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茶の葉の上の銀河


 雨上がりの茶畑は、夕暮れの光をまだ少しだけ抱いていた。

 丘の斜面には、丸く刈りそろえられた茶の畝が幾筋も並び、葉の一枚一枚に細かな水滴が残っている。西の空は淡い橙色から紫へ変わり、遠くの町の屋根は、湿った空気の向こうでやわらかく霞んでいた。

 幹夫少年は、茶畑の端に立っていた。

 靴の底には、雨を吸った土の柔らかさが伝わってくる。茶の葉からは、青く少し苦い匂いが立ちのぼっていた。それは、洗われたばかりの緑の匂いであり、土の中から静かに上がってくる息の匂いでもあった。

 幹夫は、その匂いを吸い込むと、胸の中のざわめきが少しだけ沈む気がした。

 その日、学校で幹夫は友だちに言われた。

 「幹夫って、葉っぱ一枚でもずっと見てるよな」

 言った子は笑っていた。意地悪ではなかったのだと思う。

 けれど、そのあとに別の子が、

 「そんな小さいもの見て、何があるの」

 と言った。

 それも、きっと軽い言葉だった。

 でも幹夫には、その言葉が胸に残った。

 小さいものには、何もないのだろうか。

 葉っぱ一枚には、見つめるほどのものはないのだろうか。

 幹夫は、そうは思えなかった。

 葉の縁に残る雨粒。 水滴の中に映る逆さまの空。 虫が通った細い跡。 葉脈が光を受けて浮かぶ一瞬。 風に揺れたあと、葉がもとの場所へ戻ろうとする小さな動き。

 そういうものを見ると、幹夫の胸はなぜかいっぱいになった。

 小さいものほど、見落とされたまま消えてしまう気がした。だから見ておきたかった。せめて、自分だけは気づいていたいと思った。

 けれど、それを言葉にすると、うまく伝わらない。

 大げさだと思われる。 変だと思われる。 また、考えすぎだと言われる。

 幹夫は茶畑の畝に近づき、一枚の葉の前にしゃがんだ。

 雨粒が、葉の上にひとつ残っていた。

 夕暮れの空を映した、小さな水の玉。

 幹夫はそれをじっと見つめた。

 すると、その水滴の奥で、何かが動いた。

 最初は、空の雲が揺れたのだと思った。

 けれど違った。

 水滴の中に、星があった。

 まだ夜には早い。空には星など見えない。けれどその茶の葉の上の小さな水滴の中だけに、細かな光が無数に瞬いていた。

 幹夫は息を止めた。

 水滴の中に、銀河があった。

 白く淡い光の帯が、小さな水の世界を横切って流れている。星々は水の中で揺れながら、ゆっくり巡っていた。あまりに小さいのに、あまりに遠い。幹夫は、自分の目が茶の葉の上から、果てのない空の奥へ吸い込まれていくように感じた。

 「見つけたね」

 声がした。

 幹夫は顔を上げた。

 茶の葉の向こう側に、小さな人が立っていた。

 背丈は親指ほどしかない。頭には細い笠をかぶり、肩には銀色の糸で編まれた袋をかけている。服は緑と青の間のような色で、葉脈の模様がうっすら走っていた。

 その小さな人は、茶葉の上を歩いていた。

 足もとは濡れているはずなのに、水滴は少しも崩れない。

 「あなたは、誰?」

 幹夫が聞くと、小さな人は笠を少し上げた。

 「葉上の星図係」

 「星図係?」

 「茶の葉の上に映る銀河を調べている。人間は空ばかり見上げるけれど、星は上だけにあるわけじゃない。葉の上にも、湯呑みの中にも、涙の表面にも、時々降りてくる」

 幹夫は、もう一度水滴の中を見た。

 銀河は、確かにそこにあった。

 「こんな小さなところに、銀河が入るの?」

 幹夫が聞くと、星図係は静かに笑った。

 「入るのではないよ。映るんだ。でも、映るということは、ただの真似ではない。小さなものは、大きなものを受け止める形を持っている」

 幹夫は、その言葉をゆっくり胸に入れた。

 小さなものは、大きなものを受け止める形を持っている。

 葉っぱ一枚には何があるの、と言われた時、幹夫は答えられなかった。けれど今、茶の葉の上には銀河があった。

 小さいから何もないのではない。 小さいからこそ、こぼさずに映るものがある。

 星図係は、水滴のそばに膝をついた。

 「今夜、この銀河は少し乱れている」

 「乱れている?」

 「星の並びが、少し悲しみに寄りすぎている」

 幹夫は水滴をのぞき込んだ。

 銀河の中の星々は美しく見えた。けれど、よく見ると、いくつかの星が端のほうへ寄り、白い帯の一部が細く沈んでいるようにも見えた。

 「どうして?」

 幹夫が聞くと、星図係は幹夫を見上げた。

 「君が持ってきた言葉が、葉の上に映ったから」

 幹夫は胸を押さえた。

 「ぼくの?」

 「うん。小さいものには何があるの、という言葉。君はそれを胸に入れたまま、この葉を見た。だから水滴の銀河が、少しだけその言葉の形になった」

 幹夫は、急に申し訳なくなった。

 「ぼくのせいで、銀河が乱れたの?」

 星図係は首を横に振った。

 「せい、ではないよ。心にあるものが映っただけ。映ることは、悪いことではない。見えるようになったということだから」

 幹夫は黙った。

 胸の中の言葉は、いつも見えない。 見えないから、大きさがわからない。 わからないまま抱えていると、だんだん重くなる。

 でも、茶の葉の上の銀河に映ったなら、それを少し外から見ることができるのかもしれない。

 「どうすれば、銀河は戻るの?」

 幹夫が聞くと、星図係は袋の中から小さな針のようなものを取り出した。

 針ではなかった。 星の光でできた、細い筆だった。

 「星を動かすには、葉の声を聞く必要がある」

 「葉の声?」

 「この葉は、ただの葉ではない。雨を受け、風に揺れ、土から水をもらい、人の手を待っている。だから、葉にも言い分がある」

 星図係は、幹夫に小さな筆を差し出した。

 幹夫が受け取ろうとすると、筆は不思議なことに幹夫の指に合う大きさになった。細く、軽く、けれど確かな温もりがある。

 「まず、聞いて」

 星図係が言った。

 幹夫は茶の葉に顔を近づけた。

 葉は黙っているように見えた。けれど、風が通ると、ほんの少し震えた。

 さわ。

 その音の奥に、小さな声があった。

 ――わたしは小さい。

 幹夫は息を止めた。

 ――けれど、小さいことは寂しいことばかりではない。雨粒をひとつ受けられる。虫の足を休ませられる。朝の光を一枚ぶんだけ受けられる。人の湯呑みへ行けば、ひと口ぶんの香りになれる。

 幹夫は、胸が熱くなった。

 葉は続けた。

 ――でも、ときどき怖くなる。大きな風が来ると、自分などすぐにちぎれると思う。強い日差しが続くと、薄い体が乾いてしまうと思う。誰かに小さいと言われると、本当に自分には何もないのかもしれないと思う。

 それは、幹夫自身の声にも聞こえた。

 小さいと言われること。 薄いと言われること。 大げさだと思われること。

 幹夫は、葉にそっと言った。

 「ぼくも、そう思うことがある」

 茶葉は、かすかに揺れた。

 星図係が言った。

 「では、その声を銀河に書いて」

 「書く?」

 「言葉そのものではなく、聞いた形を」

 幹夫は、星の筆を水滴の上へ近づけた。

 触れれば水滴が壊れるのではないかと怖くなった。けれど筆の先は、水面に触れず、光だけを落とした。

 幹夫は、銀河の端に寄っていた星をひとつ、少し中央へ戻した。

 強く動かすのではなく、そっと道を示すように。

 すると、水滴の中の銀河がかすかに広がった。

 白い帯の細く沈んでいた部分に、少し光が戻った。

 「上手」

 星図係が言った。

 「今のは、何を書いたの?」

 幹夫は考えた。

 「小さいけれど、空っぽじゃないって」

 言葉にすると、胸の奥が少し震えた。

 星図係はうなずいた。

 「それは、とても大切な星の位置だ」

 幹夫は、もう一度水滴の銀河を見た。

 まだ乱れは残っていた。端のほうに、暗い星がひとつ沈んでいる。

 「あれは?」

 幹夫が指さすと、星図係は少し真剣な顔になった。

 「あれは、笑われた言葉の星」

 幹夫の胸が痛んだ。

 「お茶の湯気って、地味だな」

 その言葉を思い出した。

 地味。

 幹夫は、その言葉が嫌いではなかったはずだ。地味なものの中にも、幹夫は美しさを見つけてきた。でも、人に言われると、それは急に恥ずかしいもののように感じられた。

 湯気。 露。 葉の上の水滴。 小さな虫。 沈黙。

 幹夫が大切に思うものは、みんな目立たない。

 それを笑われると、自分の心の奥まで笑われたように感じた。

 「この星は、どう動かせばいいの?」

 幹夫が聞くと、星図係は首を横に振った。

 「動かさない星もある」

 「でも、沈んでいる」

 「沈んでいる星を無理に明るい場所へ引っ張ると、光が割れてしまう。まず、そばに小さな星を置く」

 星図係は袋から、ほんの小さな光を取り出した。

 「これは、湯気の星」

 幹夫はそれを見た。

 淡く、白く、すぐ消えそうな星だった。けれど、よく見ると光の中に温かさがあった。朝の台所。湯呑み。両手で包む温もり。母の声。

 星図係は、その湯気の星を幹夫に渡した。

 「これを、沈んだ星のそばへ」

 幹夫は筆の先で湯気の星を受け取り、水滴の銀河へそっと置いた。

 沈んだ星のすぐ隣に。

 すると、沈んだ星はすぐには明るくならなかった。けれど、暗さの輪郭が少しやわらいだ。隣に置かれた湯気の星が、何も言わずに光っている。

 幹夫は、胸の奥で何かがほどけるのを感じた。

 悲しい言葉は、すぐ消えなくてもいい。

 でも、そのそばに温かい記憶を置くことはできる。

 地味だと言われた湯気のそばに、幹夫が本当に好きだった湯気の温かさを置く。

 それだけで、言葉の痛みは少し形を変えるのかもしれない。

 茶葉が、さわ、と鳴った。

 まるで、よかったねと言っているようだった。

 水滴の銀河は、さっきより広く、深くなっていた。

 けれど今度は、銀河の中心にひとつ、見慣れない空白があった。

 星が何もない場所。

 幹夫は不安になった。

 「ここだけ、何もありません」

 星図係は、その空白をじっと見つめた。

 「それは、まだ言葉になっていない場所」

 「言葉になっていない?」

 「君が本当は言いたかったのに、まだ言えなかったことがある」

 幹夫は黙った。

 本当は言いたかったこと。

 幹夫は、茶の葉の上の銀河を見つめながら、胸の奥を探した。

 何が悲しかったのだろう。

 葉っぱ一枚には何があるの、と言われたこと。 お茶の湯気が地味だと笑われたこと。 自分の好きなものが、人には伝わらなかったこと。

 でも、もっと奥にあるものは別だった。

 幹夫は、小さな声で言った。

 「ぼくは、見ているものを、一緒に見てほしかったんだと思う」

 星図係は、何も言わなかった。

 幹夫は続けた。

 「葉っぱ一枚を、すごいねって言ってほしかったわけじゃない。お茶の湯気を褒めてほしかったわけでもない。ただ、ぼくが見ているものを、ほんの少しでいいから、一緒に見てもらえたらうれしかった」

 言い終えたとたん、胸が熱くなった。

 それは、幹夫自身も知らなかった言葉だった。

 自分は認められたかったのではない。 勝ちたかったのでも、特別だと言われたかったのでもない。

 ただ、一緒に見たかった。

 小さなものの中にある広さを。 湯気の中の温かさを。 茶の葉の上の銀河を。

 幹夫の目に涙が浮かんだ。

 その涙が一粒、茶の葉の上に落ちた。

 水滴の隣に、小さな涙の玉ができた。

 すると不思議なことに、その涙の中にも星が映った。

 星図係は静かに言った。

 「これで、空白に星が生まれる」

 涙の玉から、小さな光がひとつ浮かび、水滴の銀河の中心へ入っていった。

 空白の場所に、星が灯った。

 強い光ではなかった。 むしろ、とても弱い光だった。 でも、銀河の中心で静かに瞬いている。

 「これは、何の星?」

 幹夫が聞くと、星図係は答えた。

 「分かち合いたかった星」

 その星が灯ると、水滴の銀河全体が、ゆっくり回りはじめた。

 星々は無理に整えられたのではない。それぞれ少しずつ違う明るさで、それぞれの場所にいる。沈んだ星も、湯気の星のそばで静かに光を受けている。端に寄っていた星も、少しずつ自分の場所を見つけている。

 幹夫は、その銀河を見ながら思った。

 心も、こんなふうなのかもしれない。

 痛い言葉。 好きなもの。 恥ずかしさ。 涙。 誰かと分かち合いたい願い。

 それらを全部なくすのではなく、位置を少しずつ見つけていく。

 そうすれば、胸の中にも銀河が巡るのかもしれない。

 そのとき、茶葉の上の水滴が、朝の光を受けて輝いた。

 幹夫は空を見た。

 いつの間にか夜は終わりかけていた。東の空が明るくなり、鳥の声が遠くから聞こえる。茶畑の露が一つひとつ光を増している。

 「もうすぐ、この銀河は消えるの?」

 幹夫は聞いた。

 星図係は、首を横に振った。

 「見えなくなるだけ。水滴は乾き、星は葉の中へ入る。葉は光を香りに変える。いつかお茶になって、誰かの湯呑みに戻る」

 「ぼくの胸にも?」

 「もちろん。今見たものは、君の中にも入った」

 幹夫は、水滴の銀河をもう一度見た。

 朝日に照らされて、銀河は少しずつ淡くなっている。

 星図係の姿も薄れはじめていた。

 「また会えますか」

 幹夫が聞くと、星図係は笠を少し下げた。

 「茶の葉の上に小さな水が残り、その中を急がず見つめる時には」

 「いつでも?」

 「いつでも、とは限らないよ。でも、見つめる心があれば、星図はどこかに現れる」

 星図係は、最後に幹夫へ星の筆を差し出した。

 「これは持って帰れない。でも、使い方は覚えておける」

 「星を動かす使い方?」

 「胸の中の星を、少しずつ置き直す使い方」

 幹夫は、筆を両手で包むようにして返した。

 「ありがとう」

 星図係は、にっこりした。

 「小さいものを見続ける子は、ときどき大きすぎるものまで見てしまって疲れる。でも忘れないで。茶の葉は、銀河を全部背負っているわけじゃない。ただ、映しているだけ」

 その言葉を残して、星図係は茶葉の露の光に溶けた。

 水滴は、朝日を受けてきらりと光ったあと、少しずつ小さくなっていった。

 銀河はもう見えなかった。

 けれど幹夫は、そこにあったことを知っていた。

 家に帰ると、母が台所でお茶を淹れていた。

 湯呑みから、白い湯気が立っている。

 幹夫は、いつもよりゆっくりその湯気を見た。

 湯気の中に、茶の葉の上の銀河が少しだけ混じっているような気がした。あの沈んだ星も、湯気の星も、分かち合いたかった星も、全部がかすかな香りになって立ちのぼっているようだった。

 母が聞いた。

 「どうしたの。お茶、冷めちゃうよ」

 幹夫は湯呑みを両手で包んだ。

 「うん。でも、少し見ていたい」

 母は不思議そうにしながらも、何も言わなかった。

 幹夫はお茶をひと口飲んだ。

 苦みがあった。 そのあとに甘みがあった。 そして今日は、その奥に小さな星の巡る気配があった。

 学校へ行くと、幹夫はノートの隅に一行だけ書いた。

 葉っぱ一枚にも、銀河が映ることがある。

 それから、少し考えて、もう一行足した。

 ぼくはそれを、誰かと一緒に見たかった。

 書いた文字は、まだ少し震えていた。

 でも、幹夫は消さなかった。

 いつか誰かが、その言葉を見て笑うかもしれない。 わからないと言うかもしれない。 でも、もしかしたら一人くらいは、少し立ち止まってくれるかもしれない。

 その日、帰り道で、幹夫は道ばたの葉に雨粒が残っているのを見つけた。

 小さな水滴だった。

 中に銀河は見えなかった。

 ただ、空が逆さまに映っているだけだった。

 けれど幹夫は、そこにしゃがみこんで、しばらく見つめた。

 何があるの、と聞かれたら、まだうまく答えられないかもしれない。

 でも、今なら少しだけ言える気がした。

 小さいものには、小さいままの広さがある。 葉の上の水滴には、空が入る。 心の中の涙にも、星が映る。 そして、誰かとそれを分かち合いたいという願いが、銀河の中心で静かに光る。

 幹夫少年は、立ち上がった。

 足もとの葉は、風に揺れていた。 水滴も揺れていた。 その中の小さな空も、揺れていた。

 でも、壊れてはいなかった。

 幹夫の胸の中の銀河もまた、静かに巡っていた。

 
 
 

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