読めない名前
- 山崎行政書士事務所
- 2月1日
- 読了時間: 7分

その日、母は朝から髪をきちんと結び直していた。 きちんと、というほどの道具はない。ただ、指で撫でて、ほどけたところを押さえて、最後に息をひとつ吐く。そういう「整え方」だった。鏡に映る自分を良くするというより、外へ出るために自分を固めるみたいに。
幹夫は布団の中から、その背中を見ていた。 背中は言葉を持たないのに、今日はいつもより硬い。硬い背中を見ると、幹夫の胸の中の小さな警報が、まだ朝なのに鳴り始める。
「ちょっと、駅まで行くぞ」
母が言った。 駅。幹夫の中で、その言葉は汽笛の音と一緒に浮かぶ。汽笛は「来る」を知らせる音だ。来る、というのは、帰るとも似ている。
「どうして?」
幹夫が聞くと、母は一瞬だけ止まった。止まって、すぐ動き直した。 止まったのは答えを探したからではなく、答えが喉に引っかかったからだと幹夫は思った。
「……紙が貼ってあるって」
母は短く言った。紙、という言葉が、幹夫の胸を少し重くした。紙は軽いのに、いつも重い。
祖母が台所から声を投げた。
「人が多いで、迷子になるなよ」
迷子。幹夫はその言葉が嫌いだった。迷子になるのは、道が分からないからじゃない。自分のいる場所がなくなる感じがするからだ。
母の手を握って外へ出ると、朝の風が冷たかった。上着の縫い目が肌に当たり、針の跡みたいにちくりとする。母が直したところだ、と幹夫は思った。直したところは、新しいより目立つ。
駅へ向かう道は、いつもより騒がしかった。 すれ違う人が多い。歩く足が早い。誰も笑っていないのに、目だけが急いでいる。
幹夫は母の指に力が入っているのを感じた。 握られている、というより、握っている。母が幹夫の手を握っているのではなく、幹夫が母の手を支えにされているみたいだった。
駅前に着くと、空気の匂いが変わった。 煤の匂い。汗の匂い。人の息の匂い。そこに海の匂いが薄く混ざる。混ざる匂いは、どれが自分のものなのか分からなくなる。
改札の横の壁に、人が群がっていた。 壁が見えない。紙が貼ってあるはずなのに、紙の白も見えない。人の背中が壁を作って、その背中が小さくうねっている。波みたいに。
「……ここで待っとけ」
母が言った。言ったけれど、幹夫の手は放さなかった。 放さないまま、母は背伸びをして、人の隙間を探した。隙間が見つかると、母の体がその隙間に吸い込まれていく。幹夫も一緒に引っ張られる。
紙は、そこにあった。 壁に貼られた何枚もの紙。紙の上に、黒い字がぎっしり並んでいる。字は整っているのに、整っているからこそ冷たい。黒い虫が列を作っているみたいだった。
人が、指で字を追っていた。 指が動くたび、紙がかすかに鳴る。紙の鳴る音は小さい。小さいのに、幹夫の胸に響いた。
「……あった」
誰かが言って、息を漏らした。 その声には嬉しさが入っているのに、同じくらい怖さも入っている。嬉しいのに怖い。幹夫はそれが分かる気がした。角砂糖を割るときの白と同じだ。崩れるのが寂しいのに、崩れることでようやく届く。
別の場所では、女の人が嗚咽をこらえていた。声は出していない。出していないのに、肩だけが震えている。肩の震えは、声より正直だ。
母の目は紙の上を走った。 走って、止まって、また走る。目だけが先に動く。顔は動かない。顔が動くと、気持ちが漏れるからだ。
幹夫は紙の字を見た。 読めなかった。自分の名前の「幹夫」は、なんとなく形で分かるのに、紙の上の文字はその形をしていない。字は知っているはずなのに、知らない。知っているのに、触れられない。
幹夫は、悔しいと思った。 悔しいのは、母の目が追っているものを、自分が追えないからだ。母が探しているものを、母だけに探させてしまうからだ。
幹夫はつま先立ちになって、紙に少し近づいた。 近づくと、インクの匂いがした。インクの匂いは、新聞と同じ匂いなのに、今日は違って聞こえる。匂いが言葉みたいに重い。
「……母ちゃん」
幹夫が小さく呼ぶと、母は一瞬だけ目を止めた。止めて、幹夫を見た。 その目は「今じゃない」と言っていた。声ではなく、目で言う。目で言われると、幹夫は逆らえない。
幹夫は、紙の端に指を置いた。置いただけ。 紙は冷たかった。冷たいのに、そこには人の熱が詰まっている気がした。名前が並んでいるというだけで、紙は急に「人」になる。
「見えん……」
背後から、かすれた声がした。 振り返ると、腰の曲がったおばあさんが、紙を見上げていた。目を細めても、届かない距離がある顔だった。隣にいる若い女が、紙を指さして何か言っている。けれど、女の声は人混みに消えていく。消えると、伝わらない。
幹夫は、思わずそのおばあさんの袖口を見た。手が少し震えている。震えは寒さではない。紙に並んだ文字の前で、人はみんな少し震える。
幹夫の胸の中の小さな警報が鳴った。 鳴ると、勝手に体が動く。
幹夫は、おばあさんの前にそっと回り込み、紙を指さす真似をした。 真似をしただけなのに、おばあさんが幹夫を見て、目を丸くした。
「坊や、読めるだか」
幹夫は首を横に振った。 読めない。読めないけれど、ここにいることはできる。隣に立つことはできる。指を上げることはできる。指を上げるだけで、誰かの怖さが少し薄まることがある。
「……見えんで、な」
おばあさんが笑った。笑いは薄いのに、幹夫は胸が熱くなった。 人は困っているときほど、笑いで形を作る。形がないと崩れるからだ。
そのとき、母の肩がふっと落ちた。 ほんの少し。ほんの少しなのに、幹夫には分かった。母の肩が落ちるとき、何かが見つかったか、何も見つからなかったかのどちらかだ。
母は紙から目を離し、幹夫を探すみたいに首を動かした。 幹夫は慌てて母のほうへ戻った。戻りながら、さっきのおばあさんに小さく頭を下げた。おばあさんも、小さく頷いた。
母は幹夫の手を取り直した。 取り直す、という握り方だった。放したくないのではなく、放したら自分が崩れる握り方。
「……帰ろ」
母はそれだけ言った。 「ある」とも「ない」とも言わない。言わないから、幹夫の胸の中で想像だけが増える。増える想像は、増えない米より厄介だ。
駅を離れると、人の声が少しずつ薄まっていった。 汽笛が鳴った。さっきまでより近い音だった。近いのに、今日は嬉しくなかった。汽笛は「来る」を知らせる音のはずなのに、今日は「来ない」を強くする音に聞こえた。
母は歩きながら、何度か喉を動かした。飲み込む音が見えるくらいの動き。 幹夫は、その喉の動きが痛かった。痛いのに、どうしていいか分からない。
幹夫は母の手を少し強く握った。 握ってしまってから、しまったと思った。握ると、母が「大丈夫」と言わなければならなくなるかもしれない。大丈夫じゃないのに、大丈夫と言わせるのが嫌だった。
けれど母は、何も言わなかった。 ただ、握り返してきた。握り返しが、いつもより少しだけ遅い。遅い握り返しは、心が追いつくのを待っている握り返しだ。
家の近くまで来たとき、幹夫は道端の石を拾った。 小さな白っぽい石。貝殻ほど白くない。角砂糖ほど白くない。けれど手のひらに乗せると、少しだけ光る。
幹夫はその石を、母の手の中にそっと押し込んだ。 押し込んだ瞬間、母が驚いて幹夫を見た。
「なに、それ」
母が言った。声がほんの少し柔らかい。 幹夫はその柔らかさに救われて、でも泣きそうにもなった。
「……しろいの」
また、その言い方しか出てこなかった。 白いの。白いものは、匂いだけでも救いになる。砂糖も、石も、湯気も。白いものは、届く気がする。
母は石を手のひらで包み、しばらく黙っていた。 それから、石をそっと上着のポケットに入れた。入れるときの指が、ほんの少しだけ震えた。
「……ありがと」
母は小さく言った。 その「ありがと」は、駅で見た紙の列より、ずっとはっきり幹夫に届いた。
幹夫の胸の中の小さな警報は、鳴り止まなかった。 鳴り止まないまま、音の角だけが少し丸くなった。
紙に並んだ名前は読めなかった。 読めなかったけれど、母の指先の震えは読めた。母の喉の動きは読めた。母が「帰ろ」と言った声の硬さも読めた。
幹夫は思った。 読む、というのは、字だけじゃないのかもしれない。 届かないサイレンの代わりに、自分はこういうものを読んでいくのかもしれない。
家の戸を開けると、祖母が「おかえり」と言った。 幹夫はその声に頷きながら、母のポケットに入った小さな白い石の存在を、胸の中で確かめた。
見えないのに、ある。 届かないのに、届いている。
幹夫はそのことだけを頼りに、今日の家の空気をそっと歩いた。



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