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星を摘む茶摘み娘


 夜明け前の茶畑には、まだ誰のものでもない時間が流れていた。

 空は深い藍色で、東の端だけが少しずつ薄くなりはじめている。町の灯りは遠くに沈み、山の輪郭はまだ眠りの中にあった。丘の斜面には、茶の畝が幾筋も並び、夜露をまとって静かに息をしていた。

 幹夫少年は、農道の端で立ち止まった。

 茶葉の先には、露が降りていた。

 ひと粒ひと粒が小さく光っている。けれど、その朝の露はいつもと違っていた。丸い水の中に星が映っているのではなく、露そのものが星のように光っていたのだ。

 幹夫は、胸の奥が少し震えるのを感じた。

 こんなに小さなものが光っている。 誰にも見つけられないまま、朝になれば消えてしまうかもしれない。 それなのに、今だけは確かにここにある。

 幹夫は、そういう光に弱かった。

 大きな灯りよりも、小さく震える光が気になる。 みんなが見上げる花火よりも、草の陰で一瞬だけ光る露に心を奪われる。 明るい声よりも、言いかけて飲み込まれた言葉のほうが、いつまでも胸に残る。

 そのせいで、幹夫はときどき疲れてしまう。

 学校では、みんなが軽く通り過ぎることの前で、幹夫だけが立ち止まることがあった。笑い声の端にある寂しさ。机の上に置き忘れられた消しゴム。誰かが「平気」と言った時の、ほんの少し曇った目。

 気づかなくてもよいのに、気づいてしまう。

 気づいても何もできないのに、胸の中に入ってきてしまう。

 その日も、幹夫は眠れなかった。

 だから、まだ朝になりきらないうちに、茶畑まで歩いてきたのだった。

 その時、茶畑の奥から、かすかな歌が聞こえた。

 声はとても小さかった。

 風の音にも、葉擦れにも、遠くの鳥の声にも似ていた。けれど、それは確かに歌だった。幹夫は耳を澄ませた。

 茶畑の畝のあいだに、一人の少女が立っていた。

 白い手ぬぐいを頭に巻き、紺色の作業着を着ている。背には竹で編んだ籠を負い、手には茶摘み鋏ではなく、小さな銀色の指ぬきのようなものをはめていた。

 少女は、茶葉を摘んでいた。

 けれど摘んでいるのは葉ではなかった。

 茶葉の先に宿った小さな星を、指先でそっと摘み取っているのだ。

 星は、摘まれるたびに小さく震え、少女の籠の中へ入ると、かすかな音を立てた。

 ちりん。 ちりん。

 まるで、遠い夜空で鳴る鈴のようだった。

 幹夫は思わず声を出した。

 「星を、摘んでいるの?」

 少女は手を止めた。

 ゆっくり振り向く。

 その顔は、幹夫より少し年上に見えた。けれど目だけは、ずっと昔から茶畑の夜明けを見てきた人のように静かだった。

 「見えるのね」

 少女は言った。

 幹夫はうなずいた。

 「それは、星なの?」

 「うん。茶葉に降りた星」

 少女は、茶の葉を傷つけないように指先を離した。

 「夜のあいだ、空から少しだけ落ちてくるの。茶葉はそれを受け止める。でも朝日が出る前に摘んであげないと、星は葉の中で迷って、苦みになりすぎてしまう」

 「苦み?」

 「お茶には苦みがいる。でも、多すぎると胸に刺さるでしょう」

 幹夫は黙った。

 苦みが胸に刺さる。

 その言葉は、幹夫の心によくわかった。 誰かの何気ない言葉。 笑い声の中の小さな棘。 自分だけが気にしているような痛み。

 それらも、胸の中で苦みになりすぎることがある。

 少女はまた、茶葉の星をひとつ摘んだ。

 ちりん。

 「あなたは、茶摘み娘なの?」

 幹夫が聞くと、少女は少し笑った。

 「そう呼ばれることもあるよ。でも、昼の茶葉を摘む人とは少し違う。わたしは、夜明け前に星を摘むの」

 「どうして?」

 「茶畑が眠れるように。星が空へ帰れるように。人が飲むお茶に、少しだけ夜空の記憶が残るように」

 少女の籠の中には、たくさんの小さな星が入っていた。

 けれど不思議なことに、籠の中はまぶしくなかった。星たちは、互いにぶつからないように静かに並び、眠る前の子どもたちのように淡く光っている。

 幹夫は、その光を見て胸が痛くなった。

 「摘まれた星は、どうなるの?」

 「お茶になる」

 少女は答えた。

 「といっても、葉になるわけじゃない。香りになるの。人が湯呑みを両手で包んだ時、ふっと胸が軽くなることがあるでしょう。理由はわからないけれど、少しだけ大丈夫だと思えることがある。あれは、摘まれた星が香っているの」

 幹夫は、母が淹れてくれるお茶を思い出した。

 朝の台所。 湯呑みから立つ白い湯気。 苦みのあとに来る、ほんの少しの甘み。 言葉にできない疲れを、すぐには消さず、ただそばに座ってくれるような温かさ。

 あの中に、星が入っていたのだろうか。

 幹夫は、茶葉の先の星を見つめた。

 「ぼくにも、手伝える?」

 言ってから、自分で驚いた。

 いつもの幹夫なら、そんなことは簡単に言えない。失敗したらどうしよう、邪魔になったらどうしよう、と考えてしまう。

 けれど、星が茶葉の中で迷ってしまうと聞いて、放っておけなかった。

 少女は幹夫を見た。

 「手伝うのは、難しいよ」

 「やっぱり、ぼくには無理?」

 「無理じゃない。でも、星は強くつかむと消えてしまう。怖がりすぎて触れないと、朝に間に合わない。ちょうどいい力を探さないといけない」

 幹夫は、自分の手を見た。

 誰かを傷つけたくなくて、いつもためらう手。 自分が傷つきたくなくて、握りしめてしまう手。 何かを大切にしたいのに、どう触れたらいいかわからない手。

 少女は、小さな銀色の指ぬきをひとつ幹夫に渡した。

 「まず、葉に聞いて」

 「葉に?」

 「どの星を摘んでほしいか、茶葉が教えてくれる」

 幹夫は、指ぬきをはめた。

 冷たいと思ったが、指に触れるとほんのり温かかった。星の光と茶の葉の温度が混じっているようだった。

 幹夫は一枚の茶葉の前にしゃがんだ。

 そこには、小さな星がひとつ乗っていた。露よりも軽く、けれど露よりも深く光っている。

 幹夫は指を伸ばした。

 でも、触れる直前で止まった。

 怖かった。

 消してしまうかもしれない。 傷つけてしまうかもしれない。 自分の不器用な手で、こんな小さな光に触れていいのかわからなかった。

 すると、茶葉がかすかに鳴った。

 さわ。

 それは、早くして、という音ではなかった。

 大丈夫、という音でもなかった。

 ただ、ここにいるよ、という音だった。

 幹夫は、少し息を吐いた。

 星をつかもうとせず、星の下に指を添えるようにした。

 すると星は、自分からころりと幹夫の指先へ移った。

 重さはほとんどない。

 けれど、胸の奥に小さな鈴の音が響いた。

 ちりん。

 幹夫は、そっと少女の籠へ星を入れた。

 「できた」

 幹夫の声は震えていた。

 少女はうなずいた。

 「今の力、覚えておいて」

 「力?」

 「大切なものに触れる力」

 幹夫は、指先を見た。

 星を摘んだあとの指には、何も残っていない。けれど、そこだけ少し温かかった。

 大切なものに触れる力。

 それは、幹夫がずっと探していたものかもしれなかった。

 人の悲しみに気づいた時、どうすればいいかわからない。 傷ついた言葉を胸に抱いた時、どう扱えばいいかわからない。 自分の繊細さに触れる時でさえ、強く責めすぎたり、怖がって見ないふりをしたりしてしまう。

 でも、今のように触れればいいのだろうか。

 つかまない。 突き放さない。 ただ、指先を添えて、相手が移ってくるのを待つ。

 幹夫は、少女と一緒に星を摘みはじめた。

 茶畑の畝を一つずつ歩く。

 若い葉の星は、青白く震えていた。 古い葉の星は、少し金色で落ち着いていた。 虫にかじられた葉の星は、光が少し欠けていたが、その欠けたところから柔らかな光がこぼれていた。

 幹夫は、欠けた星を見て立ち止まった。

 「この星は、摘んでもいいの?」

 少女は言った。

 「もちろん」

 「でも、欠けている」

 「欠けている星には、欠けた星の香りがある」

 少女は、その星を両手で包むように摘んだ。

 「完全な光だけでは、お茶は浅くなる。少し欠けた光が入ると、飲む人の胸の欠けたところに届くことがあるの」

 幹夫は、胸に手を当てた。

 自分の中にも欠けたところがある。

 うまく笑えなかった日。 言いたいことを言えなかった日。 自分を嫌いになりかけた日。

 その欠けた場所に届く香りがあるなら。

 欠けた星も、必要なのだ。

 茶摘み娘は、籠を少し揺らした。

 星たちが小さく鳴った。

 ちりん。 ちりん。

 その音は、悲しみを消す音ではなかった。 でも、悲しみがひとりではないと知らせる音だった。

 やがて、幹夫は一枚の茶葉の前で足を止めた。

 その葉には星が乗っていなかった。

 葉の先には露だけがあり、光は弱かった。

 「ここには星がない」

 幹夫が言うと、少女は膝をついた。

 「この葉は、星を受け止めそこねたの」

 「どうして?」

 「昼間に風が強くて、葉がずっと震えていた。夜になっても、まだ自分が揺れていると思っている。だから星が来ても、怖くて受け取れなかった」

 幹夫は、その葉を見つめた。

 風がやんでも、自分だけまだ揺れていると思ってしまう葉。

 それは、自分に似ていた。

 友だちの笑い声が終わっても、胸の中ではまだ響いている。 誰ももう気にしていないのに、自分だけその場に残っている。 風は止んだのに、心は揺れ続けている。

 「この葉は、どうすればいいの?」

 幹夫が聞いた。

 少女は、籠から小さな星をひとつ取り出した。

 それは摘んだばかりの星ではなく、籠の底に眠っていたごく淡い星だった。

 「これは、余り星」

 「余り星?」

 「誰かの茶葉に乗るはずだったけれど、少しだけ行き場をなくした星。こういう星は、受け止めそこねた葉のそばに置いてあげる」

 少女は、その淡い星を茶葉の隣に置いた。

 葉の上ではなく、すぐそばの露の上に。

 「乗せないの?」

 「まだ怖がっているから。そばにいるだけでいいの」

 幹夫は、その光景をじっと見た。

 星は葉に押しつけられなかった。

 ただ、そばで光っている。

 茶葉は最初、かすかに震えていた。けれど少しずつ、葉の揺れが静まっていった。

 露の上の星は、何も言わずに光っていた。

 幹夫の胸に、温かい痛みが広がった。

 誰かが悲しい時、何か言わなければならないと思っていた。 励まさなければ。 慰めなければ。 理由を聞かなければ。

 でも、そばに置く星もあるのだ。

 すぐに心の上へ乗せなくてもいい。 ただ、隣で光るだけでいい。

 少女は幹夫を見て言った。

 「幹夫も、誰かの余り星になれるよ」

 「余り星?」

 「誰かの心に無理に入らず、そばで小さく光る星」

 幹夫は、何も言えなかった。

 それなら、自分にもできるかもしれないと思った。 大きな言葉は言えなくても。 明るく励ますことはできなくても。 そばにいて、静かに光ることなら。

 その時、東の空が少し明るくなった。

 少女は空を見た。

 「急がないと」

 茶畑には、まだいくつか星が残っていた。幹夫と少女は、畝の奥へ急いだ。けれど走らなかった。茶葉を傷つけないように、露を落とさないように、一つずつ丁寧に摘んでいく。

 星を摘む仕事は、速さではなく、静けさが大切だった。

 最後の星は、畑のいちばん端にあった。

 古い茶の木の根元近く、ほとんど土に触れるような低い葉の上に、それは眠っていた。ほかの星より大きく、けれど光は弱かった。

 少女は、その前で手を止めた。

 「この星は、わたしの星」

 「君の?」

 少女はうなずいた。

 「昔、わたしがこの畑で摘み残した星」

 幹夫は少女を見た。

 少女の姿が、朝の薄明かりの中で少し透き通って見えた。

 「君は……」

 言いかけて、幹夫は言葉を止めた。

 聞いてはいけない気がした。 でも少女は、自分から静かに話しはじめた。

 「昔、わたしは本当に茶摘みをしていたの。まだ小さかったけれど、朝早くから畑に来て、葉を摘んで、家に戻って、また働いた。星を見るのが好きだったけれど、夜明けにはいつも忙しくて、空をゆっくり見られなかった」

 少女は、根元の星を見つめた。

 「ある朝、この星を見つけた。でも摘む時間がなかった。あとで戻ろうと思った。でも戻れなかった」

 幹夫は、胸が痛くなった。

 戻れなかった理由を、少女は言わなかった。

 幹夫も聞かなかった。

 茶畑の朝は、静かだった。

 少女は続けた。

 「それからずっと、この星だけが茶畑に眠っていた。わたしは毎年、ほかの星を摘みながら、この星だけは摘めなかった」

 「どうして?」

 「摘んでしまったら、昔のわたしが本当に終わってしまう気がしたから」

 その声は、初めて少し震えた。

 幹夫は、少女の横にしゃがんだ。

 変わることは、捨てることばかりじゃない。

 さっき茶葉が言った言葉が、胸に戻ってきた。

 でも、それをそのまま少女に言うことはできなかった。人の痛みには、借りてきた言葉を急に乗せてはいけない気がした。

 幹夫は、ただ言った。

 「一緒に摘もうか」

 少女は、幹夫を見た。

 幹夫は続けた。

 「ひとりで摘まなくてもいいと思う」

 少女の目に、茶葉の露のような光が浮かんだ。

 ふたりは手を伸ばした。

 幹夫の指と、少女の指が、星の下でそっと重なった。

 強くつかまない。 怖がりすぎて離れない。 ただ、支える。

 星は、静かに葉から離れた。

 ちりん。

 今まででいちばん澄んだ音がした。

 茶畑全体が、その音を聞いたように静まった。

 少女は星を両手で包んだ。

 その瞬間、少女の姿が少し明るくなった。

 「ありがとう」

 少女は言った。

 「これで、わたしも香りになれる」

 「香りに?」

 「ずっと茶畑に残っていたけれど、もう少し遠くへ行ける。湯気になって、誰かの朝へ」

 幹夫は、別れが近いことを感じた。

 「いなくなるの?」

 少女は首を横に振った。

 「形が変わるだけ」

 その言葉は、茶葉の声と重なった。

 朝日が、茶畑に触れはじめた。

 東の空が明るくなり、葉の露が一斉に光った。幹夫と少女の籠には、摘まれた星が満ちていた。星たちは朝日に消えるのではなく、籠の中でゆっくり溶け合い、淡い香りになっていく。

 少女は、その香りを小さな袋に集めた。

 袋は茶葉で編まれていた。

 「これを、持って帰って」

 少女は幹夫に袋を渡した。

 「お茶を飲む時、湯気に少しだけ思い出して。星を摘む手の力を。欠けた星の香りを。そばに置く余り星のことを」

 幹夫は袋を両手で受け取った。

 ほとんど重さはなかった。

 けれど、胸の奥が温かくなった。

 少女の姿は、朝の光の中で薄れていった。

 「また会える?」

 幹夫が聞くと、少女は微笑んだ。

 「夜明け前の茶畑で、小さな星を見つけたら」

 そう言って、少女は茶畑の香りに溶けるように消えた。

 あとには、朝の茶畑だけが残った。

 緑の畝。 露。 鳥の声。 遠くで始まる町の音。

 幹夫は、しばらく動けなかった。

 手の中の茶葉の袋をそっと開けると、中には何も入っていないように見えた。けれど、顔を近づけると、星と茶の香りがした。

 その日の朝、家に帰ると、母がいつものようにお茶を淹れていた。

 湯気が白く上っている。

 幹夫は、湯呑みを両手で包んだ。

 湯気の中に、ほんの一瞬、星を摘む少女の姿が見えた気がした。白い手ぬぐい、紺色の作業着、星の入った竹籠。

 幹夫は、お茶をひと口飲んだ。

 少し苦かった。 そのあとに、かすかに甘かった。 そして今日は、その奥に、欠けた星のやさしい香りがあった。

 幹夫は静かに思った。

 大切なものに触れる時は、強くつかまない。 怖がりすぎて離れない。 ただ、そっと支える。

 それは茶葉にも、星にも、人の心にも、そして自分自身にも必要な力なのだ。

 学校へ行くと、昨日幹夫を笑った子が、机に伏せていた。

 具合が悪いのか、眠いのか、何かあったのかはわからない。周りの子たちは少し声をかけたが、その子は曖昧に笑うだけだった。

 幹夫は、何を言えばいいかわからなかった。

 励ます言葉も見つからない。 理由を聞く勇気もない。

 でも、そばに置く星のことを思い出した。

 幹夫は、その子の机の端に、そっと消しゴムを置いた。昨日その子がよく使っていた消しゴムだった。床に落ちていたのを拾ったのだ。

 「落ちてたよ」

 それだけ言った。

 その子は少し顔を上げた。

 「ありがとう」

 小さな声だった。

 幹夫は、自分が何か大きなことをしたとは思わなかった。

 ただ、星を無理に心の上へ乗せず、そばに置いたような気がした。

 窓の外には、昼の空が広がっていた。

 星は見えない。

 けれど幹夫は知っていた。

 夜明け前の茶畑では、今日もどこかの茶葉が小さな星を受け止めている。 誰にも見えない場所で、星を摘む茶摘み娘が静かに歩いている。 そして、お茶の湯気の中には、ときどきその星の香りが混じる。

 幹夫少年は、自分の指先を見た。

 そこにはもう銀色の指ぬきはない。

 けれど、大切なものに触れた時の温かさは、まだ残っていた。

 
 
 

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