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静岡に生きた士族の少年

 風が、茶畑を揺らしていた。大正三年の春先、静岡の空はどこまでも遠く、幹夫はそのうす青い高みをじっと眺めていた。まだ十三の少年の目には、薄曇りの向こうにある光が、はるかな秘密のように見えたのである。 祖父の代から士族として暮らしてきた伊藤家の庭には、松が二本、寄り添うように立っていた。幹夫は縁側に腰を下ろし、その松の影を見つめながら、父の低い声に耳を澄ませた。父は朝の新聞に目を通すと、武家の矜持を守るかのように背筋を伸ばし、静かに言った。「東京は、また騒がしいようだ」 幹夫はそれ以上何も口にしなかった。父の言葉の奥にある固く冷えた空気が、少年にはまだ測り知れない深さをもって迫ってきた。兄や姉が多く、厳格な家で暮らす日々は、幹夫にとっては吸い込む息すらも控えめであるべきかと思わせるほど、重たい静けさに包まれている。けれども、心のどこかには、新しい何かがすぐ目の前で揺れている気配があった。

 午後になると、幹夫は旧制中学の友人・千之助と連れ立って町へ出る。千之助は浜松にある楽器工場の職工長の息子だ。洋式の楽器を扱う父の話を少しばかり自慢げに語る千之助の声は、幹夫の胸をそよがす薫りのように入り込む。ふたりの足もとに、風が運んできた茶葉の匂いが一瞬だけ漂った。「いつか、浜松に来てみないか。オルガンの音を聞くと、まるで世界が開けるような気がするんだ」 千之助は言う。幹夫は黙って笑みを浮かべただけだったが、その言葉がいつまでも耳に残り、父には決して知られたくない胸の振動を感じていた。

 夜、襖の向こうの母の声を聞きながら、幹夫は自室の片隅に座っていた。姉の文江が「もっと学びたい」と言い出し、母が困惑しているのだ。部屋にかすかに灯る明かりが、掛け軸に揺れ、幹夫の筆箱の影を長く伸ばす。 士族としての誇りを形ばかりに守る父、そして静岡の茶畑を見下ろす古い屋敷。そのなかで姉は声を上げ、友は工場の音色に胸を躍らせる。幹夫は、彼らと自分のいる場所がうっすらとずれていくのを感じていた。どうしようもなく、父のそばにいると家の底から冷たい水がじんわりと滲み出すような息苦しさを覚えるのに、それがまるで日本の古く、美しい香りの一部でもあるように感じてしまうのだ。 翌朝、縁側に降りると、うすい春の日が襖に映え、茶畑の緑の線が遠くまで続いていた。幹夫はそこから父の姿を探す。父はいつものように新聞を手にしている。遠くで姉の声が聞こえ、母の慌ただしい足音が続く。けれど、幹夫にはそのすべてが大きな布の裏で織り上げられる模様のように思えた。表向きは静かに整いながら、裏側ではさまざまな糸が交錯している――家族の時間も、世間の動きも、幹夫の心も。 ふいに薫ってきた茶の香が、幹夫の鼻をくすぐる。父と見つめ合った一瞬、父の瞳にも何か言いしれぬ響きが宿ったように感じた。それが士族の誇りか、あるいは迷いや躊躇いか、幹夫にはわからない。それでも、かすかに微笑むように見えた父の表情を胸に焼きつけて、幹夫は家の敷居をまたいだ。もうすぐ、自分はこの家から、そして静岡の穏やかな町並みから旅立つかもしれない。 茶畑の先にかすむ山脈が、春のやわらかな陽射しを吸いこんでいる。その向こうでなびく風が、幹夫の耳に囁いたような気がした。家族の古い足音と新しい息づかいが、いまはともにあるのだと──。幹夫は目を閉じて、小さく呼吸をした。茶葉の香りはまだつづく。そこに微かに混じる革新的な季節の匂いを、幹夫はたしかに感じ取っていた。

 
 
 

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