほんの小さな雨粒が「ぽつ」と落ちました。
雨はすぐ止みました。
けれどもその「ぽつ」は、幹夫の胸の底へも落ちて、井戸の水面を、ちいさく丸く震はせました。
幹夫青年は、ポケットの中の雲票が、ふわりと形を変へるのを感じながら、静岡の町の灯の方へ帰つて行きました。
雲は遠くから来る。
けれども雲は、近いところで使はれる。
そして、幹夫のため息も、いつかどこかの「近いところ」で、また仕事になるのだと思へました。





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