top of page

駿府の雨、石畳が光るとき

 幹夫青年が駿府城公園の方へ歩いて行つたのは、雨の日の風情に心を洗はれたい――などといふ、いかにも人に話しやすい理由からではない。 雨が降れば、洗はれるのは心より先に靴である。靴が濡れると腹が立つ。その腹立ちを「風情」と言ひ換へるほど、幹夫は器用ではなかつた。

 ただ、部屋の中の自分が重たかつた。 机の上の紙、返事の遅れた通知、読みかけの本の背表紙――それらが皆、白い顔でこちらを見てゐる。雨の音が窓を叩くと、その白い顔が余計に整列して見える。整列して見えるものほど、厄介なものはない。整列の中に居ると、こちらも整列せねばならぬ気がして、息が詰まる。

 ならば、雨の中へ出ればいい。 雨の中には整列がない。あるのは濡れた匂ひと、歩く音と、傘の花である。傘の花は皆、勝手な方角を向いてゐる。勝手なものは、こちらの言ひ訳を聞かぬ。聞かぬ代りに、胸の裁判を休ませてくれる。

 幹夫は駅の方から、呉服町のアーケードを抜けて行つた。 雨は本降りではない。ぽつぽつと、しかし確かに降つてゐる。アーケードの屋根を打つ雨粒は、軽い癖に、やけに律義に音を刻む。律義な音は普段なら嫌ひだが、今日の律義は叱らない。叱らずに、ただ「降つてる」と言ふだけである。そういふ律義なら、こちらも受け取れる。

 駿府城の濠の方へ出ると、空の色が一段暗く、木の緑が一段濃くなつた。 雨の日の緑は、晴れの日より正直だ。晴れの日の緑は見栄を張るが、雨の日の緑は黙つて濡れてゐる。黙つて濡れてゐるものの前では、人間も余計な芝居が出来ぬ。

 傘を差して歩いてゐても、足元の石畳が目に入る。 石は濡れて光り、灯の反射や、空の灰色をそのまま抱へてゐる。光つてゐるのに威張らない。光つてゐるのに、派手に自慢しない。 幹夫は、あの光り方が好きだと思つた。好きだと認めるのが照れ臭いのに、今日は照れ臭さが少ない。雨が、照れを薄めるからだらう。

 石畳の上を歩くと、靴が小さく鳴る。 ちゃつ、ちゃつ。 その音は、自分の歩みを誇る音ではない。むしろ「急ぐな」と言ふ音だ。濡れた石は滑る。滑るところでは、人は勝手に歩幅を小さくする。歩幅を小さくすると、胸の中の急ぎも小さくなる。 ――雨は、人間の速度を決める。 幹夫はそれを、今さらのやうに発見した。

 濠端の桜は、季節の終りの名残か、枝の先に僅かな花びらを残してゐた。 雨に濡れた花びらが一枚、石畳へ落ち、ぺたりと張りつく。張りついた花びらは、風が吹いてもすぐには動かない。動かない花びらを見て、幹夫は可笑しくなつた。 自分は、返事ひとつにも動けずにゐるくせに、花びらの動かぬのは「風情」などと言つて眺めてゐる。人間の勝手さは、いつ見ても立派である。立派だが、今日はその立派さを叱らない。叱らぬ方が、雨の日には似合ふ。

 東御門のあたりまで来ると、軒先に小さな売店が出てゐた。 紙コップの茶と、甘い饅頭のやうなものが並び、湯気が静かに立つてゐる。静岡の町は、雨でも湯気を絶やさぬ。湯気は、雨の冷たさを叱らずに拭く。

 幹夫は、軒へ吸ひ寄せられるやうに近づき、先に言つた。

「こんにちは」

 売り子は年配の女で、手が働く顔をしてゐた。雨の日に働く顔は、どこか明るい。明るいが、浮かれてゐない。生活の明るさである。

「こんにちは。濡れたねえ。あったかいお茶、飲んできな」

「……お願いします」

 紙コップを受け取ると、掌に熱がのる。 掌に熱がのると、胸の石の角が少し丸くなる。角が丸くなると、言ひ訳が引つ込む。引つ込んだぶんだけ、目が外へ向く。 幹夫はひと口飲んだ。茶の香が鼻へ抜け、苦みが遅れて追ひかける。その苦みが、叱る苦みでないのがいい。目を覚ます苦みだ。

「雨の日は、石がきれいだねえ」

 女が言つた。 幹夫は、さつき自分が感じたことを、他人の口からさらりと言はれて、少し照れた。照れたが、今日は逃げる冗談を言はなかつた。

「……ほんとですね。光つてゐます」

「光るのにね、急がないんだよ。雨の日は、急いだ方が負ける」

 急いだ方が負ける。 その言ひ方が、妙に胸へ来た。 幹夫は、負けるのが嫌で、いつも急ぎたがる。急がねば間に合はぬと焦り、焦るほど言ひ訳が増え、増えるほど動けない。 ――急がなければ負けるのではない。急ぐから負ける。 雨の石畳が、さう教へてゐるやうだ。

 幹夫が茶を飲み終へるころ、軒の外で、小さな声がした。

「すみません……写真、お願いできますか」

 声の主は観光らしい中年の夫婦で、傘を片手に地図を持ち、少し困つた顔をしてゐる。地図が雨で湿つて、指に張りついてゐた。困つた顔は、雨の日にはよく似合ふ。困つた顔は、助けやすい。

 幹夫は、スマホを受け取りながら、先に言つた。

「こんにちは。いい雨ですね」

 自分でも可笑しい挨拶だつた。 だが相手は笑つた。笑ふと場の湿気が一枚薄くなる。湿気が薄くなると、人は呼吸が出来る。

「いい雨ですねえ。晴れもいいけど、石がきれいで」

 夫が言つた。 幹夫はその一言に、先ほどの女の言葉が重なり、胸の中で小さく湯気が立つのを感じた。 人は、同じことを二度聞くと、やつと自分のものに出来る。

「じゃあ、石畳が入る角度で撮りますね。……少しだけ下から」

 幹夫は、撮影の言ひ訳をしないで、手を動かした。 画面には傘の色と、濡れた石の反射と、濠の水の鈍い光が一緒に入る。夫婦の顔は、雨のせゐで少し幼く見えた。雨に濡れると、人は正直になる。

「はい、いきます」

 ぱちり。

「わあ、きれい。ありがとうございます」

 妻が言ひ、夫も「助かりました」と言つた。 助かりました、といふ言葉は、案外、人を立派にしない。立派にしないのに、胸を温める。幹夫はその温まり方が好きだつた。

 夫婦が去つたあと、幹夫は軒下の女に軽く会釈した。 女は湯気の向うで手を振つた。

「ほら、雨の日も悪くないでしょ。急がなきゃ、ちゃんと光るからね」

 幹夫は、その「ちゃんと光る」が気に入つた。 光るのは、頑張るからではない。濡れるから光る。濡れるのは、止められぬことだ。止められぬことに身を任せれば、勝手に光る瞬間がある。 人生も、ひょつとすると、その程度の仕組みで出来てゐるのかもしれぬ。

 幹夫は、また石畳へ戻つた。 雨はまだ降つてゐる。 だが、降つてゐるのに、胸はさつきより軽い。軽いのは、雨が止んだからではない。急ぐのを一度やめたからである。

 濠の水面に、雨の輪が次々に出来る。 輪はすぐ消える。消えるが、また出来る。 出来て消える――その往復が、妙に前向きに見えた。終りは悲しいのではない。次が来る形になつてゐるだけだ。

 幹夫はポケットからスマホを出した。 長文は書かない。長文は言ひ訳の巣になる。雨の日は、短い言葉の方が濡れにくい。

 彼は、短く打つた。

 ――「駿府の雨。石畳が光ってた。今日は急がないで歩けた。少し楽。」

 送信すると、画面が静かに戻つた。 返事が来るかどうかは分らぬ。分らぬが、急がぬで送れたことが、今日は勝ちである。勝ちは、いつも大きくなくていい。小さな勝ちは、雨の日の石畳みたいに、そつと光る。

 帰り道、雨がほんの少し弱まつた。 傘の上の音が、ぽつぽつから、さらさらへ変つた。 幹夫は、その変り目を、見逃さずに歩いた。変り目を見逃さぬほどの余裕が、今夜の自分にあるのが可笑しい。

 幹夫青年は、駿府の雨の中で、何かを成し遂げたわけではない。 ただ、石畳の光り方に合わせて、歩く速度を落としただけである。 だが速度を落とせると、世界の方が先に明るくなることがある。 それが、雨の日のいちばん実用的な、そしていちばん明るい教へであつた。

 
 
 

最新記事

すべて表示
“規程だけ”で終わらせないクラウド法務:Purview×ログ×権限でAIリスクを管理する方法

1. AIが進まない原因は「AI」ではなく「組織とルール」 生成AIの導入で企業がつまずく典型は、技術の難しさ以上に 「社内がたこつぼ化している」  ことです。 部門ごとに別々の生成AI・別々のルール データ共有や権限設計が追いつかず、使える人だけが使う リスク評価が属人化し、最後は「禁止事項の羅列」になって現場が萎縮 結果として「使わないのが安全」が組織の最適解になってしまう AIは“導入”では

 
 
 
【公取委の立入検査報道で再注目】クラウド移行の前に“Microsoftライセンス”と“出口条項”を棚卸しする理由

※本稿は一般情報です。個別案件の適法性判断・紛争対応は弁護士にご相談ください。 ■ 1. 何が起きているのか(ニュースの要点) 公正取引委員会が日本マイクロソフトに立入検査に入ったと報じられました。 報道では「Azureと競合する他社クラウドではMicrosoftソフトを使えない/料金を高くする等の条件を設けた疑い」が論点とされています。 結論はこれからですが、企業側として重要なのは―― “クラウ

 
 
 

コメント


Instagram​​

Microsoft、Azure、Microsoft 365、Entra は米国 Microsoft Corporation の商標または登録商標です。
本ページは一般的な情報提供を目的とし、個別案件は状況に応じて整理手順が異なります。

※本ページに登場するイラストはイメージです。
Microsoft および Azure 公式キャラクターではありません。

Microsoft, Azure, and Microsoft 365 are trademarks of Microsoft Corporation.
We are an independent service provider.

​所在地:静岡市

©2024 山崎行政書士事務所。Wix.com で作成されました。

bottom of page