星を摘む茶摘み娘
- 山崎行政書士事務所
- 36 分前
- 読了時間: 13分

夜明け前の茶畑には、まだ誰のものでもない時間が流れていた。
空は深い藍色で、東の端だけが少しずつ薄くなりはじめている。町の灯りは遠くに沈み、山の輪郭はまだ眠りの中にあった。丘の斜面には、茶の畝が幾筋も並び、夜露をまとって静かに息をしていた。
幹夫少年は、農道の端で立ち止まった。
茶葉の先には、露が降りていた。
ひと粒ひと粒が小さく光っている。けれど、その朝の露はいつもと違っていた。丸い水の中に星が映っているのではなく、露そのものが星のように光っていたのだ。
幹夫は、胸の奥が少し震えるのを感じた。
こんなに小さなものが光っている。 誰にも見つけられないまま、朝になれば消えてしまうかもしれない。 それなのに、今だけは確かにここにある。
幹夫は、そういう光に弱かった。
大きな灯りよりも、小さく震える光が気になる。 みんなが見上げる花火よりも、草の陰で一瞬だけ光る露に心を奪われる。 明るい声よりも、言いかけて飲み込まれた言葉のほうが、いつまでも胸に残る。
そのせいで、幹夫はときどき疲れてしまう。
学校では、みんなが軽く通り過ぎることの前で、幹夫だけが立ち止まることがあった。笑い声の端にある寂しさ。机の上に置き忘れられた消しゴム。誰かが「平気」と言った時の、ほんの少し曇った目。
気づかなくてもよいのに、気づいてしまう。
気づいても何もできないのに、胸の中に入ってきてしまう。
その日も、幹夫は眠れなかった。
だから、まだ朝になりきらないうちに、茶畑まで歩いてきたのだった。
その時、茶畑の奥から、かすかな歌が聞こえた。
声はとても小さかった。
風の音にも、葉擦れにも、遠くの鳥の声にも似ていた。けれど、それは確かに歌だった。幹夫は耳を澄ませた。
茶畑の畝のあいだに、一人の少女が立っていた。
白い手ぬぐいを頭に巻き、紺色の作業着を着ている。背には竹で編んだ籠を負い、手には茶摘み鋏ではなく、小さな銀色の指ぬきのようなものをはめていた。
少女は、茶葉を摘んでいた。
けれど摘んでいるのは葉ではなかった。
茶葉の先に宿った小さな星を、指先でそっと摘み取っているのだ。
星は、摘まれるたびに小さく震え、少女の籠の中へ入ると、かすかな音を立てた。
ちりん。 ちりん。
まるで、遠い夜空で鳴る鈴のようだった。
幹夫は思わず声を出した。
「星を、摘んでいるの?」
少女は手を止めた。
ゆっくり振り向く。
その顔は、幹夫より少し年上に見えた。けれど目だけは、ずっと昔から茶畑の夜明けを見てきた人のように静かだった。
「見えるのね」
少女は言った。
幹夫はうなずいた。
「それは、星なの?」
「うん。茶葉に降りた星」
少女は、茶の葉を傷つけないように指先を離した。
「夜のあいだ、空から少しだけ落ちてくるの。茶葉はそれを受け止める。でも朝日が出る前に摘んであげないと、星は葉の中で迷って、苦みになりすぎてしまう」
「苦み?」
「お茶には苦みがいる。でも、多すぎると胸に刺さるでしょう」
幹夫は黙った。
苦みが胸に刺さる。
その言葉は、幹夫の心によくわかった。 誰かの何気ない言葉。 笑い声の中の小さな棘。 自分だけが気にしているような痛み。
それらも、胸の中で苦みになりすぎることがある。
少女はまた、茶葉の星をひとつ摘んだ。
ちりん。
「あなたは、茶摘み娘なの?」
幹夫が聞くと、少女は少し笑った。
「そう呼ばれることもあるよ。でも、昼の茶葉を摘む人とは少し違う。わたしは、夜明け前に星を摘むの」
「どうして?」
「茶畑が眠れるように。星が空へ帰れるように。人が飲むお茶に、少しだけ夜空の記憶が残るように」
少女の籠の中には、たくさんの小さな星が入っていた。
けれど不思議なことに、籠の中はまぶしくなかった。星たちは、互いにぶつからないように静かに並び、眠る前の子どもたちのように淡く光っている。
幹夫は、その光を見て胸が痛くなった。
「摘まれた星は、どうなるの?」
「お茶になる」
少女は答えた。
「といっても、葉になるわけじゃない。香りになるの。人が湯呑みを両手で包んだ時、ふっと胸が軽くなることがあるでしょう。理由はわからないけれど、少しだけ大丈夫だと思えることがある。あれは、摘まれた星が香っているの」
幹夫は、母が淹れてくれるお茶を思い出した。
朝の台所。 湯呑みから立つ白い湯気。 苦みのあとに来る、ほんの少しの甘み。 言葉にできない疲れを、すぐには消さず、ただそばに座ってくれるような温かさ。
あの中に、星が入っていたのだろうか。
幹夫は、茶葉の先の星を見つめた。
「ぼくにも、手伝える?」
言ってから、自分で驚いた。
いつもの幹夫なら、そんなことは簡単に言えない。失敗したらどうしよう、邪魔になったらどうしよう、と考えてしまう。
けれど、星が茶葉の中で迷ってしまうと聞いて、放っておけなかった。
少女は幹夫を見た。
「手伝うのは、難しいよ」
「やっぱり、ぼくには無理?」
「無理じゃない。でも、星は強くつかむと消えてしまう。怖がりすぎて触れないと、朝に間に合わない。ちょうどいい力を探さないといけない」
幹夫は、自分の手を見た。
誰かを傷つけたくなくて、いつもためらう手。 自分が傷つきたくなくて、握りしめてしまう手。 何かを大切にしたいのに、どう触れたらいいかわからない手。
少女は、小さな銀色の指ぬきをひとつ幹夫に渡した。
「まず、葉に聞いて」
「葉に?」
「どの星を摘んでほしいか、茶葉が教えてくれる」
幹夫は、指ぬきをはめた。
冷たいと思ったが、指に触れるとほんのり温かかった。星の光と茶の葉の温度が混じっているようだった。
幹夫は一枚の茶葉の前にしゃがんだ。
そこには、小さな星がひとつ乗っていた。露よりも軽く、けれど露よりも深く光っている。
幹夫は指を伸ばした。
でも、触れる直前で止まった。
怖かった。
消してしまうかもしれない。 傷つけてしまうかもしれない。 自分の不器用な手で、こんな小さな光に触れていいのかわからなかった。
すると、茶葉がかすかに鳴った。
さわ。
それは、早くして、という音ではなかった。
大丈夫、という音でもなかった。
ただ、ここにいるよ、という音だった。
幹夫は、少し息を吐いた。
星をつかもうとせず、星の下に指を添えるようにした。
すると星は、自分からころりと幹夫の指先へ移った。
重さはほとんどない。
けれど、胸の奥に小さな鈴の音が響いた。
ちりん。
幹夫は、そっと少女の籠へ星を入れた。
「できた」
幹夫の声は震えていた。
少女はうなずいた。
「今の力、覚えておいて」
「力?」
「大切なものに触れる力」
幹夫は、指先を見た。
星を摘んだあとの指には、何も残っていない。けれど、そこだけ少し温かかった。
大切なものに触れる力。
それは、幹夫がずっと探していたものかもしれなかった。
人の悲しみに気づいた時、どうすればいいかわからない。 傷ついた言葉を胸に抱いた時、どう扱えばいいかわからない。 自分の繊細さに触れる時でさえ、強く責めすぎたり、怖がって見ないふりをしたりしてしまう。
でも、今のように触れればいいのだろうか。
つかまない。 突き放さない。 ただ、指先を添えて、相手が移ってくるのを待つ。
幹夫は、少女と一緒に星を摘みはじめた。
茶畑の畝を一つずつ歩く。
若い葉の星は、青白く震えていた。 古い葉の星は、少し金色で落ち着いていた。 虫にかじられた葉の星は、光が少し欠けていたが、その欠けたところから柔らかな光がこぼれていた。
幹夫は、欠けた星を見て立ち止まった。
「この星は、摘んでもいいの?」
少女は言った。
「もちろん」
「でも、欠けている」
「欠けている星には、欠けた星の香りがある」
少女は、その星を両手で包むように摘んだ。
「完全な光だけでは、お茶は浅くなる。少し欠けた光が入ると、飲む人の胸の欠けたところに届くことがあるの」
幹夫は、胸に手を当てた。
自分の中にも欠けたところがある。
うまく笑えなかった日。 言いたいことを言えなかった日。 自分を嫌いになりかけた日。
その欠けた場所に届く香りがあるなら。
欠けた星も、必要なのだ。
茶摘み娘は、籠を少し揺らした。
星たちが小さく鳴った。
ちりん。 ちりん。
その音は、悲しみを消す音ではなかった。 でも、悲しみがひとりではないと知らせる音だった。
やがて、幹夫は一枚の茶葉の前で足を止めた。
その葉には星が乗っていなかった。
葉の先には露だけがあり、光は弱かった。
「ここには星がない」
幹夫が言うと、少女は膝をついた。
「この葉は、星を受け止めそこねたの」
「どうして?」
「昼間に風が強くて、葉がずっと震えていた。夜になっても、まだ自分が揺れていると思っている。だから星が来ても、怖くて受け取れなかった」
幹夫は、その葉を見つめた。
風がやんでも、自分だけまだ揺れていると思ってしまう葉。
それは、自分に似ていた。
友だちの笑い声が終わっても、胸の中ではまだ響いている。 誰ももう気にしていないのに、自分だけその場に残っている。 風は止んだのに、心は揺れ続けている。
「この葉は、どうすればいいの?」
幹夫が聞いた。
少女は、籠から小さな星をひとつ取り出した。
それは摘んだばかりの星ではなく、籠の底に眠っていたごく淡い星だった。
「これは、余り星」
「余り星?」
「誰かの茶葉に乗るはずだったけれど、少しだけ行き場をなくした星。こういう星は、受け止めそこねた葉のそばに置いてあげる」
少女は、その淡い星を茶葉の隣に置いた。
葉の上ではなく、すぐそばの露の上に。
「乗せないの?」
「まだ怖がっているから。そばにいるだけでいいの」
幹夫は、その光景をじっと見た。
星は葉に押しつけられなかった。
ただ、そばで光っている。
茶葉は最初、かすかに震えていた。けれど少しずつ、葉の揺れが静まっていった。
露の上の星は、何も言わずに光っていた。
幹夫の胸に、温かい痛みが広がった。
誰かが悲しい時、何か言わなければならないと思っていた。 励まさなければ。 慰めなければ。 理由を聞かなければ。
でも、そばに置く星もあるのだ。
すぐに心の上へ乗せなくてもいい。 ただ、隣で光るだけでいい。
少女は幹夫を見て言った。
「幹夫も、誰かの余り星になれるよ」
「余り星?」
「誰かの心に無理に入らず、そばで小さく光る星」
幹夫は、何も言えなかった。
それなら、自分にもできるかもしれないと思った。 大きな言葉は言えなくても。 明るく励ますことはできなくても。 そばにいて、静かに光ることなら。
その時、東の空が少し明るくなった。
少女は空を見た。
「急がないと」
茶畑には、まだいくつか星が残っていた。幹夫と少女は、畝の奥へ急いだ。けれど走らなかった。茶葉を傷つけないように、露を落とさないように、一つずつ丁寧に摘んでいく。
星を摘む仕事は、速さではなく、静けさが大切だった。
最後の星は、畑のいちばん端にあった。
古い茶の木の根元近く、ほとんど土に触れるような低い葉の上に、それは眠っていた。ほかの星より大きく、けれど光は弱かった。
少女は、その前で手を止めた。
「この星は、わたしの星」
「君の?」
少女はうなずいた。
「昔、わたしがこの畑で摘み残した星」
幹夫は少女を見た。
少女の姿が、朝の薄明かりの中で少し透き通って見えた。
「君は……」
言いかけて、幹夫は言葉を止めた。
聞いてはいけない気がした。 でも少女は、自分から静かに話しはじめた。
「昔、わたしは本当に茶摘みをしていたの。まだ小さかったけれど、朝早くから畑に来て、葉を摘んで、家に戻って、また働いた。星を見るのが好きだったけれど、夜明けにはいつも忙しくて、空をゆっくり見られなかった」
少女は、根元の星を見つめた。
「ある朝、この星を見つけた。でも摘む時間がなかった。あとで戻ろうと思った。でも戻れなかった」
幹夫は、胸が痛くなった。
戻れなかった理由を、少女は言わなかった。
幹夫も聞かなかった。
茶畑の朝は、静かだった。
少女は続けた。
「それからずっと、この星だけが茶畑に眠っていた。わたしは毎年、ほかの星を摘みながら、この星だけは摘めなかった」
「どうして?」
「摘んでしまったら、昔のわたしが本当に終わってしまう気がしたから」
その声は、初めて少し震えた。
幹夫は、少女の横にしゃがんだ。
変わることは、捨てることばかりじゃない。
さっき茶葉が言った言葉が、胸に戻ってきた。
でも、それをそのまま少女に言うことはできなかった。人の痛みには、借りてきた言葉を急に乗せてはいけない気がした。
幹夫は、ただ言った。
「一緒に摘もうか」
少女は、幹夫を見た。
幹夫は続けた。
「ひとりで摘まなくてもいいと思う」
少女の目に、茶葉の露のような光が浮かんだ。
ふたりは手を伸ばした。
幹夫の指と、少女の指が、星の下でそっと重なった。
強くつかまない。 怖がりすぎて離れない。 ただ、支える。
星は、静かに葉から離れた。
ちりん。
今まででいちばん澄んだ音がした。
茶畑全体が、その音を聞いたように静まった。
少女は星を両手で包んだ。
その瞬間、少女の姿が少し明るくなった。
「ありがとう」
少女は言った。
「これで、わたしも香りになれる」
「香りに?」
「ずっと茶畑に残っていたけれど、もう少し遠くへ行ける。湯気になって、誰かの朝へ」
幹夫は、別れが近いことを感じた。
「いなくなるの?」
少女は首を横に振った。
「形が変わるだけ」
その言葉は、茶葉の声と重なった。
朝日が、茶畑に触れはじめた。
東の空が明るくなり、葉の露が一斉に光った。幹夫と少女の籠には、摘まれた星が満ちていた。星たちは朝日に消えるのではなく、籠の中でゆっくり溶け合い、淡い香りになっていく。
少女は、その香りを小さな袋に集めた。
袋は茶葉で編まれていた。
「これを、持って帰って」
少女は幹夫に袋を渡した。
「お茶を飲む時、湯気に少しだけ思い出して。星を摘む手の力を。欠けた星の香りを。そばに置く余り星のことを」
幹夫は袋を両手で受け取った。
ほとんど重さはなかった。
けれど、胸の奥が温かくなった。
少女の姿は、朝の光の中で薄れていった。
「また会える?」
幹夫が聞くと、少女は微笑んだ。
「夜明け前の茶畑で、小さな星を見つけたら」
そう言って、少女は茶畑の香りに溶けるように消えた。
あとには、朝の茶畑だけが残った。
緑の畝。 露。 鳥の声。 遠くで始まる町の音。
幹夫は、しばらく動けなかった。
手の中の茶葉の袋をそっと開けると、中には何も入っていないように見えた。けれど、顔を近づけると、星と茶の香りがした。
その日の朝、家に帰ると、母がいつものようにお茶を淹れていた。
湯気が白く上っている。
幹夫は、湯呑みを両手で包んだ。
湯気の中に、ほんの一瞬、星を摘む少女の姿が見えた気がした。白い手ぬぐい、紺色の作業着、星の入った竹籠。
幹夫は、お茶をひと口飲んだ。
少し苦かった。 そのあとに、かすかに甘かった。 そして今日は、その奥に、欠けた星のやさしい香りがあった。
幹夫は静かに思った。
大切なものに触れる時は、強くつかまない。 怖がりすぎて離れない。 ただ、そっと支える。
それは茶葉にも、星にも、人の心にも、そして自分自身にも必要な力なのだ。
学校へ行くと、昨日幹夫を笑った子が、机に伏せていた。
具合が悪いのか、眠いのか、何かあったのかはわからない。周りの子たちは少し声をかけたが、その子は曖昧に笑うだけだった。
幹夫は、何を言えばいいかわからなかった。
励ます言葉も見つからない。 理由を聞く勇気もない。
でも、そばに置く星のことを思い出した。
幹夫は、その子の机の端に、そっと消しゴムを置いた。昨日その子がよく使っていた消しゴムだった。床に落ちていたのを拾ったのだ。
「落ちてたよ」
それだけ言った。
その子は少し顔を上げた。
「ありがとう」
小さな声だった。
幹夫は、自分が何か大きなことをしたとは思わなかった。
ただ、星を無理に心の上へ乗せず、そばに置いたような気がした。
窓の外には、昼の空が広がっていた。
星は見えない。
けれど幹夫は知っていた。
夜明け前の茶畑では、今日もどこかの茶葉が小さな星を受け止めている。 誰にも見えない場所で、星を摘む茶摘み娘が静かに歩いている。 そして、お茶の湯気の中には、ときどきその星の香りが混じる。
幹夫少年は、自分の指先を見た。
そこにはもう銀色の指ぬきはない。
けれど、大切なものに触れた時の温かさは、まだ残っていた。





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