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茶畑にきた小さな星


 夜明け前の茶畑は、まだ空と地上の区別を忘れていた。

 丘の斜面に沿って、茶の畝が幾筋も並んでいる。昼間なら、きちんと刈りそろえられた緑の波に見えるその畑も、この時刻には深い藍色の影をまとい、まるで眠っている海のようだった。

 茶葉の先には、露が降りていた。

 ひと粒ひと粒が、まだ消え残った星を映している。幹夫少年は農道の端に立ち、その光を見つめていた。

 小さなものが光っているのを見ると、幹夫の胸はいつも少し痛んだ。

 大きな灯りなら、人はすぐ気づく。 街灯、車のライト、教室の蛍光灯、夕方の窓明かり。

 けれど、茶葉の先の露や、道ばたの小石にたまった雨水や、誰かが言いかけてやめた言葉の端にある光は、見落とされやすい。見落とされても、誰も困らないのかもしれない。けれど幹夫には、それが少し悲しかった。

 その朝も、幹夫は眠れずに茶畑へ来ていた。

 前の日、学校で友だちに言われたのだ。

 「幹夫は、小さいことを大きく考えすぎるんだよ」

 友だちは笑っていた。悪気はなかったのだと思う。

 でも、幹夫はその言葉を胸の中で何度も聞いてしまった。

 小さいこと。

 では、小さいことは小さいまま放っておけばよいのだろうか。 机の隅で折れた鉛筆の芯。 給食の皿に残った米粒。 誰かの「大丈夫」の中に混じる、ほんの少しの震え。 茶葉の先で朝を待つ露。

 そういうものに立ち止まる自分は、やはり少しおかしいのだろうか。

 幹夫は、露を見つめたまま小さく息を吐いた。

 その時だった。

 茶畑の奥で、露とは違う光がひとつ、ぽうっと灯った。

 幹夫は顔を上げた。

 光は、茶の畝の間をころころと転がっていた。蛍よりも白く、月よりも小さく、でも石ころのように重たそうでもあった。光は一枚の茶葉にぶつかって止まり、そこでかすかに震えた。

 幹夫は、茶葉を踏まないようにそっと近づいた。

 そこにいたのは、小さな星だった。

 空にある星の形そのままではない。丸く、角が少しだけあり、真ん中に白い火を抱いている。大きさは幹夫の親指の爪ほどしかない。けれど、その小さな体の中に、夜空の遠さがぎゅっと折りたたまれているようだった。

 星は、茶葉の上で震えていた。

 「大丈夫?」

 幹夫が声をかけると、小さな星はびくりとした。

 そして、細い声で答えた。

 「ぼく、落ちちゃった」

 幹夫は息をのんだ。

 「空から?」

 星は小さくうなずいた。

 「みんなと一緒に夜を歩いていたんだ。でも、ぼくは光が弱いから、銀河の端で迷ってしまった。下を見たら、この茶畑が空みたいに光っていて……星の仲間がいると思って、近づきすぎた」

 幹夫は茶畑を見渡した。

 確かに、露を抱いた茶葉は星空のようだった。上に星があり、下にも星がある。空と茶畑の境目が薄くなる時刻なら、小さな星が見間違えても不思議ではなかった。

 「帰りたいの?」

 幹夫が聞いた。

 小さな星は、すぐには答えなかった。

 茶葉の上で、白い光が少し揺れた。

 「帰りたい。でも、少し怖い」

 「怖い?」

 「空に戻っても、ぼくはまた見えなくなるかもしれない。大きな星のそばでは、ぼくの光は弱いんだ。誰も見つけてくれない。ここにいたら、茶葉がぼくを支えてくれる。露がぼくを映してくれる」

 幹夫は黙った。

 その気持ちが、少しわかる気がした。

 大きな声の中では、自分の声が小さくなる。 明るい笑いの中では、自分の沈黙が見えなくなる。 みんながすぐ答えを出す場所では、自分の迷いは邪魔なもののように感じる。

 小さな星は、空で迷子になっただけではなかった。

 自分の光が小さいことを、悲しんでいたのだ。

 幹夫は、茶葉の近くにしゃがんだ。

 「ぼくも、小さいことばかり見てるって言われた」

 星は幹夫を見た。

 目があるわけではない。けれど、光の奥がこちらを向いたのがわかった。

 「小さいことを見るのは、だめなの?」

 「わからない。でも、みんなは通り過ぎることを、ぼくはずっと考えてしまう」

 「それは、疲れる?」

 「うん。疲れる」

 幹夫は正直に言った。

 「でも、見えたものを見えなかったことにするのも苦しい」

 小さな星は、茶葉の上で静かにまたたいた。

 「じゃあ、君の心も小さな星を拾うんだね」

 幹夫は、その言葉に胸が少し熱くなった。

 小さなことを気にしすぎるのではなく、小さな星を拾っている。

 そう言われると、自分の苦しさの形が少しだけ変わる気がした。

 その時、足もとの土から低い声がした。

 「星を茶葉の上に長く置いてはいけないよ」

 幹夫は驚いて、あたりを見回した。

 声は、茶の木の根元から聞こえていた。土が話しているのだと、すぐにわかった。茶畑では時々、こういうことが起こる。人間の世界では聞こえないものが、夜明け前には少しだけ声を持つ。

 「どうしてですか」

 幹夫が聞くと、土は静かに答えた。

 「星は空の種。茶葉は地上の手。手は種を受け止められるが、抱え続けると重くなる。星も、支えられ続けると帰る力を忘れてしまう」

 小さな星は、少し暗くなった。

 「でも、ぼくは空に戻っても、誰にも見えないかもしれない」

 土はすぐには答えなかった。

 茶畑に朝前の風が通る。

 葉が、さわ、と鳴った。

 その音の中から、今度は茶葉の声が聞こえた。

 「見えない星も、夜を支えているよ」

 幹夫と小さな星は、同時に茶葉を見た。

 星を支えていた若い茶葉が、静かに揺れていた。

 「空で大きく光る星ばかりが夜を作るのではないよ。遠くの弱い星も、見えたり見えなかったりする星も、夜の深さを作っている。茶畑だって同じ。目立つ新芽だけで畑になるわけじゃない。古い葉も、影になった葉も、根に近い小さな葉も、みんなで茶の木を生かしている」

 小さな星は、黙った。

 幹夫も黙った。

 茶葉の言葉は、幹夫の胸にもゆっくり落ちてきた。

 見えるものだけが大切なのではない。

 大きな声だけが、教室を作るのではない。 発表する言葉だけが、心の全部ではない。 笑っている人だけが、そこにいるわけではない。

 黙っている子も、隅で迷っている子も、うまく言えない子も、同じ場所を深くしている。

 幹夫は、小さな星に言った。

 「帰ろう。ぼく、手伝う」

 星は不安そうにまたたいた。

 「どうやって?」

 幹夫は空を見上げた。

 東の空は少しずつ明るくなっている。星たちは薄れはじめ、夜の道は消えかけていた。急がなければならない。でも、ただ空へ放り投げればよいわけではないと幹夫にはわかった。

 茶葉が言った。

 「露の階段を作るの」

 「露の階段?」

 「茶葉の先の露をつないで、空へ上る道にする。小さな星は、光そのものでは飛べない。けれど、露に映った自分を一つずつたどれば、空の自分を思い出せる」

 幹夫は、茶畑の露を見た。

 葉の先に小さな丸い光がたくさんある。 ひとつひとつは小さい。 けれど、丘の斜面いっぱいに広がっている。

 それらをつなげば、確かに階段になるかもしれない。

 「どうすればつながるの?」

 幹夫が聞くと、茶葉は答えた。

 「幹夫が、ひとつずつ見てあげること」

 「見るだけで?」

 「見落とされている露は、ただの水になる。見つめられた露は、星を映す」

 幹夫は、胸が震えた。

 見ること。

 それだけでよいのだろうか。 それでもよいのだろうか。

 でも、今は信じるしかなかった。

 幹夫は、畝の先の露を一粒ずつ見つめはじめた。

 最初の露。

 そこには、茶葉の上で震える小さな星が映った。

 露は、ぽうっと光った。

 次の露。

 幹夫が見つめると、そこにも星の姿が映った。 また次の露。 また次の露。

 小さな光が、茶畑の畝に沿ってつながっていく。

 幹夫は、息をひそめながら進んだ。

 露を落とさないように。 茶葉を踏まないように。 小さな星が自分の姿を見失わないように。

 幹夫が見るたび、露は星を映し、星を映した露は小さな階段になった。茶畑の斜面を上り、空へ向かって、細い光の道が伸びていく。

 小さな星は、その光の道をゆっくり転がりはじめた。

 ころん。 ころん。

 露から露へ。

 星は進むたび、少しずつ明るくなった。

 けれど、途中で一度止まった。

 茶畑の端に、光の弱い露があった。葉の裏に隠れるようについていて、空をあまり映していなかった。

 「そこは、見えにくい」

 小さな星が言った。

 幹夫は、その葉の前にしゃがんだ。

 葉は少し傷ついていた。虫にかじられた跡があり、縁が茶色くなっている。露はその傷のそばで、弱く震えていた。

 「この露も、階段になる?」

 幹夫が聞くと、茶葉は答えた。

 「なるよ。ただ、少し時間がいる」

 幹夫は、その露をじっと見つめた。

 すぐには光らなかった。

 焦る気持ちが胸に生まれた。空は明るくなりつつある。小さな星を早く帰さなければならない。

 でも、幹夫は思い出した。

 見えにくいものほど、急いで見てはいけない。 傷のそばにある光は、強く照らすと隠れてしまう。

 幹夫は、呼吸をゆっくりにした。

 その露の中に何かが映るまで、待った。

 やがて、露の奥に小さな星の形が浮かんだ。

 完全な形ではなかった。

 傷のせいで、星は少し歪んで映っていた。けれど、その歪んだ光はやわらかく、どこか優しかった。

 「見えた」

 幹夫がつぶやくと、露は静かに光った。

 小さな星は、その露へ移った。

 「ありがとう」

 星の声が少し強くなった。

 「欠けたところにも、ぼくが映った」

 幹夫はうなずいた。

 「うん。きれいだった」

 その言葉は、星だけでなく、傷ついた葉にも届いたようだった。茶葉が、さわ、と小さく鳴った。

 露の階段は、畑のいちばん高いところまで続いた。

 そこには、古い茶の木が一本あった。ほかの木より幹が太く、根元には小さな石が置かれている。誰かが昔、祈りのために置いた石なのかもしれない。

 その木の一番上の葉に、大きな露がひとつあった。

 その露には、空が広く映っていた。

 小さな星は、最後の力を振りしぼるようにそこへ上った。

 しかし、そこから先に道がなかった。

 空は近いようで遠い。

 朝が迫っている。

 星は震えた。

 「やっぱり、届かない」

 幹夫の胸が痛んだ。

 その時、茶畑全体が静かにざわめいた。

 さわ。 さわ。 さわ。

 茶葉たちが、いっせいに露を揺らしていた。

 露の一粒一粒が、小さな光を空へ返す。

 畑全体から、細い湯気のようなものが立ちのぼりはじめた。

 それは、露の光だった。

 茶葉に宿った星の映りが、朝前の空気の中でひとつにつながり、白い糸のようになって空へ伸びていく。

 土が低く言った。

 「茶畑が、見送りの息を送る」

 幹夫は、胸がいっぱいになった。

 小さな星を帰すために、茶畑全部が息を合わせている。

 小さな露。 傷ついた葉。 古い葉。 若い芽。 土。 根。 そして幹夫の見る心。

 その全部が、小さな星の帰り道になっていた。

 「今だよ」

 茶葉が言った。

 幹夫は、小さな星に向かって手を伸ばした。

 つかむのではなく、送り出すように。

 「帰って」

 幹夫は言った。

 「小さくても、夜を支えているよ」

 その言葉を聞いた瞬間、小さな星は強く光った。

 星は、露の上からふわりと浮かんだ。

 茶畑の見送りの息に乗り、白い糸の道を上っていく。最初はゆっくり。やがて少しずつ速く。空へ、朝へ、まだ消え残る星々のほうへ。

 幹夫は見上げていた。

 星はどんどん小さくなった。

 でも、消えなかった。

 空の高いところで、一度だけまたたいた。

 それは、ありがとうという合図のようだった。

 やがて朝の光が増し、星は見えなくなった。

 幹夫はしばらく、その場に立っていた。

 小さな星が帰ったあと、茶畑には朝露だけが残っていた。

 何も特別なものはないように見える。

 けれど幹夫は知っていた。

 この露の一粒一粒が、小さな星の階段だったこと。 傷ついた葉にも、星が映ったこと。 茶畑全体が、見送りの息を送ったこと。

 そして、自分が小さなものを見つめる心を持っていたからこそ、その道ができたこと。

 幹夫は胸に手を当てた。

 昨日の言葉は、まだ少し残っている。

 小さいことを大きく考えすぎる。

 でも、その言葉の隣に、新しい言葉が置かれていた。

 小さな星を拾う心。

 そう思うと、胸の痛みは完全に消えなくても、少しやわらかくなった。

 幹夫は、茶畑に向かって小さく頭を下げた。

 「ありがとう」

 茶葉が、朝風に揺れた。

 さわ。

 それは、こちらこそ、と言っているようだった。

 家に帰ると、母が台所でお茶を淹れていた。

 湯呑みから白い湯気が上っている。

 幹夫は、その湯気を見た。

 さっき茶畑から立ちのぼった見送りの息に似ていた。露の光が空へ向かう時の、あの細い白い道に。

 母が言った。

 「早く起きたのね」

 幹夫はうなずいた。

 「茶畑に、小さな星が来てた」

 母は少し笑った。

 「夢を見たの?」

 幹夫は湯呑みを両手で包んだ。

 「ううん。たぶん、茶畑が見せてくれた」

 母は不思議そうにしたが、それ以上は聞かなかった。

 幹夫はお茶をひと口飲んだ。

 少し苦く、少し甘かった。

 その奥に、露の星の淡い光が残っている気がした。

 学校へ行く道で、幹夫は草の葉についた朝露を見つけた。

 小さな露だった。

 中に星はもう見えない。空はすっかり明るくなっている。

 それでも幹夫は、しばらくしゃがんで見た。

 小さいものを見て、何があるのか。

 今なら、少し答えられる気がした。

 小さいものには、帰り道がある。 見落とされた光がある。 大きな空を映す力がある。 そして、ときどき、迷子の星を帰す階段になる。

 幹夫少年は立ち上がった。

 胸の中には、まだ小さな星のまたたきが残っていた。

 それは誰にも見えない。

 けれど幹夫には確かに感じられた。

 小さくても、夜を支えている光だった。

 
 
 

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