正午の中途
- 山崎行政書士事務所
- 2025年12月29日
- 読了時間: 6分

ガソリンの匂いは、いつも朝に強い。港の防波堤で釣り人が缶を開けるときの匂い、草刈り機が咳き込むときの匂い、夏の舗道が熱で汗をかくときの匂い。——平和の匂いのはずなのに、私の鼻はそれを嗅ぐたび、別の海へ引きずり戻される。
ミッドウェー、と人は言う。英語の響きは軽い。軽い言葉ほど危険だ。軽い言葉は重い死体の上に平気で載る。だが私にとってそれは、地名ではなく「半途」——何かがちょうど半分で折れた場所の名である。
あの日、甲板は朝から白かった。白は潔白ではない。白は、汚れが目立つことを最初から知っている者の色だ。陽が上がるにつれ、鉄板は白く照り返し、眼が痛むほど明るくなった。明るさは祝福ではない。明るさは、破滅の舞台装置になる。
私は赤城の飛行甲板の端、燃料ホースのそばにいた。整備兵という名は上等だが、実際は油と汗の係で、命令と怒鳴り声のあいだに立って、ただ「間に合うように」動く役だった。間に合う、という言葉は生活の言葉だ。生活の言葉で死を運ぶのが、戦争のいちばん不潔なところだ。
「急げ! 吊り上げろ!」
格納庫から上がってくる機体は、腹に魚雷を抱えていた。魚雷は滑稽なほど大きく、あまりに大きいから、こちらの死が小さく見えた。死が小さく見える瞬間、人は大胆になる。大胆さは勇気に似ている。似ているから、胆力は最も危険な毒になる。
甲板に並ぶ爆弾と魚雷と、剥き出しの燃料缶。それらは、まるで祭りの準備のように整っていた。整っているものほど怖い。整ったものは、ひとたび崩れると「美しく」見えるからだ。美しく崩れる死は、後世に磨かれ、光らされ、飾られる。飾られた死ほど、次の死を呼ぶ。
私はその誘惑を、まだ知らない顔で嫌っていた。嫌っているくせに、甲板の光景に、どこか胸が熱くなるのを止められなかった。熱は罪の火種だ。火種は、誰かの正しさに火を点ける。
副長が走り、伝声管が喚き、通信員が紙を握り潰す。紙は軽い。軽い紙が艦を沈める。「敵機接近」その四字は、どんな砲声より先に骨へ来る。骨へ来る音は思想を剥がす。剥がれた思想の下に残るのは、喉の渇きと、掌の汗と、逃げたいという裸の声だけだ。
空が鳴った。いや、空ではない。人間の作ったエンジンの群れが空を踏んだのだ。第一波の雷撃機が低く来た。海面すれすれの影が走り、対空砲が吠え、海が白い柱を立てた。白は潔白ではない。白は血をいちばん鮮やかに見せる背景だ。水柱の白さに見惚れそうになり、私は自分を憎んだ。美しさに見惚れた瞬間、殺しは清められた気になる。
「弾薬、運べ!」
私は走った。走る背中は美しくない。美しくない背中は物語にならない。物語にならないことが、いまの私の唯一の救いだった。しかし、走っても走っても、甲板は「間に合わない」。間に合わない、という感覚だけが濃くなっていく。濃いものほど現実だ。
そのとき、時間が裂けた。
上空から、静かな影が落ちてきた。雷撃機の荒々しい低空とは違う。影は高いところから、一直線に、ほとんど「美しい姿勢」で落ちてくる。急降下爆撃機。落ち方があまりに端正で、私は吐き気を覚えた。端正さは様式だ。様式は、死を軽くする。
「伏せろ!」
叫びが遅れた。遅れは罪に似ている。遅れた罪ほど深く刺さる。次の瞬間、甲板の白が一度だけ、別の白に変わった。閃光。白は潔白ではない。白は、すべての汚れを一瞬で露わにする。
衝撃。世界が止まり、次に「ずれる」。ずれは巨体にとって致命だ。鉄が鳴り、木が裂け、空気が焼け、油が匂いで先に来た。油の甘い焦げは、腐敗の前触れだ。甘いものは腐る。腐った甘さの上で、人はどんな正義でも語れる。
火が走った。火は舌を持つ。舌を持つ火は言葉を飲み込む。甲板の上に並んでいた魚雷が、まるで怒った獣の腹のように震えた。震えは、こちらの腹の中にも伝わる。腹は思想を持たない。思想を持たぬ腹ほど、戦場では正直だ。
私は、片腕で燃料ホースを投げ捨て、もう片腕で隣の若い整備兵を掴んだ。彼の名は片山だった。片山の頬に煤がつき、眼だけが澄んでいた。澄んだ眼は危険だ。澄んだ眼は、死を美に変えやすい。
「生きろ!」
私は言ってしまった。生きろ、という言葉ほど無責任なものはない。無責任だからこそ、胸に刺さる。刺さった言葉は、こちらの逃げ道を塞ぐ。逃げ道を塞がれた者は、醜く生き残る。
片山は何か言おうとした。だが言葉は煙に削られ、削られた言葉は喉の奥で血の味に変わった。血の味は温かい。温かい現実は、どんな標語より強い。
次の爆発で、片山の身体が私の手から抜けた。抜けた感触が、いまでも掌に残っている。残るものほど残酷だ。残るものは、洗えない。洗えないものほど、後で「意味」を求めたくなる。
私は転び、甲板の端に膝を打ち、眼の前に海が見えた。海は青い。青は無関心の色だ。無関心の青の上で、艦は燃え、燃える艦の黒煙が真昼を汚した。真昼が汚れるとき、世界は妙に「完成」して見える。完成は美しい。美しい完成ほど危険だ。危険なのに、私はその光景から目を逸らせなかった。目を逸らせぬことが、いま自分に残された唯一の責任のように思えた。
「退艦!」
誰かが叫んだ。命令は、意味を運ぶ前に音になる。音だけの命令ほど残酷なものはない。私は手すりを越え、海へ落ちた。
水は冷たかった。冷たさは正しい。正しい冷たさが、甲板の白い誘惑を叱った。だが水は同時に油を抱いていた。油は黒い。黒い油は昼の海を夜にする。夜になった海は、どこまでも粘り、皮膚に貼りつき、息を奪う。息を奪うものほど、現実だ。
水面に顔を出すと、赤城が傾いていた。あの巨大な飛行甲板が、まるで折れた翼のように沈みかけている。「中途」——という言葉が胸に浮かんだ。沈むでもなく、浮くでもなく、燃えるでもなく、消えるでもない。ただ、半分で折れた形。
その折れた形の上で、私は初めて自分の中の幼い欲望を見た。——あの艦と一緒に、きれいに終わりたかった。終わりがきれいなら、説明が要らない。説明のない終わりほど甘いものはない。だが甘いものは腐る。腐った甘さの上で、次の若者がまた「きれいな終わり」を欲しがる。
私はその連鎖が嫌だった。嫌だったから、私は泳いだ。醜く、油にまみれ、息を吐き、咳をし、恥を抱えたまま泳いだ。
救助の縄が降りてきたとき、縄の粗い繊維が指に刺さった。刺さる痛みは生の証拠だ。生の証拠ほど、戦場では恥ずかしい。私はその恥を握り締めて引き上げられた。甲板の木が冷たかった。冷たさは正しい。正しい冷たさが、私に「生き残った」と告げた。
生き残るという事実は、いつも半途だ。死ねば完成する。生きれば、未完成が続く。未完成は臭い。臭い未完成の中でしか、戦争を美談にしない記憶は保てない。
港の防波堤で、私はまたガソリンの匂いを嗅ぐ。平和の匂いなのに、胸の奥の引き出しが勝手に開く。ミッドウェー——半途。あの正午に折れた形が、私の中でまだ燃えている。
燃えているものを、私は消さない。消せば、きっと楽になる。楽は甘い。甘い楽は腐る。腐った楽の上で、人はまた「正しい戦争」を語りたがる。
だから私は、臭いまま抱える。油の甘い焦げ、塩の冷たさ、抜けた手の感触。それらが美しくならないように。物語になりすぎないように。そして、半途のまま生きる者だけに許される、いちばん醜く、いちばん誠実な抵抗として。



コメント