駿府の雨、石畳が光るとき
- 山崎行政書士事務所
- 2025年12月23日
- 読了時間: 6分

幹夫青年が駿府城公園の方へ歩いて行つたのは、雨の日の風情に心を洗はれたい――などといふ、いかにも人に話しやすい理由からではない。 雨が降れば、洗はれるのは心より先に靴である。靴が濡れると腹が立つ。その腹立ちを「風情」と言ひ換へるほど、幹夫は器用ではなかつた。
ただ、部屋の中の自分が重たかつた。 机の上の紙、返事の遅れた通知、読みかけの本の背表紙――それらが皆、白い顔でこちらを見てゐる。雨の音が窓を叩くと、その白い顔が余計に整列して見える。整列して見えるものほど、厄介なものはない。整列の中に居ると、こちらも整列せねばならぬ気がして、息が詰まる。
ならば、雨の中へ出ればいい。 雨の中には整列がない。あるのは濡れた匂ひと、歩く音と、傘の花である。傘の花は皆、勝手な方角を向いてゐる。勝手なものは、こちらの言ひ訳を聞かぬ。聞かぬ代りに、胸の裁判を休ませてくれる。
幹夫は駅の方から、呉服町のアーケードを抜けて行つた。 雨は本降りではない。ぽつぽつと、しかし確かに降つてゐる。アーケードの屋根を打つ雨粒は、軽い癖に、やけに律義に音を刻む。律義な音は普段なら嫌ひだが、今日の律義は叱らない。叱らずに、ただ「降つてる」と言ふだけである。そういふ律義なら、こちらも受け取れる。
駿府城の濠の方へ出ると、空の色が一段暗く、木の緑が一段濃くなつた。 雨の日の緑は、晴れの日より正直だ。晴れの日の緑は見栄を張るが、雨の日の緑は黙つて濡れてゐる。黙つて濡れてゐるものの前では、人間も余計な芝居が出来ぬ。
傘を差して歩いてゐても、足元の石畳が目に入る。 石は濡れて光り、灯の反射や、空の灰色をそのまま抱へてゐる。光つてゐるのに威張らない。光つてゐるのに、派手に自慢しない。 幹夫は、あの光り方が好きだと思つた。好きだと認めるのが照れ臭いのに、今日は照れ臭さが少ない。雨が、照れを薄めるからだらう。
石畳の上を歩くと、靴が小さく鳴る。 ちゃつ、ちゃつ。 その音は、自分の歩みを誇る音ではない。むしろ「急ぐな」と言ふ音だ。濡れた石は滑る。滑るところでは、人は勝手に歩幅を小さくする。歩幅を小さくすると、胸の中の急ぎも小さくなる。 ――雨は、人間の速度を決める。 幹夫はそれを、今さらのやうに発見した。
濠端の桜は、季節の終りの名残か、枝の先に僅かな花びらを残してゐた。 雨に濡れた花びらが一枚、石畳へ落ち、ぺたりと張りつく。張りついた花びらは、風が吹いてもすぐには動かない。動かない花びらを見て、幹夫は可笑しくなつた。 自分は、返事ひとつにも動けずにゐるくせに、花びらの動かぬのは「風情」などと言つて眺めてゐる。人間の勝手さは、いつ見ても立派である。立派だが、今日はその立派さを叱らない。叱らぬ方が、雨の日には似合ふ。
東御門のあたりまで来ると、軒先に小さな売店が出てゐた。 紙コップの茶と、甘い饅頭のやうなものが並び、湯気が静かに立つてゐる。静岡の町は、雨でも湯気を絶やさぬ。湯気は、雨の冷たさを叱らずに拭く。
幹夫は、軒へ吸ひ寄せられるやうに近づき、先に言つた。
「こんにちは」
売り子は年配の女で、手が働く顔をしてゐた。雨の日に働く顔は、どこか明るい。明るいが、浮かれてゐない。生活の明るさである。
「こんにちは。濡れたねえ。あったかいお茶、飲んできな」
「……お願いします」
紙コップを受け取ると、掌に熱がのる。 掌に熱がのると、胸の石の角が少し丸くなる。角が丸くなると、言ひ訳が引つ込む。引つ込んだぶんだけ、目が外へ向く。 幹夫はひと口飲んだ。茶の香が鼻へ抜け、苦みが遅れて追ひかける。その苦みが、叱る苦みでないのがいい。目を覚ます苦みだ。
「雨の日は、石がきれいだねえ」
女が言つた。 幹夫は、さつき自分が感じたことを、他人の口からさらりと言はれて、少し照れた。照れたが、今日は逃げる冗談を言はなかつた。
「……ほんとですね。光つてゐます」
「光るのにね、急がないんだよ。雨の日は、急いだ方が負ける」
急いだ方が負ける。 その言ひ方が、妙に胸へ来た。 幹夫は、負けるのが嫌で、いつも急ぎたがる。急がねば間に合はぬと焦り、焦るほど言ひ訳が増え、増えるほど動けない。 ――急がなければ負けるのではない。急ぐから負ける。 雨の石畳が、さう教へてゐるやうだ。
幹夫が茶を飲み終へるころ、軒の外で、小さな声がした。
「すみません……写真、お願いできますか」
声の主は観光らしい中年の夫婦で、傘を片手に地図を持ち、少し困つた顔をしてゐる。地図が雨で湿つて、指に張りついてゐた。困つた顔は、雨の日にはよく似合ふ。困つた顔は、助けやすい。
幹夫は、スマホを受け取りながら、先に言つた。
「こんにちは。いい雨ですね」
自分でも可笑しい挨拶だつた。 だが相手は笑つた。笑ふと場の湿気が一枚薄くなる。湿気が薄くなると、人は呼吸が出来る。
「いい雨ですねえ。晴れもいいけど、石がきれいで」
夫が言つた。 幹夫はその一言に、先ほどの女の言葉が重なり、胸の中で小さく湯気が立つのを感じた。 人は、同じことを二度聞くと、やつと自分のものに出来る。
「じゃあ、石畳が入る角度で撮りますね。……少しだけ下から」
幹夫は、撮影の言ひ訳をしないで、手を動かした。 画面には傘の色と、濡れた石の反射と、濠の水の鈍い光が一緒に入る。夫婦の顔は、雨のせゐで少し幼く見えた。雨に濡れると、人は正直になる。
「はい、いきます」
ぱちり。
「わあ、きれい。ありがとうございます」
妻が言ひ、夫も「助かりました」と言つた。 助かりました、といふ言葉は、案外、人を立派にしない。立派にしないのに、胸を温める。幹夫はその温まり方が好きだつた。
夫婦が去つたあと、幹夫は軒下の女に軽く会釈した。 女は湯気の向うで手を振つた。
「ほら、雨の日も悪くないでしょ。急がなきゃ、ちゃんと光るからね」
幹夫は、その「ちゃんと光る」が気に入つた。 光るのは、頑張るからではない。濡れるから光る。濡れるのは、止められぬことだ。止められぬことに身を任せれば、勝手に光る瞬間がある。 人生も、ひょつとすると、その程度の仕組みで出来てゐるのかもしれぬ。
幹夫は、また石畳へ戻つた。 雨はまだ降つてゐる。 だが、降つてゐるのに、胸はさつきより軽い。軽いのは、雨が止んだからではない。急ぐのを一度やめたからである。
濠の水面に、雨の輪が次々に出来る。 輪はすぐ消える。消えるが、また出来る。 出来て消える――その往復が、妙に前向きに見えた。終りは悲しいのではない。次が来る形になつてゐるだけだ。
幹夫はポケットからスマホを出した。 長文は書かない。長文は言ひ訳の巣になる。雨の日は、短い言葉の方が濡れにくい。
彼は、短く打つた。
――「駿府の雨。石畳が光ってた。今日は急がないで歩けた。少し楽。」
送信すると、画面が静かに戻つた。 返事が来るかどうかは分らぬ。分らぬが、急がぬで送れたことが、今日は勝ちである。勝ちは、いつも大きくなくていい。小さな勝ちは、雨の日の石畳みたいに、そつと光る。
帰り道、雨がほんの少し弱まつた。 傘の上の音が、ぽつぽつから、さらさらへ変つた。 幹夫は、その変り目を、見逃さずに歩いた。変り目を見逃さぬほどの余裕が、今夜の自分にあるのが可笑しい。
幹夫青年は、駿府の雨の中で、何かを成し遂げたわけではない。 ただ、石畳の光り方に合わせて、歩く速度を落としただけである。 だが速度を落とせると、世界の方が先に明るくなることがある。 それが、雨の日のいちばん実用的な、そしていちばん明るい教へであつた。



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