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静かなる盾

 カスタマーハラスメント(カスハラ)という言葉を初めて耳にしたとき、私はかつて取材で訪れた地方都市のあるエピソードを思い出した。そこは観光客が激増する一方、地元の商店や宿泊施設ではスタッフの疲弊が深刻化し、日に何度も耳を疑うような嫌がらせや暴言が繰り返されていた。昭和末期の旅館業界でも、常連客の「無理難題」にどれほどの若い仲居が泣かされてきたか――。資料をひもとくと、現代とそう変わらない構図が浮かび上がってくる。

 あの取材から十数年。私は、そのときのインタビューで聞いた「顧客至上主義の“歪み”」という言葉をずっと胸に刻んでいる。そして今、都内のある企業が「従業員を守るカスハラ対応マニュアル」を本格稼働させようとしているという噂を耳にした。顧客を最優先する企業文化に一石を投じる試み――好奇心を抑えきれず、私は再び現場へ足を運んだ。

***

 訪れたのは「ワタリ総合物流」という会社の本社ビル。受付を抜けると、オフィスの中にはピリリとした空気が漂っていた。出迎えてくれたのは、経営企画室の主任・今井陽介(いまい ようすけ)氏。柔らかな物腰ながら、どこか憂いを帯びた表情が印象的だった。

「うちも、ここ一年ほどでカスハラ事例が激増していまして……。普段なら、“お客様のニーズに応えるのがわれわれの使命”という建前で乗り切ってきたのですが、さすがに限界が来ています」

 今井氏の机の上には、「従業員保護のためのカスタマーハラスメント対応マニュアル」と題した分厚いファイルが置かれている。そこには「不当な要求」「長時間拘束」「人格否定の暴言」「身体的な暴力」など、具体例が赤文字でまとめられていた。

「研修の時は、全員が少なからず動揺していました。これまで“お客様第一”と言い聞かせられてきた分、急に“毅然とした態度を取れ”などと言われても戸惑うわけです」

 ただ、その実施は経営陣の強い後押しがあってのことだった。人材流出やメンタル不調による休職が後を絶たず、社内で危機感が高まっていたのだ。

「長い間、“声をあげづらい”雰囲気があったのは否定できません。ですが、マニュアルを正式に導入した今は、記録の作成やエスカレーション手順を迅速に共有できるようになりました。傷ついた社員が一人でも減るなら、やる価値は十分あると思います」

 そう言いながら今井氏は少し微笑んだ。しかし、その笑顔の奥にはこれまでの苦闘の跡がうかがえる。彼自身も新卒で入社して以来、過度なクレーム対応でうつ症状を発症し、一時期休職した過去があったという。

「一方で、『顧客との関係を悪化させるのではないか』と不安視する声もあるのでは?」と私が尋ねると、今井氏は「はい、もちろんです」とすぐに肯定した。

「とくに現場で直接やり取りする社員は、そのあたりの葛藤が大きい。『強く出てクレームが炎上したらどうしよう』と恐れる声は絶えません。そこをフォローするのが、経営陣や私たち管理部門の役割ですね。最悪の場合は警察への通報も含め、きちんと対応する。『会社がちゃんと守る』という姿勢を明示するんです」

 現場の声を拾い、法的知識や専門機関の力を借りながら、組織として問題に立ち向かう――それがこのマニュアルの核心だった。

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 その日の午後、私は今井氏の案内で、物流倉庫の管理責任者・片瀬加奈(かたせ かな)さんに話を聞く機会を得た。倉庫や配送に関わるスタッフは、トラブルの最前線に立ちやすいという。

「たとえば、『配達が少し遅れた』というだけで人格否定を含む暴言を浴びせられたり、何度も同じ電話を執拗にかけられたりすることがあります。若手スタッフの中には、受話器を取るたび震えてしまう子もいました」

 片瀬さんは、その若手スタッフを守るために上司へ相談したが、当時は曖昧な回答しか得られず、気づけばスタッフは退職してしまったという。

「悔しいです。私がもっと何かできたはずなのに……と思っても、会社として明確な対応策がなかった。“我慢して乗り越えろ”という空気で終わるんですから」

 しかし、今回マニュアルが整備されたことで、彼女も現場の仲間と一緒に研修を受け、今では少し肩の荷が下りたという。

「今は、まず“どこからどこまでが我慢すべき範囲か”がハッキリしたので、迷わず上司に報告できるし、メンタルケアの相談先も紹介してもらえる。最初は“こんな大事にしていいのかな”って戸惑いもあったけど、“一人で抱えなくていい”という安堵感のほうが大きいですね」

 片瀬さんの表情には、かすかな光が差し込んでいるように見えた。かつて抱いていた悔恨の念から、一歩踏み出せたことに手応えを感じているのだろう。

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 その取材を終えた翌週、今井氏から連絡が入った。

「最近になって、“苦情件数は変わらないのに、現場のストレス度合いが下がった”というデータが出たんですよ。アンケートでも『会社の後ろ盾があると思えるから自信を持てるようになった』という声が増えていまして……」

 会社としての覚悟を打ち出し、“やってはいけない行為”を明文化したことによって、従業員が報告しやすくなった。カスハラがゼロになるわけではない。それでも、“自分だけではない”“守られている”という安心感が、長い闇に小さな灯をともしたのだ。

「もちろん、まだ課題も山積みです。顧客との衝突が激化するケースもあるでしょう。でも、私たちはそれにも対応しなきゃいけない。専門家と連携して法的措置をとることだってあるかもしれない。――いずれにせよ、これからが正念場です」

 電話越しの今井氏の声は、わずかな疲労を感じさせつつも、どこか晴れやかだった。会社が“お客様第一”を唱え続けてきた歴史に、従業員を守るための新しい一頁が確かに刻まれつつある。その意味で、「曖昧な我慢」に終止符を打つためのマニュアルは、ただの紙切れではない。企業文化を変革する、一種の“象徴”なのかもしれないと私は思う。

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 取材を終えた帰り道、ふと目をやると街路樹には薄い新緑が芽吹いていた。時は移ろい、人々の意識も移ろう。かつて“当たり前”とされたことが、今はもう通用しない――いや、通用させてはいけないのだろう。

 昭和の旅館で小さな仲居が一人泣いていた話を思い出す。もしあのとき、経営者や仲間が「理不尽な要求は拒んでもいい。私たちが守る」と示せていたら、あの人はどんな今を歩んでいただろうか。そんな想像をしながら、私は大通りを歩いていた。

 私たちが生きる時代は、もう「理不尽を我慢してこそ大人」という論理では動かない。そう、現場の声を拾った企業が、カスハラを“対岸の火事”として扱わず、本気で変わりはじめているのだ。曇りがちだった空に、一筋の光が見えたような気がした。

 ――曇天から透けるように光が落ちるその瞬間、私はふと、「静かなる盾」という言葉を胸に刻んだ。 “静かなる盾”――それは、誰かの悲痛な叫びが掻き消されないよう、そっと守り続ける存在。それを企業が本当に持てるかどうかが、これからの社会を左右する。私はそんな予感を抱きながら、次の取材地へ足を進めるのだった。

 
 
 

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