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茶畑と富士の星

 夕暮れの茶畑には、昼の光がまだ少し残っていた。

 丘の斜面に沿って、茶の畝が幾重にも並んでいる。丸く刈りそろえられた緑は、遠くから見ると静かな波のようで、近づくと一枚一枚の葉が、それぞれ違う向きに空を受けていた。

 幹夫少年は、農道の端に立っていた。

 足もとの土は、昼間の陽を少し含んで温かかった。けれど風はもう夕方の匂いをしている。茶の葉の青い香りと、湿った土の匂いと、遠くの家々から上がる夕餉の煙のような匂いが、ゆっくり混じっていた。

 そして、その向こうに富士山があった。

 夕暮れの富士は、青でも白でもなかった。

 空の色を少しずつもらいながら、輪郭だけを静かに濃くしている。雪を残した頂は、沈みかけた光に淡く染まり、遠いのに、幹夫の胸のすぐ奥に立っているようだった。

 幹夫は、富士山を見るたびに不思議な気持ちになった。

 近づきたい。 でも、近づきすぎてはいけない気もする。 手が届かないからこそ、そこにあるもの。 遠くにあるからこそ、胸の中で大きくなるもの。

 幹夫にとって富士山は、山というより、心のいちばん遠い場所に立つ白い沈黙だった。

 その日、幹夫は少し疲れていた。

 学校で、友だちの輪に入れなかったわけではない。笑えなかったわけでもない。ただ、みんなが何気なく通り過ぎていく言葉や表情を、幹夫だけが拾ってしまう日だった。

 誰かの笑い声の端にある寂しさ。 先生が黒板を消す手の、ほんの少しの乱れ。 教室の隅に置かれたままの水筒。 帰り道で見た、踏まれて折れた小さな草。

 そういうものが、ひとつずつ胸に入ってくる。

 痛いほどではない。 でも、たくさん集まると、息がしづらくなる。

 幹夫は、自分の心が茶の葉みたいだと思った。

 小さな露も受けてしまう。 風の向きにも揺れてしまう。 強い日差しにはしおれそうになり、冷たい夜には身を縮めてしまう。

 もっと厚い葉だったらよかったのに。

 そう思いかけて、幹夫は茶畑を見た。

 茶の葉は薄い。 けれど、その薄さで光を受け、雨を受け、香りを抱く。

 薄いから弱いとは限らないのかもしれない。

 そう思った時、富士山の頂のすぐ上に、小さな星がひとつ灯った。

 まだ空は完全な夜ではない。

 ほかの星はほとんど見えない。 それなのに、その星だけが、富士山の肩にそっと置かれた灯のように光っていた。

 幹夫は息を止めた。

 その星は、普通の星より近く見えた。空にあるのに、富士山の雪の上から生まれたばかりのようだった。

 「富士の星だよ」

 背後から声がした。

 幹夫が振り返ると、茶畑の畝のあいだに、一人のおばあさんが立っていた。

 白い手ぬぐいを頭に巻き、古びた作業着を着ている。背中は少し曲がっていたが、茶畑に立つ姿は、そこに昔から生えていた木のようにしっくりしていた。手には小さな竹籠を持っている。

 幹夫は軽く頭を下げた。

 「富士の星?」

 おばあさんは、富士山の上の星を見上げた。

 「富士山が、夜にひとつだけ茶畑へ送る星さ」

 「茶畑へ?」

 「そう。あの星はね、茶の葉が昼のあいだに受けた光や、人の手の温もりや、土の中の水の声を聞きに来るんだよ」

 幹夫は、もう一度星を見た。

 星は、少し瞬いた。

 まるで、おばあさんの言葉にうなずいたようだった。

 「星が、茶の葉の声を聞くんですか」

 幹夫が聞くと、おばあさんは微笑んだ。

 「人間だって、茶を飲んでほっとするだろう。星も同じさ。遠くで光ってばかりいると、さびしくなる。だから、時々地上の香りを聞きに来る」

 星がさびしくなる。

 その言葉は、幹夫の胸に静かに落ちた。

 星はいつも遠くで光っている。 誰かに見上げられ、願いをかけられ、道しるべにもされる。 でも、星自身がさびしいと思うことなど、考えたことがなかった。

 遠いものにも、遠いものの寂しさがある。

 幹夫は、富士山の上の星が急に親しいものに見えた。

 その時、茶畑の奥で、かすかな音がした。

 ちりん。

 鈴の音のようだった。

 おばあさんの顔が少し真剣になった。

 「今夜は、落ちたのかもしれないね」

 「落ちた?」

 「富士の星が、茶畑へ」

 おばあさんは畝の間を歩き出した。

 幹夫も後を追った。

 茶葉を傷つけないよう、細い足場を選んで進む。夕暮れはもう夜へ変わりかけていた。茶畑の緑は深く沈み、葉の縁には夜露が生まれはじめている。

 ちりん。

 また音がした。

 その音は、茶畑の中央にある古い石の祠のほうから聞こえた。

 祠は小さく、半分ほど茶の木に隠れていた。前には欠けた湯呑みがひとつ置かれている。中には雨水がたまり、そこにも小さな星が映っていた。

 祠の脇の茶葉の上に、光るものがあった。

 幹夫はしゃがみこんだ。

 それは星だった。

 といっても、空にあるような遠い光ではない。ビー玉ほどの小さな星が、茶葉の上で震えていた。色は白に近い金色で、中に富士山の雪のような冷たい輝きを抱いている。けれどその光は弱く、今にも消えそうだった。

 小さな星は、幹夫を見た。

 目があるわけではない。 顔があるわけでもない。 でも、確かに見られていると感じた。

 そして、声が聞こえた。

 「帰り道が、わからなくなった」

 幹夫は胸がぎゅっとなった。

 その声は、星の声とは思えないほど小さく、心細かった。迷子の子どもの声に似ていた。

 「富士山へ帰るの?」

 幹夫が聞くと、小さな星はかすかにまたたいた。

 「富士の頂へ。夜明けまでに戻らないと、ぼくはただの露になってしまう」

 露になる。

 それは消えるということだろうか。 それとも、形を変えるということだろうか。

 幹夫にはわからなかった。けれど、小さな星が帰りたがっていることだけはわかった。

 おばあさんは、祠の前に膝をついた。

 「帰り道は、茶の香りでできるんだよ」

 「茶の香り?」

 幹夫が聞き返す。

 「富士の星は、茶の葉が覚えている一日の香りをたどって帰る。けれど今夜は、葉の声が少し乱れている」

 「どうしてですか」

 おばあさんは茶畑を見渡した。

 「昼間、強い風が吹いた。若い芽が不安になったのさ。茶の木も、人と同じで、乱れた日には眠るのに時間がかかる」

 幹夫は、胸を突かれた。

 乱れた日には眠るのに時間がかかる。

 自分もそうだった。

 何でもない一言。 ちょっとした表情。 夕方まで胸に残った小さな痛み。

 そういうものがある日は、布団に入っても心がざわざわして、なかなか眠れない。

 茶の葉も、そうなのだと思うと、幹夫は茶畑がいっそう近く感じられた。

 「どうすれば、葉の声が戻りますか」

 幹夫は聞いた。

 おばあさんは、幹夫を見た。

 「耳を澄ませて、葉が何を抱えているか聞くことだよ」

 「ぼくに、聞けるでしょうか」

 「おまえは、聞きすぎるくらい聞く子だろう」

 幹夫は、少しうつむいた。

 それは、よいこととして言われたのか、悪いこととして言われたのか、すぐにはわからなかった。

 おばあさんは、やさしく続けた。

 「聞きすぎて苦しくなる心は、聞こえないものまで拾ってしまう。でも今夜は、その心が役に立つ」

 幹夫は、小さく息を吸った。

 茶の香りが胸に入ってきた。

 青く、少し苦く、土に近い香り。

 幹夫は茶畑の中に立ち、目を閉じた。

 最初に聞こえたのは、風だった。

 茶の葉が触れ合う音。 畝の間を通る夜気の音。 遠くで犬が鳴く声。 町のほうから届く車の音。

 でも、その奥に、もっと小さな声があった。

 ――昼の風が怖かった。

 それは、若い茶葉の声だった。

 ――折れるかと思った。 ――隣の葉が震えていた。 ――人の手が来るまで、長かった。 ――でも、根は土をつかんでいた。 ――土は、離さなかった。

 幹夫は目を開けた。

 茶葉の一枚一枚が、夜露を抱いてかすかに光っていた。

 「怖かったんだね」

 幹夫は、そっと言った。

 声に出すと、茶畑全体が少し静まった気がした。

 怖かったものに、怖かったねと言うこと。 それだけで、何かがほどけることがある。

 幹夫は自分の胸にも、そう言ってみたくなった。

 今日、苦しかったね。 うまく笑えなくて、怖かったね。 でも、まだここにいるね。

 すると、胸の奥で固まっていたものが、ほんの少しやわらかくなった。

 おばあさんが、静かにうなずいた。

 「次は土の声を」

 幹夫は、足もとの土に手を置いた。

 夜の土は冷たく、少し湿っていた。指の先に、細かな粒の感触が伝わる。

 土は、低い声で言った。

 ――風の日も、雨の日も、根を抱いている。 ――葉は揺れる。人も揺れる。星も時々落ちる。 ――けれど、帰る場所を忘れなければよい。

 幹夫は、手を土につけたまま、富士山を見た。

 富士山は夜の中で、ほとんど黒い影になっていた。けれど雪のある頂だけが、星明かりを受けて淡く浮かんでいる。

 帰る場所。

 小さな星には、富士の頂がある。 茶葉には、土がある。 幹夫には、どこが帰る場所なのだろう。

 家。 母の声。 自分の部屋。 それもそうだ。

 でも、それだけではない気がした。

 自分の心の中にも、帰る場所が必要だった。 誰かに合わせすぎて迷った時、傷つきすぎて自分を嫌になりそうな時、静かに戻ってこられる場所。

 幹夫は、それをまだ探している途中なのかもしれなかった。

 おばあさんは、小さな星を両手でそっと包んだ。

 「茶の声と土の声を聞いたなら、あとは富士の星へ道を渡してやるだけだ」

 「どうやって?」

 「茶の葉の香りを、富士山へ向けて送る」

 おばあさんは、祠の前に置かれた欠けた湯呑みを手に取った。

 中の雨水には、夜空が映っていた。

 「この水に、葉の声を入れる」

 幹夫は、近くの茶葉にそっと手を触れた。

 摘むのではない。 傷つけるのでもない。 ただ、触れて、今日一日の震えと安堵を受け取る。

 すると、茶葉の先の露が一粒、幹夫の指に移った。

 それは普通の露より少し温かかった。

 幹夫は、その露を湯呑みに落とした。

 ぽつん。

 小さな音がした。

 湯呑みの水面に、円が広がる。そこに茶葉の香りが立った。濃い香りではない。とても淡く、けれどはっきりした香りだった。

 おばあさんも、茶葉の露をいくつか集めた。

 若い芽の露。 古い葉の露。 風に耐えた葉の露。 土の近くで夜を待つ葉の露。

 それらが湯呑みの中で混じり合うと、水は薄い金色になった。

 小さな星が、その水に近づいた。

 「飲むの?」

 幹夫が聞くと、星はかすかに震えた。

 「道を思い出す」

 小さな星は、湯呑みの上に浮かんだ。

 金色の水面から、細い香りの糸が立ちのぼる。糸は空へ向かい、夜の富士山のほうへ伸びていった。見えるようで、見えない。けれど幹夫には、その糸が確かにあるとわかった。

 茶畑と富士山が、香りでつながっている。

 おばあさんは言った。

 「茶畑の香りは、遠くへ行くんだよ。湯呑みから人の胸へ。畑から山へ。今日から昔へ。小さな葉から、大きな富士へ」

 幹夫は、その言葉を聞きながら香りの糸を見つめた。

 小さいものから、大きいものへ。

 茶葉一枚の声が、富士山へ届く。 露一粒が、星の帰り道になる。 幹夫の小さな心でも、何かをつなぐことができるのかもしれない。

 小さな星は、湯呑みの上で少しずつ明るくなった。

 「思い出した」

 声がした。

 幹夫はほっと息をついた。

 「帰れる?」

 星は、富士山のほうへ向きを変えた。

 「うん。でも、ひとつだけ持っていくものがある」

 「何を?」

 星は幹夫の胸のあたりで、やわらかく光った。

 「君の今日の小さな痛み」

 幹夫は驚いた。

 「ぼくの?」

 「富士の雪に預ける。全部ではないよ。ほんの少しだけ。君が明日も歩けるくらいに」

 幹夫は、胸に手を当てた。

 痛みを取ってほしいと思ったことは何度もある。けれど、全部なくなるのは少し怖かった。痛みの中には、自分が大切にしているものも混じっている気がするからだ。

 誰かの寂しさに気づく力。 小さなものを見過ごせない目。 傷ついたからこそ、傷つけたくないと思う心。

 それまで全部なくなってしまったら、自分ではなくなってしまう気がした。

 だから、ほんの少しだけという星の言葉が、幹夫にはありがたかった。

 「お願いします」

 幹夫は小さく言った。

 星は、幹夫の胸に一度だけ触れた。

 温かくも冷たくもなかった。

 けれど、胸の奥で固くなっていた言葉が、ふっと雪に包まれるように静かになった。

 消えたのではない。 遠くへ預けられたのだと思った。

 富士山の上に。

 そこならきっと、幹夫の小さな痛みも、広い雪の静けさの中で少し休める。

 香りの糸が強くなった。

 おばあさんは祠の前で手を合わせた。

 幹夫も手を合わせた。

 小さな星は、茶葉の上からふわりと浮かび上がった。

 最初は露のように低く。 次に蛍のようにゆっくり。 そして、風に乗った種のように高く。

 星は、茶畑の上を越え、丘の空気を越え、夜の富士山へ向かっていった。

 幹夫は見上げていた。

 星はどんどん小さくなる。けれど、その光は消えなかった。富士山の頂へ近づくにつれて、雪の部分が少しずつ明るくなっていく。

 そして星が頂に触れた瞬間、富士山の上で小さな光がまたたいた。

 ほんの一瞬だった。

 でも幹夫には、それが返事だとわかった。

 帰ったのだ。

 富士の星が、富士へ。

 茶畑は静かだった。

 風が吹き、茶の葉が揺れた。

 さわ。

 それは、安心した葉の寝息のようだった。

 おばあさんは湯呑みを祠の前に戻した。

 「これで、今夜の茶畑は眠れる」

 幹夫は、胸に手を当てた。

 自分の心も、少しだけ眠れそうだった。

 「ぼくの痛みは、富士山に行ったんですね」

 「少しだけね」

 おばあさんは微笑んだ。

 「全部預けると、人は自分の道がわからなくなる。痛みも、時には道しるべになるから」

 幹夫は、その言葉にうなずいた。

 痛みが道しるべ。

 それはまだ少し難しかった。けれど、完全に嫌なものではない気がした。痛みがあるから、近づいてはいけない言葉がわかる。痛みがあるから、誰かの涙のそばで立ち止まれる。痛みがあるから、茶葉の震えや星の迷子に気づける。

 おばあさんは、茶畑の向こうを見た。

 「富士山は、みんなの痛みを全部背負っているわけではないよ」

 「違うんですか」

 「富士山は、置き場所を少し貸してくれるだけだ。人はまた、自分の場所へ戻らなければならない」

 幹夫は富士山を見た。

 遠く、静かで、大きい。

 けれど、その大きさは人を飲み込むためのものではなく、人が少し休むための余白のように思えた。

 「ぼくも、戻れるでしょうか」

 幹夫は小さく聞いた。

 「どこへ?」

 「自分のところへ」

 おばあさんは、幹夫の顔を見た。

 「もう戻りはじめているよ」

 その言葉を聞いた瞬間、幹夫の目に涙がにじんだ。

 悲しい涙ではなかった。

 胸の中で迷子になっていた小さな自分が、やっと名前を呼ばれたような涙だった。

 おばあさんは、何も言わずに茶畑の畝を見ていた。

 夜は深くなっていた。

 富士山の上には、さっきの星が戻っていた。最初に見た時より少し高く、少し静かに光っている。ほかの星も、いつの間にか増えていた。

 幹夫は、祠に向かって頭を下げた。

 茶葉に。 土に。 富士の星に。 そして、今日の自分の痛みを少しだけ預かってくれた富士山に。

 「ありがとうございました」

 声に出すと、茶畑の香りが少し濃くなった気がした。

 おばあさんは、竹籠を持ち直した。

 「帰りなさい。夜の茶畑は、長くいると夢に混ざってしまう」

 「また会えますか」

 幹夫が聞くと、おばあさんは少し首をかしげた。

 「茶畑と富士を同時に見る心があればね」

 「どういう心ですか」

 「足もとの葉を忘れず、遠い山にも憧れる心だよ」

 幹夫は、その言葉を覚えておこうと思った。

 足もとの葉を忘れず、遠い山にも憧れる心。

 近くの小さなものを見つめること。 遠くの大きなものに胸を開くこと。 その両方があって、人は自分の場所に立てるのかもしれない。

 幹夫がもう一度おばあさんを見ると、そこには誰もいなかった。

 茶畑の畝だけが、夜の風に揺れていた。

 祠の前の湯呑みには、星が映っている。

 幹夫は農道へ戻った。

 足もとの土は、行きより少し冷えていた。けれど不思議と心細くはなかった。胸の中にあった痛みは、完全になくなったわけではない。ただ、鋭さが少し薄れ、やわらかな輪郭になっていた。

 遠くで、富士の星が光っている。

 幹夫は、歩きながら何度も振り返った。

 星はそこにあった。

 富士山の上で、静かに。

 まるで、幹夫が家へ帰るまで見送ってくれているようだった。

 家に戻ると、母が台所でお茶を入れていた。

 湯呑みから立ちのぼる湯気に、幹夫はさっきの香りの糸を思い出した。

 「どこに行ってたの」

 母が少し心配そうに聞いた。

 幹夫は、靴を脱ぎながら答えた。

 「茶畑から富士山を見てた」

 母は小さく息をついた。

 「寒くなかった?」

 「少し。でも、大丈夫」

 幹夫は、母が差し出した湯呑みを両手で受け取った。

 普通のお茶だった。

 けれど、湯気の中に茶畑の夜と、富士の雪と、小さな星の帰り道が混じっているように感じた。

 幹夫は、ゆっくり飲んだ。

 少し苦く、少し甘かった。

 その味の奥に、今日の痛みがすべて消えたわけではないことを感じた。けれど、それでよいと思えた。

 全部なくさなくていい。 少し預けて、少し持って帰る。 そして明日、また自分の足で歩く。

 翌朝、幹夫はいつもより早く目を覚ました。

 窓を開けると、空は淡い青だった。富士山は遠くに見えた。夜の星はもうない。けれど、頂の雪が朝日に触れて、ほんの少しだけ光っていた。

 幹夫は、その光を見て思った。

 あの中に、自分の小さな痛みが少し眠っている。

 そう思うと、胸が軽くなった。

 学校へ向かう道で、幹夫は道ばたの草に朝露がついているのを見つけた。

 露の中に、空が小さく映っていた。

 幹夫は立ち止まった。

 また止まってしまった、と思った。 けれど今朝は、それを責めなかった。

 止まったから、見えた。

 露の中の小さな空。 茶葉の声。 富士の星。

 幹夫は、草に向かって小さくうなずき、また歩き出した。

 茶畑と富士の星のあいだには、今も見えない香りの道が続いている。

 茶葉の露から富士の雪へ。 小さな痛みから大きな静けさへ。 足もとの葉から遠い憧れへ。

 幹夫少年は、その道を胸の中に持っていた。

 誰にも見えない道だった。 けれど、幹夫が迷いそうになる時、富士の星はきっとまた、遠くで小さく光るのだろう。

 
 
 

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