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藁科川の蛍と消えた村



 夏の夜の藁科川は、昼間よりも深く流れていた。

 水の音は、ただ石を洗っているだけではなかった。山の奥から来る冷たい息を抱き、暗い淵を越え、草の根を撫でながら、誰かの古い話を少しずつ運んでいるようだった。

 幹夫少年は、川沿いの細い道に立っていた。

 町からずいぶん上流へ来ると、夜は急に濃くなる。家の灯りはまばらになり、道の白線も途切れがちになり、山の影が空を狭くしていた。昼間なら青々として見える杉や竹も、夜にはひとつの大きな黒い塊になって、谷を包み込んでいる。

 祖父は、夕方に言った。

 「この先に、昔、小さな村があったんだ」

 幹夫は聞き返した。

 「村?」

 「今はもう、人は住んでいない。道も変わったし、家もなくなった。けれど、夏になると、蛍だけが覚えていると言う人がいた」

 祖父は、そこで少し黙った。

 冗談のようにも聞こえた。けれど、祖父の横顔は笑っていなかった。遠くの山を見て、もう誰も呼ばない名前を胸の中で探しているようだった。

 幹夫は、その言葉が忘れられなかった。

 人がいなくなった村。

 けれど蛍だけが覚えている村。

 その響きは、幹夫の胸に小さな灯のように残った。消えそうで、消えない。近づこうとすると逃げてしまいそうなのに、目をそらすと闇の中からまた呼んでくる。

 夜になって、幹夫は宿の縁側を抜け出した。

 誰にも言わずに出るのはよくないとわかっていた。けれど、どうしても川を見たかった。祖父の言った村が本当にあるのか、確かめたいわけではなかった。

 確かめたいのではなく、会いたかった。

 なくなったものに。

 忘れられかけたものに。

 幹夫は懐中電灯を持っていたが、すぐに消した。

 人工の光は、山の夜には少し強すぎた。照らせば照らすほど、照らされない闇が濃くなる。幹夫は、暗さに目を慣らしながら歩いた。

 川は道の下を流れていた。

 ざあ、ざあ、と音がする。ところどころで水が岩に当たり、白く砕けるのが闇の中でもわかった。草むらからは虫の声が立ちのぼり、遠くで夜鳥が一度だけ鳴いた。

 夏なのに、上流の夜気は少し冷たかった。

 その冷たさが、幹夫の胸のざわめきを静めていく。けれど同時に、どこか心細くもした。もしこのまま道が消えてしまったら。もし帰る方向がわからなくなったら。もし自分の名前を呼ぶ声まで、川の音にまぎれてしまったら。

 そう思った時、一つの光が草の中にともった。

 蛍だった。

 小さな緑の光が、ふわりと浮かび、また消えた。

 幹夫は息を止めた。

 蛍はもう一度光った。今度は少し先で。まるで幹夫を待っているように、草の葉の間をゆっくり飛んでいる。

 「きみが、道案内?」

 幹夫は小さく言った。

 蛍は答えなかった。

 けれど、またひとつ光った。

 幹夫はその光を追った。

 蛍は川沿いの道を離れ、細い山道へ入っていった。道と言っても、草に半ば隠れた踏み跡のようなものだった。足もとには湿った落ち葉が重なり、石には苔がついている。幹夫は何度も足を滑らせそうになりながら、蛍の光を見失わないように歩いた。

 やがて、ひとつだった光が、二つになった。

 二つが三つになり、三つが十になり、気づけば幹夫の周りには、いくつもの蛍が舞っていた。

 光は強くなかった。

 けれど、ひとつひとつが呼吸をしていた。ともり、消え、またともる。そのたびに、闇の中に細い道が浮かび上がる。幹夫には、それがただの虫の光ではなく、誰かの記憶のまばたきのように見えた。

 忘れないで。

 ここにいたよ。

 そんな声が、光の奥から聞こえる気がした。

 山道を抜けると、小さな開けた場所に出た。

 幹夫は立ち止まった。

 そこには、何もないように見えた。

 いや、何もないわけではなかった。草に覆われた石垣があり、半分崩れた石段があり、古い井戸の跡らしい丸い石組みがあった。山側には小さな祠が傾いて立ち、川へ向かう斜面には、段々畑だったのかもしれない平らな場所がいくつも重なっていた。

 けれど家はなかった。

 人の声もなかった。

 ただ、夏草が伸び、夜露が光り、蛍が舞っていた。

 幹夫は胸がしめつけられた。

 ここに村があったのだ。

 誰かが朝に戸を開け、誰かが畑へ出て、誰かが川で手を洗い、誰かが子どもを叱り、誰かが笑い、誰かが泣いた。煙が上がり、味噌汁の匂いがし、雨の日には屋根を叩く音がした。

 そのすべてが、今は草の下に沈んでいる。

 幹夫は、石垣に手を触れた。

 冷たかった。

 けれど、その冷たさの奥に、人の手の温もりが眠っているような気がした。石を積んだ人。石の横を通った人。腰を下ろして休んだ人。祭りの日に、ここを駆け抜けた子ども。

 幹夫の目に涙がにじんだ。

 なぜ自分は、会ったこともない人たちのことをこんなに悲しく思うのだろう。

 知らない村なのに。

 生まれる前に消えた場所なのに。

 それでも、胸の中に穴があくようだった。

 その時、蛍たちがいっせいに高く舞い上がった。

 光が渦を巻いた。

 祠の前、石段の上、井戸の跡、草に埋もれた道。そのひとつひとつに蛍が降りていき、まるで消えた家々の輪郭をなぞるように光った。

 すると、闇の中から音がした。

 とん。

 太鼓の音だった。

 幹夫は顔を上げた。

 もう一度。

 とん、とん。

 蛍の光が濃くなった。草むらの向こうに、赤い提灯が一つともった。続いて、二つ、三つ、十、二十。

 気づくと、そこには村があった。

 小さな山里の祭りが、夜の中に浮かび上がっていた。

 家々の軒には提灯が下がり、細い道には浴衣姿の人々が行き交っている。子どもたちは草履を鳴らして走り、女たちは団扇で火をあおり、男たちは神輿の綱を確かめていた。祠の前には笛を吹く人がいて、太鼓の音に合わせて、ゆっくりした祭り囃子が流れている。

 幹夫は息をのんだ。

 みんな、少し透き通っていた。

 提灯の赤も、人々の顔も、家の影も、まるで蛍の光でできているように淡かった。けれど、そこにある暮らしの気配は本物だった。

 焼いた餅の匂い。

 川で冷やした瓜の匂い。

 湿った浴衣の匂い。

 夏草と煙と汗の匂い。

 幹夫は、そのすべてに胸を満たされた。

 懐かしい、と思った。

 でも、幹夫はこの村を知らない。

 知らないのに懐かしい。

 それは不思議で、少し怖く、けれどとても優しい感情だった。

 「見えるんだね」

 声がした。

 幹夫のそばに、一人の少女が立っていた。

 年は幹夫と同じくらいだろうか。薄い藍色の浴衣を着て、髪には小さな赤い紐を結んでいた。手には、竹で作った小さな蛍籠を持っている。

 その籠の中には、蛍は入っていなかった。

 かわりに、小さな光の粒がいくつも浮かんでいた。

 「きみは、この村の子?」

 幹夫がたずねると、少女は少し笑った。

 「そうだった子」

 その答えに、幹夫は胸が痛んだ。

 そうだった。

 もう今は、違うのだ。

 少女は祭りのほうを見た。

 「今夜だけ、戻ってくるの。蛍が道を覚えている夜だけ」

 「毎年?」

 「毎年ではないよ。川が静かで、月が雲に隠れて、誰かが本当に見たいと思った夜だけ」

 幹夫は言葉を失った。

 「ぼくが、見たいと思ったから?」

 少女は答えず、蛍籠を揺らした。

 中の光が、淡くまたたいた。

 「祭りを見る?」

 幹夫はうなずいた。

 少女に導かれて、幹夫は村の中へ入った。

 足もとの道は、さっきまで草に覆われていたはずなのに、今は踏み固められた土の道になっていた。両側の家からは、笑い声がこぼれている。縁側に座った老人が笛の音に合わせて膝を打ち、幼い子が母親の袖を引っ張っている。

 幹夫は一つひとつを見つめた。

 祭りは華やかではなかった。

 町の大きな祭りのように、明るい照明も、大勢の人波も、屋台の長い列もない。提灯の火は少なく、太鼓もひとつだけ。神輿も小さく、飾りは手作りだった。

 けれど、幹夫には、それがとても大切なものに見えた。

 この小さな村の人々が、夏の夜に集まり、今年も生きていることを確かめ合うための祭り。山に礼を言い、川に祈り、亡くなった人を思い出し、子どもたちに笑ってほしいと願う祭り。

 大きくなくても、深い。

 有名でなくても、忘れがたい。

 少女は言った。

 「祭りの日だけは、みんな少し安心したの」

 「安心?」

 「山は厳しいから。雨が多すぎても困る。少なすぎても困る。畑が獣に荒らされることもある。川が暴れることもある。冬は長い。病も来る。だから夏の祭りの日に、みんなで火をともすの」

 幹夫は提灯を見上げた。

 小さな火が、風に揺れている。

 「火をともすと、怖くなくなる?」

 少女は首を横に振った。

 「怖さは消えない。でも、ひとりで怖がらなくてよくなる」

 幹夫は、その言葉を胸の奥で受け止めた。

 ひとりで怖がらなくてよくなる。

 それは、とても大切なことのように思えた。

 幹夫は自分のことを思った。学校で感じる小さな不安。友だちの何気ない言葉に傷つく心。誰にも言えず、夜になると胸の中で大きくなる寂しさ。

 怖さそのものを消すことはできない。

 でも、誰かの光がそばにあれば、その怖さは少し形を変えるのかもしれない。

 祭り囃子が少し大きくなった。

 祠の前で、村人たちが輪になって踊りはじめた。ゆっくりした踊りだった。手を上げ、下ろし、足を運び、また回る。子どもたちは見よう見まねで踊り、大人たちは笑っていた。

 幹夫は、輪の外に立って見ていた。

 すると少女が言った。

 「踊らないの?」

 「ぼくは……知らないから」

 「知らなくてもいいの。見て、まねればいい」

 少女は幹夫の手を取った。

 その手は、冷たくはなかった。

 でも、生きている人の温かさとも少し違った。蛍の光に触れた時のような、淡く、はかない温もりだった。

 幹夫は輪に入った。

 最初は足がもつれた。手の動きも遅れた。けれど誰も笑わなかった。村の人たちは、幹夫がそこにいることを昔から知っていたように、自然に場所を空けてくれた。

 太鼓が鳴る。

 笛が鳴る。

 蛍が舞う。

 幹夫は踊りながら、胸の中で何かがほどけていくのを感じた。

 自分はこの村の子ではない。 この祭りを本当に知っているわけではない。 ここにいた人々の暮らしを、すべて理解できるわけでもない。

 それでも、今だけは輪の中にいる。

 消えた村の祭りに、ほんの少し混ぜてもらっている。

 そのことが、幹夫には泣きたくなるほど嬉しかった。

 踊りが終わると、少女は幹夫を川辺へ連れていった。

 藁科川は、祭りの光を映して流れていた。提灯の赤、蛍の緑、月の隠れた夜の青。それらが水面で揺れ、ひとつになって下流へ運ばれていく。

 川辺には、小さな灯籠が並んでいた。

 村の人々が、一つずつ火を入れている。

 「これは?」

 幹夫が聞いた。

 少女は言った。

 「亡くなった人へ。遠くへ行った人へ。帰れなかった人へ。それから、これから生まれてくる人へ」

 「生まれてくる人にも?」

 「うん。光は、過去だけに送るものじゃないから」

 幹夫は、その言葉に心を打たれた。

 光の記憶。

 それは、昔を照らすだけではない。まだ見ぬ未来へも、小さな目印を置くものなのだ。

 村が消えても、蛍が光る。

 人の名前が忘れられても、祭りの輪が一晩だけ戻る。

 灯籠は川を流れ、誰かの胸に届くかもしれない。

 幹夫は、少女の蛍籠を見た。

 「その中の光は、何?」

 少女は籠を胸に抱いた。

 「村の人が忘れたくなかったもの」

 「どんなもの?」

 少女は一粒の光を指さした。

 「これは、母さんが作った味噌の匂い」

 別の光。

 「これは、雪の日に囲炉裏で聞いた昔話」

 また別の光。

 「これは、初めて川で泳げた日の水の冷たさ」

 少女は少し黙ってから、一番小さな光を見た。

 「これは、村を出る朝に、誰にも言えなかったさよなら」

 幹夫は胸が詰まった。

 消えた村とは、ある日突然何もなくなる場所ではないのだと思った。

 少しずつ人が減り、家の灯が消え、畑が草に戻り、道が細くなり、最後の一人が戸を閉める。誰かは町へ行き、誰かは帰れず、誰かは名前だけ残り、誰かは名前さえ残らない。

 そのすべての「さよなら」が、山の夜に沈んでいる。

 幹夫は、川の水面を見つめた。

 「悲しいね」

 そう言うと、少女は静かにうなずいた。

 「悲しいよ」

 幹夫は、その正直な答えに少し救われた。

 悲しいものを、悲しくないと言われることほど寂しいことはない。失われたものには、失われたものの痛みがある。それを無理に美しい話だけにしてしまうと、そこに生きた人たちの本当の声が消えてしまう気がした。

 少女は続けた。

 「でも、悲しいだけではないよ」

 「どうして?」

 「ここで生きたから。笑ったから。祭りをしたから。川の水を飲んで、畑を耕して、子どもを育てて、山に叱られて、山に守られて。短くても、小さくても、ちゃんと村だったから」

 幹夫は、何も言えなかった。

 ちゃんと村だった。

 その言葉は、草に覆われた石垣にも、崩れた井戸にも、蛍の光にも、ゆっくり染み込んでいくようだった。

 小さいから消えていいわけではない。

 名が残らないから、なかったことになるわけではない。

 ここに暮らしがあった。

 それだけで、十分に尊い。

 祭りは夜更けまで続いた。

 幹夫は少女と一緒に、祠へ供えられた小さな団子を見たり、川で冷やした瓜を分けてもらったり、太鼓を叩く少年のそばに座ったりした。

 団子の味は、ほのかに甘かった。

 瓜は冷たく、山の水の味がした。

 太鼓の音は、胸の奥まで届いた。

 幹夫はだんだん、自分が今の時間にいるのか、昔の時間にいるのかわからなくなった。けれど不安ではなかった。時間が混ざり合い、過去と現在の境目が蛍の光のようにゆらめく。そのゆらめきの中にいることが、不思議に心地よかった。

 やがて、東の空がほんの少し白みはじめた。

 まだ夜だった。けれど、山の稜線の向こうに、朝が準備をしている気配があった。

 少女は立ち止まった。

 「もう帰る時間」

 幹夫は胸がぎゅっと縮んだ。

 「村が、消えるの?」

 少女はうなずいた。

 「夜が終われば、また眠る」

 祭りの音が、少しずつ遠くなっていく。

 提灯の火が一つ消えた。

 笑い声が薄くなった。

 家の輪郭が透けて、向こうの夏草が見えはじめた。

 幹夫はあわてて言った。

 「待って。ぼく、まだ何もできてない」

 少女は静かに幹夫を見た。

 「何かしに来たの?」

 幹夫は言葉に詰まった。

 自分は何かを救えると思っていたのだろうか。

 消えた村を戻せるわけではない。人々の名前をすべて覚えられるわけでもない。祭りを今の町に再び作れるわけでもない。

 ただ見ただけ。

 ただ胸を痛めただけ。

 それでよかったのだろうか。

 少女は、蛍籠を幹夫に差し出した。

 「ひとつ持っていって」

 籠の中から、小さな光が一粒浮かんだ。

 幹夫の手のひらに、そっと落ちた。

 温かくも冷たくもない。けれど、触れた瞬間、胸の奥がふるえた。

 「これは?」

 幹夫が聞いた。

 少女は答えた。

 「今夜、君が見たこと」

 幹夫は手のひらの光を見つめた。

 そこには、祭りの輪が映っていた。提灯、太鼓、瓜の冷たさ、少女の声、川を流れる灯籠。消えた村の一晩が、小さな蛍の光の中に宿っていた。

 「ぼくが持っていていいの?」

 「持つというより、覚えていて」

 少女は少し笑った。

 「でも、人は忘れるから、忘れたらまた川へ来て。蛍がいる夜なら、少し思い出せる」

 幹夫はうなずいた。

 涙がこぼれた。

 少女はそれを見て、困ったように笑った。

 「泣かなくていいよ」

 「でも」

 幹夫は声を震わせた。

 「消えてしまうのが、寂しい」

 少女は、幹夫の手を取った。

 「消えるものは、みんな寂しい。でも、光ったことまで消えるわけじゃない」

 その言葉と同時に、村の祭りが大きく揺れた。

 提灯が蛍になった。

 太鼓の音が川の音になった。

 人々の姿が朝霧にほどけ、家々が草の影へ戻り、道は再び細い踏み跡になっていった。

 少女の姿も薄れていく。

 幹夫は叫びそうになった。

 けれど声を出せなかった。

 最後に少女は、蛍籠を胸に抱き、言った。

 「この村は、なかった村じゃない」

 幹夫は強くうなずいた。

 「うん」

 「ちゃんとあった村」

 「うん」

 「それだけ、覚えていて」

 「覚えている」

 幹夫がそう言うと、少女は安心したように微笑んだ。

 次の瞬間、彼女は一匹の蛍になった。

 小さな光が、幹夫の前で一度だけ強くまたたき、川のほうへ飛んでいった。

 朝が来た。

 開けた場所には、もう村はなかった。

 草に覆われた石垣。崩れた石段。古い井戸の跡。傾いた祠。朝露をのせた夏草。そして、藁科川の上流を流れる水の音。

 幹夫は、ひとりで立っていた。

 手のひらを開くと、光はもう見えなかった。

 けれど、何もなくなったわけではなかった。胸の奥に、小さな温もりが残っていた。蛍の光ほど小さい。けれど確かにそこにある。

 幹夫は祠の前に立ち、静かに頭を下げた。

 何を祈ればよいのか、はっきりとはわからなかった。

 けれど、わからないままでも祈れることを、幹夫は知っていた。

 ここに村があったことを。

 ここで人々が生きたことを。

 祭りの夜に火をともしたことを。

 怖さをひとりで抱えないために、輪になって踊ったことを。

 どうか、忘れすぎませんように。

 幹夫はそう祈った。

 山道を戻る時、朝の光が木々の間から差し込んできた。夜の闇に沈んでいた葉が一枚一枚見えはじめ、鳥の声が谷に響いた。蛍はもういなかった。

 けれど、幹夫には道がわかった。

 光がなくても、戻る道がある。

 それは、蛍が教えてくれたからだった。

 宿へ戻ると、祖父が縁側に座っていた。

 幹夫を見ると、驚いた顔をしたが、すぐに何かを悟ったように黙った。

 「行ってきたのか」

 幹夫はうなずいた。

 「村を見たよ」

 祖父は長いあいだ、何も言わなかった。

 それから、ゆっくり息を吐いた。

 「そうか」

 その一言だけだった。

 けれど幹夫には、それで十分だった。

 祖父もきっと、何かを知っているのだ。名前を口にしないだけで、胸の中に残している光があるのだ。

 朝食のあと、幹夫はノートを開いた。

 何を書けばよいのか、最初はわからなかった。見たものを全部書こうとすると、どれも嘘のようになってしまいそうだった。祭りの匂いも、少女の手の感触も、太鼓の響きも、言葉にすると薄くなる気がした。

 それでも、幹夫は一行だけ書いた。

 藁科川の上流に、ちゃんとあった村。

 その下に、少し間をあけてもう一行書いた。

 蛍は、光で覚えている。

 それ以上は書かなかった。

 書ききれないものを、無理に閉じ込めたくなかった。

 その日の夕方、幹夫はもう一度川を見に行った。

 昼の藁科川は、夜とは違う顔をしていた。水は明るく、石は白く、山の緑が川面に映っている。昨夜の祭りが本当にあったのか、誰かに聞かれたら、幹夫にも証明はできない。

 でも、証明できないからといって、なかったことにはならない。

 幹夫は川辺にしゃがみ、小さな石を一つ拾った。

 持ち帰ろうとして、やめた。

 石はここにあるほうがいいと思った。

 かわりに、幹夫はその石を水際にそっと置き直した。水が来て、石を濡らし、また引いていく。

 それだけのことだった。

 けれど幹夫には、消えた村へ小さな返事をしたように思えた。

 夜になると、また蛍が一つ飛んだ。

 昨夜ほどたくさんではなかった。たった一匹だけ。草の上をふわりと流れ、川のほうへ消えていく。

 幹夫は追わなかった。

 今夜は、村は眠っているのだろう。

 それでいいと思った。

 すべての記憶が、毎晩よみがえる必要はない。 眠る時間も必要なのだ。 忘れられたものが、静かに休むための闇も必要なのだ。

 幹夫は、遠ざかる蛍に向かって小さく言った。

 「覚えているよ」

 蛍は一度だけ光った。

 返事かどうかは、わからなかった。

 ただの光だったのかもしれない。

 けれど幹夫は、その一瞬を胸にしまった。

 藁科川は、山里の夜を抱いて流れていた。

 上流のどこかで、消えた村は草の下に眠っている。 石垣も、井戸も、祠も、祭りの輪も、少女の蛍籠も、すべては静かな闇の中にある。

 けれど夏の夜、川が穏やかで、月が雲に隠れ、誰かが本当に見たいと願う時。

 蛍はまた、光で道を作るのだろう。

 幹夫少年は、川の音を聞きながら目を閉じた。

 胸の奥には、小さな光が残っていた。 消えた村の光。 祭りの光。 悲しみをひとりで抱えないための光。 忘れられたものが、まだここにあったと告げる光。

 その光は、蛍のように弱かった。

 けれど弱いからこそ、闇の中でよく見えた。

 
 
 

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