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通知の戦争

戦争は、砲声ではなく通知で始まる。早朝の薄い光の中で、私の掌の上の小さな硝子板が、無遠慮に震えた。震えは音ではない。音に似た皮膚の記憶だ。画面に浮かんだ白い文字は、どこまでも事務的で、どこまでも清潔のふりをしていた。

【緊急】国際情勢の急変により、非常体制に移行。直ちに出頭せよ。

清潔な文字ほど不潔なものはない。清潔な文字は、血の匂いを消してしまうからだ。血の匂いを消した瞬間、死は「手続き」になる。手続きになった死ほど、次の死を呼びやすい。

窓の外の東京は、まだ平然としていた。コンビニの看板は明るく、道路は昨夜の雨で黒く光り、始発電車の音が、遠い骨の振動として街に滲んでいる。平然としているという事実は、慰めではない。残酷だ。世界が平然としているとき、人間だけが勝手に終末を抱える。

私はネクタイを結びながら、鏡の自分を見た。顔は眠そうで、目の下に薄い影があり、口元はどこか不機嫌だ。こんな顔が世界大戦の一員になるのかと思うと、笑いが込み上げた。笑いは薄い。薄い笑いは恐怖の裏返しだ。恐怖はいつでも、最初に礼儀を殺す。

地下鉄の入口に降りると、空気が変わった。人の息の匂い、ゴムの匂い、金属の匂い。都市の内臓の匂いだ。内臓の匂いは、生の匂いであり、同時に、いつでも焼ける準備の匂いでもある。私は改札の冷たい金属に触れ、なぜか「正しい」と思った。冷たさは正しい。正しいものほど残酷だ。

霞ヶ関の庁舎は、いつもより静かだった。静かというより、音が「節約」されていた。節約された音の隙間に、言葉が落ちる。言葉は落ちるとき、必ず刃になる。

廊下の端に、臨時の掲示が貼られていた。——第三次世界大戦。その四字が、紙の上で妙に整っている。整っているから怖い。整った字面は、事件を「様式」に変えてしまう。様式になった戦争ほど、後世の口に載りやすい。載れば、次が来る。

会議室の机には、分厚い手順書が積まれていた。「非常時広報」「避難誘導」「情報遮断」「同盟調整」。手順は美しい。美しい手順ほど不潔だ。人間の混乱と叫びと焦げる匂いを、紙の角で押さえつけて平らにしようとする。平らにされた苦しみは、次に処理される。

私は翻訳担当として呼ばれていた。つまり、戦争を言葉にする役目だ。言葉にするという行為は、最も卑しい。卑しいが、必要だ。必要だからこそ、卑しさは国家の中で出世する。

「外務からの文案、英語版を先に。あと仏語」

上司が言った。声は乾いている。乾いた声は涙を許さない。涙は湿っている。湿り気は秩序を崩す。秩序が崩れると、責任が顔を出す。責任ほど、誰も見たくないものはない。

私はキーボードに指を置いた。指が、ほんのわずか震えていた。震えは恐怖ではない。恐怖に似た、感情移入だ。私は、遠い海の向こうでいま爆ぜているはずの何かを、まだ見ぬまま、なぜか胸で感じていた。

そのとき、窓の外がいっそう白くなった。白は潔白ではない。白は、汚れが目立つことを知っている者の色だ。白い雲が厚くなったのではない。空気が、光を含む質に変わったのだ。——まるで世界が、何か巨大なものに怯えて、目を閉じようとしているようだった。

「警報だ」

誰かが言った。言葉は小さい。小さい言葉ほど、胸に残る。

館内放送が流れ、私たちは地下へ誘導された。地下へ降りる階段は、妙に優雅だった。磨かれた手すり、均等な段差、規格の冷たさ。規格は美しい。美しい規格ほど残酷だ。規格は、人間を同じ速さで死へ運べる。

地下のシェルターには、蛍光灯が白く灯っていた。白い光は、影を薄くする。影が薄くなると、人は自分の輪郭を失う。輪郭を失った者は、群れになりやすい。群れになった者は、指示に従いやすい。従いやすさは、国家の最も甘い果実だ。

私は壁際に立って、ひとりの若い自衛官を見た。彼はヘルメットの顎紐を指でいじりながら、何度も唾を飲み込んでいる。唾を飲み込む音は、戦争の最初の音だ。砲声より先に、喉が鳴る。

「怖いか」

私が問うと、彼は驚いたように目を上げた。目は澄んでいなかった。澄んだ目は正義の目だ。彼の目は濁っている。濁りは恐れであり、怒りであり、未練だ。未練の色は人間の色だ。

「……はい。でも」

彼は言い、言葉を探すように唇を噛んだ。

「でも、何ですか」

「でも、見えないのが、もっと怖い」

見えない。その一語が、私の胸を刺した。第三次世界大戦とは、見えない戦争だ。敵は画面の向こうにいて、攻撃は空の彼方から来る。死は通知のように届く。通知の死は、美しくない。美しくないからこそ、私たちは逆に美しさを欲しがる。美しい終わり方、美しい大義、美しい悲劇——。美しさはいつでも、醜さの逃げ道だ。

床が小さく揺れた。揺れは地震の揺れではない。建物が「音」を飲み込んだあとの、遅れて来る恐怖の揺れだ。遅れて来る恐怖ほど残酷だ。身体が先に理解し、心が追いつけずに置き去りにされる。

次の瞬間、電気が消えた。消えるのは光だけではない。時間も消える。時間が消えると、人間は瞬間の中へ落ちる。瞬間の中には、倫理も歴史も入らない。ただ熱と匂いだけが入る。

非常灯が点いた。薄い赤い光。赤は血の色だが、血ではない。血でない赤ほど不吉だ。血でない赤は、これから血が来ることを予告する。

遠くで、爆ぜる音がした。音は壁を通して骨に来た。骨に来る音は、思想を剥がす。剥がれた思想の下に残るのは、ただ「生きたい」という裸の声だ。裸の声は恥ずかしい。恥ずかしいから、私は喉を締めた。

若い自衛官が、小さく言った。

「……上は、どうなりますか」

私は答えられなかった。答えれば、私は「大丈夫」という甘い嘘を吐いてしまう。甘い嘘は腐る。腐った嘘の上で、人はまた次の戦争を始める。

代わりに私は、彼のヘルメットの縁を見た。プラスチックの黒が、非常灯の赤を吸って鈍く光る。鈍い光は、形だけを残す。形だけを残すものは、最後に人を支えることがある。支えるのは希望ではない。形式だ。形式は冷たい。冷たい形式だけが、泣かずに立たせる。

数時間後、私たちは地上へ出た。地上の空気は、別の匂いをしていた。焦げた電気の匂い。溶けた樹脂の匂い。雨の匂いに似た、金属の匂い。匂いは、言葉を要らなくする。匂いがある限り、世界はまだ「現実」だ。

霞ヶ関の交差点の信号は消え、車は止まり、人は歩き、誰も喋らなかった。喋らない人間の群れほど怖いものはない。言葉がない群れは、すぐに物語へ流れる。物語へ流れた群れは、石になり、旗になり、叫びになる。叫びは火を呼ぶ。

空の上のどこかで、また遠い閃光があった。閃光は一瞬で消え、しかし一瞬で世界の輪郭を変える。輪郭が変わると、人は自分の人生の輪郭も変えたくなる。変えたくなる衝動の中に、最も危険な美学が潜む。

私はポケットの中のペンを握った。ペンは軽い。軽いペンが、いまも世界を動かす。世界を動かすのは爆弾ではなく、命令でもなく、結局は「文言」だ。文言が人を移動させ、文言が人を閉じ込め、文言が人を見捨てる。私はその卑しさを、骨の中で噛みしめた。

帰路、焼けたビルの壁面に、巨大な広告が残っていた。笑っているモデル。白い歯。白い肌。白い歯は潔白ではない。白い歯は、噛み砕くための歯だ。私はその広告を見上げ、胃がひっくり返るような感情を覚えた。世界が崩れても、世界はなお「美」を売ろうとしている。美は最も強い。強い美は最も不潔だ。

自宅のドアを開けると、部屋は暗かった。停電の闇は、夜の闇とは違う。夜は自然の闇だが、停電の闇は文明の骨折だ。骨折した闇の中で、私は冷蔵庫の沈黙を聞いた。沈黙が家電の沈黙であることが、こんなに怖いとは思わなかった。

テーブルの上に、紙が一枚あった。妻の字。短い。

近所の人と学校へ。あなたも来て。無理なら、無理でいい。生きて。

生きて、という言葉ほど無責任なものはない。無責任だからこそ、胸に刺さる。刺さる言葉は、こちらの逃げ道を塞ぐ。塞がれた逃げ道の前で、人は初めて「生」を引き受ける。

私は紙を握り、窓を開けた。夜の東京には、星が見えた。星は、戦争を知らない。知らない星ほど残酷だ。だがその残酷さの下で、私ははっきりと理解した。

第三次世界大戦は、英雄の舞台ではない。それは、通知のように始まり、手順書のように進み、そして、家族の短い言葉のように、こちらの皮膚の下へ入り込んでくる。「世界」という大きな語は、結局、舌の上でしか大きくない。本当に大きいのは、喉の渇きと、焦げた匂いと、紙の一枚が持つ重さだ。

私は靴を履き、懐中電灯を掴み、階段を降りた。降りる足音が、やけに乾いていた。乾いた足音は正直だ。正直な音ほど恥ずかしい。それでも私は歩いた。美しく歩こうとは思わない。立派に生きようとも思わない。立派さは、いつでも誰かの旗になる。旗は、また次の戦争を呼ぶ。

ただ、臭いを消さぬまま、生きる。この戦争を物語にしないために。そして、通知の白い文字に奪われた体温を、もう一度、自分の手で取り戻すために。

 
 
 

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