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露の星と茶畑の子


 夜明け前の茶畑には、まだ朝になりきれないものたちが眠っていた。

 空は深い藍色で、遠くの山の稜線は、墨でそっとなぞったように静かだった。町の灯りは下のほうで小さくにじみ、まだ人の声はほとんど聞こえない。丘の斜面に沿って並ぶ茶の畝だけが、夜の湿り気を抱いて、暗い緑の波のように広がっていた。

 幹夫少年は、農道の端に立っていた。

 靴の先には、冷たい土が触れている。夜露を含んだ草の匂い、茶葉の青い匂い、湿った土の奥から上ってくる古い匂いが、静かに胸へ入ってきた。

 幹夫は、こういう時間が好きだった。

 昼間の世界は、少し速すぎる。

 誰かが笑えば、すぐ笑わなければならない。 誰かが「なんでもない」と言えば、それ以上聞いてはいけない。 何かに傷ついても、早く平気な顔へ戻らなければならない。

 けれど、夜明け前の茶畑は、何も急がなかった。

 葉は葉のまま、露を待っている。 土は土のまま、根を抱いている。 空は空のまま、朝になる前の暗さを大切に持っている。

 その静けさの中なら、幹夫も、自分の心を急いで明るくしなくてよかった。

 前の日、学校で小さな出来事があった。

 掃除の時間、幹夫は廊下の隅に落ちていた薄い紙片を拾った。それは誰かが書きかけて捨てたメモの切れ端で、そこには途中までの言葉があった。

 「ほんとうは、」

 それだけだった。

 ほんとうは。

 その先がなかった。

 幹夫は、その紙片から目を離せなくなった。誰が書いたのかも、何を書こうとしたのかもわからない。けれど、途中で消されてしまった言葉が、廊下の隅で小さく震えているように思えた。

 友だちがそれを見て笑った。

 「幹夫って、そういうのまで気にするんだな」

 責める声ではなかった。 ただ、少し軽い声だった。

 でも幹夫には、その言葉が胸に残った。

 そういうのまで。

 では、どこまで気にしてよいのだろう。 どこから先は、見ないふりをしたほうがいいのだろう。 誰かが言いかけてやめた「ほんとうは」は、拾わずに通り過ぎるべきものだったのだろうか。

 幹夫は、その答えがわからないまま、夜明け前の茶畑へ来たのだった。

 茶葉の先には、露が降りていた。

 ひと粒、またひと粒。

 まだ太陽は出ていないのに、露はかすかに光っていた。空に残る星を映しているのか、それとも露自身が光っているのか、わからないほど小さな輝きだった。

 幹夫は、ひとつの露に顔を近づけた。

 その露は、茶葉の縁で丸く震えていた。中に小さな星が浮かんでいる。空の星ではない。もっと近く、もっとやわらかく、まるで葉の上で眠っている星だった。

 「露の星だ」

 幹夫がつぶやくと、茶畑の奥で、小さな声がした。

 「見つけたね」

 幹夫は顔を上げた。

 茶の畝のあいだに、ひとりの子どもが立っていた。

 年は幹夫より少し幼く見えた。けれど、その子の目は、ずっと昔からこの丘を見てきたように深かった。髪は茶の新芽のように淡い緑を帯び、着ている服は土と霧を混ぜたような色をしている。裸足の足は、濡れた土の上に立っているのに、泥で汚れていなかった。

 その子の手には、小さな籠があった。

 籠の中には、露の星がいくつも入っていた。けれど、露なのにこぼれない。星なのにまぶしくない。どれも静かに、眠るように光っていた。

 「きみは、誰?」

 幹夫が聞くと、その子は茶葉の上の露をそっと見た。

 「茶畑の子」

 「茶畑の子?」

 「うん。茶の根が土の中で見た夢と、葉の上に降りた露と、ここで働いた人たちの手のぬくもりから生まれた子」

 幹夫は、その言葉をすぐには理解できなかった。

 けれど、その子が人間だけではないことはわかった。茶畑に属している。茶葉の揺れや土の匂いと同じ場所から来ている。そう感じた。

 茶畑の子は、幹夫の前まで歩いてきた。

 「露の星は、朝日が出る前に集めるんだよ」

 「どうして?」

 「朝日を受けると、露の星は消えてしまう。でも、消える前に願いを聞いてあげると、茶葉の中へ入って、香りになる」

 「願い?」

 「露の星は、夜のあいだに生まれた小さな願いを持っているの」

 茶畑の子は籠の中から、ひと粒の露の星を取り出した。

 それは、幹夫の指先ほどの大きさだった。光の中に、細い声が眠っているように感じられた。

 茶畑の子は言った。

 「聞いてみる?」

 幹夫は少し怖かった。

 小さな願いを聞くことは、軽いことではない。聞いてしまったものは、知らなかったころへ戻れないからだ。

 けれど、聞かずにはいられなかった。

 幹夫はうなずいた。

 茶畑の子は、露の星を幹夫の手のひらにそっと置いた。

 冷たかった。

 けれど、その冷たさの奥に、かすかな温もりがあった。夜のあいだ、茶葉の上で震えながら、それでも消えずにいたものの温もり。

 その瞬間、幹夫の胸に声が届いた。

 ――言えなかった言葉が、どこかへ行けますように。

 幹夫は息を止めた。

 廊下の隅の紙片が浮かんだ。

 ほんとうは、

 その先のない言葉。

 もしかすると、あれも夜になれば露の星になったのかもしれない。誰かの胸からこぼれ、紙に途中まで降りて、捨てられ、でも完全には消えず、どこかで小さく光っていたのかもしれない。

 幹夫の手のひらの露の星は、少し震えた。

 幹夫は、思わず言った。

 「行けるよ。たぶん。まだ言葉にならなくても、消えてないよ」

 言い終えると、露の星はふわりと光を強めた。

 そして茶畑の子の籠の中へ戻った。

 「今の願いは、香りになる」

 茶畑の子は言った。

 「どんな香り?」

 「誰かがお茶を飲んだ時に、胸の奥で『まだ言わなくてもいい。でも、なくなってはいない』と思える香り」

 幹夫は、胸が少し熱くなった。

 そんな香りがあるなら、どれほど救われる人がいるだろう。

 言いたいのに言えない人。 笑えないのに笑おうとしている人。 ほんとうは、と書いて、その先を消してしまった人。

 幹夫は、茶畑の子の籠を見つめた。

 「ほかの露の星にも、願いがあるの?」

 「あるよ」

 茶畑の子は畝のあいだを歩きはじめた。

 幹夫も後を追った。

 茶葉を踏まないように。露を落とさないように。夜明け前の静けさを壊さないように。

 次の露の星は、少し青白かった。

 茶畑の子がそれを幹夫に渡すと、幹夫の胸に別の声が届いた。

 ――誰にも気づかれなくても、ここにいました。

 それは、小さな虫の願いのようだった。茶葉の裏で生まれ、風に揺られ、雨を避け、誰にも見られないまま短い時間を生きた命の声。

 幹夫は目を閉じた。

 教室の隅で死んでいた虫を思い出した。以前、胸を痛めたあの小さな命。誰にも気づかれずに終わったと思っていたけれど、もしかすると何かが覚えていたのかもしれない。茶葉や土や、こういう露の星が。

 幹夫は小さく言った。

 「いたんだね」

 その言葉だけで、露の星は静かに明るくなった。

 茶畑の子は、それを籠へ戻した。

 「見てもらうだけで、眠れる願いもある」

 幹夫はうなずいた。

 言葉で助けられないことがある。 何も変えられないこともある。 でも、見たことまで無駄ではないのかもしれない。

 次の露の星は、少し濁っていた。

 光がまっすぐではなく、内側で揺れている。

 幹夫が触れると、胸に重たい声が届いた。

 ――強い風の日が怖かった。もう風がやんだのに、まだ揺れている。

 幹夫の喉が詰まった。

 自分のことのようだった。

 誰かの言葉はもう終わっている。 笑い声も消えている。 教室はいつもの教室に戻っている。

 それなのに、幹夫の胸だけがまだ揺れていることがある。

 風はやんだのに、心が揺れ続ける。

 幹夫は露の星を両手で包んだ。

 「まだ揺れていてもいいよ」

 そう言った。

 「でも、土はここにあるよ。茶の根も、まだ土をつかんでいるよ」

 露の星の濁りが、少しだけほどけた。

 完全に澄んだわけではない。けれど、揺れが少しやわらかくなった。

 茶畑の子は静かに言った。

 「幹夫は、露の星の声をよく聞くね」

 幹夫はうつむいた。

 「聞きすぎるって、言われる」

 「聞きすぎると、疲れるでしょう」

 「うん」

 幹夫は正直に答えた。

 「でも、聞こえてしまう。聞こえたものを、聞こえなかったことにするのも苦しい」

 茶畑の子は、しばらく黙っていた。

 それから、茶葉の上に残るたくさんの露を見た。

 「全部の露の星を、ひとりで持とうとしなくていいよ」

 幹夫は顔を上げた。

 「でも、聞こえたら」

 「聞こえたもの全部を抱えるのではなく、ひとつずつ籠に入れるの。籠は、胸の外にある場所」

 茶畑の子は、自分の籠を軽く掲げた。

 「茶畑には茶畑の籠がある。土にも、風にも、星にもある。幹夫も、自分の中に小さな籠を作るといい」

 「胸の外に?」

 「うん。心の中だけど、胸そのものではない場所。そこへ少し置く。そうすると、聞こえた声に押しつぶされない」

 幹夫は、その言葉をゆっくり受け取った。

 自分の中に小さな籠を作る。

 そこへ、聞こえたものを入れる。 すぐに答えにしない。 すぐに解決しようとしない。 でも、捨てもしない。

 それなら、できるかもしれないと思った。

 茶畑の子は、また歩き出した。

 空は少しずつ明るくなってきた。東のほうが青白くなり、星は一つずつ薄くなっていく。露の星たちも、急がなければ朝日に溶けてしまうのだろう。

 幹夫と茶畑の子は、畝をめぐった。

 露の星は、それぞれ違う願いを持っていた。

 ――昨日の雨を、葉の中で忘れませんように。 ――摘まれたあとも、土の匂いを覚えていられますように。 ――誰かの湯呑みで、ほんの少しだけ胸を温められますように。 ――言えなかったありがとうが、香りになれますように。 ――悲しみが、苦みだけで終わりませんように。

 幹夫はひとつずつ聞いた。

 すべてに立派な返事はできなかった。 けれど、聞いた。 聞いたことを、自分の胸の中に作りはじめた小さな籠へ、そっと置いた。

 不思議なことに、そうすると息が少し楽だった。

 声は胸に入る。 でも、胸の真ん中を刺すのではなく、籠の中で静かに光る。

 幹夫は、茶畑の子に聞いた。

 「露の星は、朝になったらどうなるの?」

 茶畑の子は、籠の中の光を見た。

 「願いを聞かれた露の星は、茶葉へ入る。茶葉はそれを香りにする。香りはお茶になって、人の体へ入る。それから、誰かの言葉や涙や眠りの中で、また小さな願いになる」

 「めぐるんだね」

 「うん。露は消えるけれど、願いは形を変えてめぐる」

 幹夫は、茶葉の上の露を見つめた。

 消えるものばかりだと思っていた。

 水たまりも。 湯気も。 露も。 言いかけてやめた言葉も。

 けれど、消えることと、なくなることは同じではないのかもしれない。

 露は茶葉へ。 茶葉は香りへ。 香りは胸へ。 胸はまた、言葉にならない願いへ。

 そうしてめぐるなら、幹夫が拾った「ほんとうは、」の紙片も、いつかどこかで形を変えるのかもしれなかった。

 やがて、茶畑のいちばん奥に着いた。

 そこには、一枚だけ大きな茶葉があった。

 ほかの葉より少し古く、縁には小さな傷があり、中央には大きな露の星がひとつ乗っていた。

 その露の星は、ほかのものよりずっと重そうだった。

 光はやわらかいが、内側に深い青を抱えている。

 茶畑の子は、急に静かになった。

 「これは、わたしの露の星」

 「きみの?」

 「うん。茶畑の子にも、願いがある」

 幹夫は、茶畑の子を見た。

 茶畑の子は、いつもより幼く見えた。夜明け前の光の中で、少し透けているようにも見えた。

 「どんな願い?」

 幹夫が聞くと、茶畑の子はすぐには答えなかった。

 茶葉の上の大きな露の星が、ゆっくり揺れた。

 やがて、茶畑の子は言った。

 「わたしは、毎朝、露の星を集める。でも、自分の願いだけは、ずっと聞けなかった」

 「どうして?」

 「聞いてしまうと、わたしが何を寂しがっているのか、わかってしまうから」

 幹夫は、胸が痛んだ。

 それはよくわかった。

 悲しみの理由がわからない時、苦しい。 でも、理由がわかってしまうのも怖い。 名前をつけると、もう逃げられなくなる気がする。

 茶畑の子は、露の星に手を伸ばそうとして、止めた。

 「幹夫、一緒に聞いてくれる?」

 幹夫はうなずいた。

 「うん」

 ふたりは、大きな露の星にそっと触れた。

 冷たい光が、幹夫の胸に広がった。

 そして、声が聞こえた。

 ――見送るばかりで、寂しい。

 その声は、茶畑の子の声だった。

 ――露の星を茶葉へ送る。茶葉を香りへ送る。香りを人の胸へ送る。みんな形を変えていく。けれど、わたしはいつも茶畑に残る。見送ることは大切だけれど、ときどき、わたしも誰かに見送られたい。

 幹夫は、胸がいっぱいになった。

 茶畑の子は、いつも聞く側だった。集める側だった。誰かの願いを籠に入れ、香りへ変える手伝いをしていた。

 でも、その子自身にも寂しさがあった。

 幹夫は、露の星を見つめた。

 「ぼくが、見送るよ」

 茶畑の子が幹夫を見た。

 「ほんとうに?」

 「うん。今日の朝、きみの願いが茶葉に入って香りになるなら、ぼくが見送る。忘れないようにする」

 茶畑の子の目に、露のような光が浮かんだ。

 大きな露の星は、ふたりの手の中で静かに明るくなった。

 そして、茶葉の上へゆっくり沈んでいった。

 茶葉は光を吸い込み、傷のある縁までやわらかく輝いた。

 その瞬間、茶畑全体が、さわ、と鳴った。

 それは風ではなかった。

 茶葉たちが、茶畑の子へ送った返事だった。

 ――見送ってくれて、ありがとう。 ――いつも聞いてくれて、ありがとう。 ――あなたの寂しさも、香りになるよ。

 茶畑の子は、涙をこぼした。

 その涙は土へ落ちず、露のように茶葉の上に残った。

 幹夫は、その涙を見て思った。

 誰かの願いを聞く人にも、聞いてもらう時間が必要なのだ。

 自分も、いつも聞いているばかりではいけない。 聞こえてしまうものを籠に入れるだけではなく、自分の願いも、いつか誰かに渡してよいのだ。

 東の空に、朝日が触れた。

 最初の光が茶畑を渡った。

 露の星たちは、一斉に輝いた。

 それから、消えるのではなく、茶葉の中へ静かに入っていった。まるで小さな星々が、緑の葉脈を通って、茶の木の奥へ帰っていくようだった。

 茶畑の子の籠も、空になっていた。

 けれど、空っぽなのに寂しくは見えなかった。

 籠の底には、淡い香りが残っていた。

 茶畑の子は、幹夫にその籠を差し出した。

 「持って帰ることはできないけれど、香りを少し持っていって」

 幹夫は、籠に顔を近づけた。

 茶の香りがした。

 その中に、たくさんの露の星の願いが混じっていた。

 言えなかった言葉。 小さな命の跡。 風に揺れ続ける葉の震え。 誰かのありがとう。 茶畑の子の寂しさ。

 そして、それらが苦みだけで終わらず、香りへ変わろうとする静かな力。

 幹夫は、その香りを胸いっぱいに吸い込んだ。

 「覚えているよ」

 そう言うと、茶畑の子は微笑んだ。

 「忘れてもいいよ。お茶を飲んだ時に、また思い出せば」

 その言葉とともに、茶畑の子の姿は朝の光の中で少しずつ薄れていった。

 「また会える?」

 幹夫が聞くと、茶畑の子は、もう半分ほど光に溶けながら答えた。

 「夜明け前に、露の星を見つけたら」

 そして、消えた。

 茶畑には、朝が来ていた。

 緑の畝が明るく浮かび上がり、鳥が鳴き、遠くの町が目を覚ましはじめている。露の星はもう見えなかった。けれど葉の奥に、何かが残っているような気がした。

 幹夫は、農道をゆっくり歩いて帰った。

 胸の中には、小さな籠があった。

 そこには、聞いた願いがいくつも入っている。けれど、今までのように胸を刺してはいなかった。籠の中で、ひとつひとつが静かに光っていた。

 家に帰ると、母が台所でお茶を淹れていた。

 湯呑みから湯気が立っている。

 幹夫は、その湯気を見た。

 白く、細く、すぐに消えてしまう。

 でも、そこには今朝の露の星が入っているのだと思った。茶畑の子の寂しさも、言えなかった言葉も、誰かの小さな願いも、香りになって上っている。

 母が言った。

 「どうしたの。ぼんやりして」

 幹夫は首を振った。

 「お茶の香りを聞いてた」

 母は少し笑った。

 「香りを聞くの?」

 幹夫も少し笑った。

 「うん。今日は、聞こえる気がする」

 幹夫は湯呑みを両手で包み、ゆっくりお茶を飲んだ。

 苦みがあった。

 そのあとに、甘みが来た。

 そして、その奥に、夜明け前の茶畑で見送った露の星たちの、静かな光があった。

 
 
 

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