第26章 久米歌、声が矢を先回りする
- 山崎行政書士事務所
- 2月12日
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第四部「道の骨、東の光」
第26章 久米歌、声が矢を先回りする
声は、空気を踏む。足は、土を踏む。先に届くのは、いつも声だ。——矢より早く胸に刺さるものがあると、戦は少しだけ祭に寄る。
「……歌、入れるのか」
ナガタが言った。宇陀の霧の余韻がまだ机の上に溜まっていて、湯呑みの湯気すら重く見える。湯気が重いとき、紙の上の言葉も重い。重い言葉は、ちょっとした拍子で黄泉へ寄る。寄りすぎると、読者の息が止まる。
「入れる」私は頷いた。墨を少し薄める。黒を薄めるのは弱さじゃない。歌には“余白”が要る。余白がない歌は、ただの号令になる。
ナガタが眉を寄せる。
「でもさ、歌って書くと変じゃね?歌って、聞くもんだろ」「そうだ」私は硯の水面を見た。「だから書くときは、歌を“声の道具”として書く。言葉の意味じゃなく、届き方を書く」
ナガタが例の札をひらひらさせる。
— 一書曰く、久米の勇士、歌ひて進む。— 一書曰く、歌をもって敵を挫く。
「ほら、書紀がもう“歌で挫く”って言ってる」「書紀が言うなら、書くしかない」「役所が歌で敵を挫くな」「役所は挫かない。俺たちが挫く」
ナガタが吹き出しかけて、こらえた。
「で、久米歌って、どういうやつだよ。上品じゃないやつだろ、たぶん」「上品じゃない」私は即答した。「上品じゃないのが、久米の良さだ。汗の匂いがする。土の匂いがする。塩の匂いがする。——国の匂いがする」
ナガタは、嫌そうな顔をしながらも、少しだけ嬉しそうだった。嫌そうな顔で嬉しそうな顔をするのは、彼がこの国の読者だからだ。
「……じゃあ書け。声が矢を先回りするところまで」
私は筆を取った。
——久米の人、歌ひて歩み、霧の盆地に声を通したり。
宇陀の霧は、まだ完全には晴れていなかった。
晴れかけの霧は、いちばん厄介だ。見えるようで見えない。見えないようで見える。その“半分”のせいで、心が落ち着かない。落ち着かない心は、罠に弱い。罠に弱い心は、また床を抜かれる。
伊波礼毘古(いわれびこ)は、息を吸って、吐いた。
吐いた息が霧に混ざり、霧は霧のまま少しだけ動く。動いた霧は、言葉の形を作る――作らない。宇陀は、そういう土地だ。言葉が立ち上がりそうで立ち上がらない。立ち上がらないから、腹の底が冷える。
冷える空気の中で、ひとりの男が前に出た。
大久米(おおくめ)。
久米の頭(かしら)と呼ばれる者。肩が広い。声が太い。太い声を持つ者は、風土に勝つのではなく、風土と並んで立てる。
大久米は、霧を見て鼻で笑った。
「……霧が溜まってるな。溜まってるなら、声で割るぞ」
割る、という言い方が好きだ。熊野では雨が割れなかった。でも霧なら割れる。霧は雨ほど意地が悪くない。霧は“溜めるだけ”で、押し返してこない。
久米の者たちが集まる。
歩き方が、もう歌を知っている歩き方だ。足の運びが少し跳ねる。跳ねる足は、湿った土に強い。湿った土は滑るが、跳ねる足は滑っても笑いにできる。笑いにできる滑りは、怪我になりにくい。
大久米が言う。
「歌うぞ。声が先に行く。声が先に行けば、罠の匂いも先に嗅げる」
「声で嗅ぐのかよ」と、誰かが小さく笑った。その笑いが、ちょうどいい。霧の中の笑いは大きいと迷子になる。小さい笑いが、足元を確かにする。
大久米は、手のひらで太腿を叩いた。
ドン。
音が、霧の底で跳ねる。跳ねた音が、盆地の壁に当たって返る。返った音が、もう一度足元に落ちる。落ちた音が、鼓動になる。
久米歌は、こうして始まる。
意味からではない。リズムからだ。リズムが揃うと、ばらばらの心が一瞬だけ同じ形になる。同じ形になると、人は怖さに勝てる。
大久米が声を張る。
「おい、床は――」
久米の者たちが返す。
「抜ける!」
「槍は――」
「下に立つ!」
「なら、足は――」
「上で踊れ!」
……笑うしかない。宇陀の罠を踏んだばかりの軍勢が、こういう冗談を口にするのは、むしろ正しい。痛みを冗談にできない痛みは、いつまでも胸を刺す。胸を刺す痛みは、黄泉に寄る。黄泉に寄らないために、人は歌う。
大久米は続ける。今度は少しだけ、歌を“道”に寄せる。
「西の潮から――」
「東の朝へ!」
「霧の盆地を――」
「声で縫え!」
「矢はあとだ――」
「声が先だ!」
声が、盆地を走る。
霧は音を吸うはずなのに、宇陀の霧は溜める。溜める霧は、音を一度貯金して、遅れて返す。返ってきた声がまた前へ押す。押された声が、矢より先に谷を越える。
谷の向こうで、鹿が鳴いた。
鹿の声が、久米歌に混ざる。混ざった瞬間、歌は“土地の歌”になる。土地の歌になると、軍勢は侵入者ではなくなる。侵入者じゃなくなると、敵の胸が揺れる。
敵の胸が揺れると、罠が効きにくくなる。罠は「相手が自分の予定通りに動く」と信じているから仕掛けられる。予定通りに動かない相手には、罠はただの穴だ。穴は、見える。見えた穴は、怖くない。
久米歌は、穴を見えるようにする。
だから――声は矢を先回りする。
兄宇迦斯(えうかし)の館のあたりまで、歌は届いていた。
霧が薄い場所ほど、音は遠くまで運ばれる。霧が薄くなるということは、盆地が“昼の顔”に近づくということだ。昼の顔の宇陀は、嘘をごまかしにくい。
兄宇迦斯は、館の中で歯を食いしばっていた。
歯を食いしばる者の耳は、外の音を嫌でも拾う。拾った音が、胸の中で反響する。反響した音は「笑われている」と錯覚を作る。錯覚が作られると、怒りは早くなる。早い怒りは、足元を見ない。
——床。
——穴。
——落ちる。
久米歌は直接そう言わなくても、匂いでそこを叩く。叩かれた胸は、つい“急ぐ”。
兄宇迦斯は、さっきから苛立っていた。
弟が妙に黙る。客(まれびと)の顔が落ち着いている。久米の声が、外からずっと土を叩いている。
土を叩く音は、床の下の槍を起こす音にも似ている。似ている音を聞くと、人は“やられる前にやる”に寄る。寄った瞬間に、罠は持ち主を食う。
兄宇迦斯は、つい足を前に出した。
その足の下に――自分で仕込んだ空洞。
板が、ふっと沈む。
沈む音は小さい。だが歌を聞いた耳には、沈む音がやけに大きい。大きい沈みは、心の沈みだ。
久米の者のひとりが、外で歌いながら言った。(もちろん聞こえるように言った。)
「おーい、宇陀の床!抜けるなら抜けろー!」
笑い声が混ざる。
笑いは刃より怖い。刃は身構えられるが、笑いは胸の底を抜く。胸の底を抜かれた者は、足元も抜く。
兄宇迦斯は、叫ぼうとして、声が割れた。
割れた声は、久米歌に飲まれる。飲まれた声は、誰にも届かない。届かない声は、もう命令にならない。命令にならない者は、落ちる。
落ちる、というより――落とされる。
罠が。
罠は、仕掛けた者の足の重さを先に覚えている。覚えている足に、いちばん素直に反応する。素直な罠は、持ち主に忠実だ。
床が抜け、兄宇迦斯は穴へ――と、見える。
だが実際は、すぐに久米の者が腕を掴んで引きずり出した。死なせるためではない。死なせずに“見せる”ためだ。罠の匂いを、宇陀の里に残すためだ。
伊波礼毘古は、兄宇迦斯の顔を見た。
顔が青い。青いのに、霧の青ではない。嘘が剥がれた青だ。
伊波礼毘古は言った。
「宇陀の床を抜いたのは、お前だ」
兄宇迦斯は口を開こうとした。だが外の久米歌が、また一段大きくなる。
「口より先に――」
「床を見る!」
「床より先に――」
「胸を見る!」
冗談みたいな掛け合いが、冗談ではなくなる瞬間がある。その瞬間、嘘は耐えきれない。耐えきれない嘘は、膝を折る。
兄宇迦斯は、膝を折った。
そして吐いた。
言葉を。言い訳を。罠の理由を。
吐いたものは、霧に吸われない。宇陀の霧は溜める。溜めた言葉は、里の空気に残る。残った空気が、次の世代の用心になる。
弟宇迦斯は、少し離れたところで、唇を噛んでいた。
噛む癖は、恥の癖だ。恥の癖は、嘘の癖よりましだ。嘘の癖は国を割るが、恥の癖は国を繋ぐ。恥を知る者は、足元を見て歩く。
伊波礼毘古は、弟に言った。
「お前の告白が、矢より先に届いた」
弟宇迦斯は、目を伏せたまま、ほんの少しだけ頷いた。頷きの角度が小さいほど、若い決断は大きい。
そして久米の者たちは、ここで“勝ち歌”を歌う。
勝ち歌は、勝利を自慢するためではない。怖さを土に埋めるためだ。土に埋めるには、声で踏み固めるしかない。
大久米が声を張る。
「霧の宇陀でも――」
「穴は見える!」
「見えた穴なら――」
「落ちない!」
「落ちるなら――」
「嘘のほう!」
……完全に調子に乗っている。でもこういう調子の乗り方は、国の役に立つ。真面目すぎる軍は折れる。折れないために、少しだけふざける。ふざけることは、息をすることだ。
久米歌は、敵を挫く。でも同時に、味方の胸の角も削る。角が削れた胸は、人の胸だ。人の胸で戦う戦は、あとで祭に戻せる。
祭に戻せる戦だけが、国になる。
「……久米、うるせえな」
ナガタが紙面を覗き込みながら言った。口では文句を言っているが、目が少し笑っている。笑っている目は助かる。重い章が続くと、目が乾く。乾くと物語が割れる。
「うるさいのが久米だ」私は頷く。「久米は品がない。だから土地に馴染む。土地に馴染む声は、いちばん強い」
ナガタが、歌の掛け合いのところを指で叩く。
「これ、役所に怒られないか?」「怒られる」「じゃあやめろよ」「怒られない建国は、だいたい薄い」私は言った。「薄い国は、雨で溶ける。熊野で学んだだろ」
ナガタはため息をついて、でも笑った。
「……次は、どこ行く」「盆地を抜けたら、山が見える」私は硯の水を替えた。雨ではない水。川の水。盆地の水。
「そして山には名前がある。大和の山は、やたら“人間くさい”名前がある。山が三つ並ぶと、影が城になる」



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