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会の字

 朝の富士は、雲のふちだけ白くて、あとは薄い灰色に溶けていた。 溶けていると、近いのに遠い。 遠いと、目が急がない。

 ちゃぶ台の端の「まちばこ」は、今日も空っぽだった。 空っぽは、来る場所。 来る場所があると、胸の中にも余地ができる。

 幹夫は首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。

 ――いき。

 台所の境目で、母が味噌を溶きながら言った。

「今夜、集まりだに」

 集まり。 その二文字は、畳の上を少しだけ冷たくすることがある。 人が集まると、音も集まる。 音が集まると、胸の奥の古いところが目を覚ます日がある。

 縁側で糸電話の糸を巻いていた父の手が、ほんの少し止まった。 止まって――でも、逃げない。 逃げないで止まるとき、父は息を探している。

 幹夫は袋を押さえたまま、胸の中へ息を入れた。

 ――いき。

 父がぽつりと言った。

「……どこだ」

 母が急がせない声で返す。

「清水屋の裏の、小さい座敷だに。回覧板の話と、配給のこと。……それだけ」

 それだけ。 “だけ”があると、怖さが一つに固まらない。

 祖母が鍋の向こうで淡々と言った。

「集まりぁ飯のあとだに。腹が先。腹が落ち着けば、声も落ち着く」

 父が、ふう、と息を吐いた。

 ふう……。

「……俺も……行かにゃならんか」

 “ならんか”の言い方が、少しだけ弱い。 弱い言い方は、助けを呼ぶ言い方にもなる。

 幹夫は、すぐに言葉を出さなかった。 急ぐと、言葉が尖る日がある。 だから、間。

 ――いき。

 母が、炊き立ての匂いを連れて言った。

「行かにゃならん、じゃない。……行けたらええ。座るだけでええ。聞くだけでええ」

 聞くだけでええ。 聞く、は門の中の耳。 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。

 父は縁側のふちを指で撫でて、ぽつりと言った。

「……座るだけ……か」

 幹夫は思わず、戸口の「置き布」を見た。 布は、何もなくてもそこに居る。 そこに居るから、置ける。

 幹夫が小さく言った。

「……父ちゃん、布、持ってく?」

 言う前に、息。

 ――いき。

 父は一瞬、目を細めて、それから小さく頷いた。

「……持ってく。……会うときの布」

 会うときの布。 その言い方が、幹夫の胸をそっと撫でた。 会うことに、道具を許してくれる言い方だった。

 夕方、飯の匂いが家の奥へ落ち着いたころ。 父は戸口の置き布を折り畳んで、小さな四角にした。 角は丸い。 丸い角は刺さらない。

 父はそれを懐へ入れる前に、いちど掌に乗せて、確かめるみたいに撫でた。

 ――いき。

「……みき坊」

 父が呼んだ。 呼び方が、急がない。

「……一緒に来るか」

 一緒に。 その二文字が、幹夫の胸の奥でぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

「うん」

 母が戸を閉めながら言った。

「じゃあ、三人で行く。……会うのは三人で練習だに」

 三人で練習。 練習は恥じゃない。 練習は、明日の匂い。

 外へ出ると、潮と砂と、どこか鉄の匂いが混ざっていた。 蒲原の道は、混ざる匂いでできている。 混ざるけれど、ちゃんと分かれる。 海の匂いと、線路の匂いと、飯の匂い。

 ――いき。

 清水屋の裏の座敷は、小さな提灯の明かりが揺れていた。 揺れる明かりは、音も揺らす。 揺れると、どこが起こり口か分からない日がある。

 戸口で、父の足が止まった。 止まって、少し。 その少しに、幹夫は息を入れた。

 ――いき。

 中から、話し声。 笑い声。 湯呑みを置く音。 畳を踏む音。 全部が小さいのに、集まると大きくなる。

 父の肩が、ふっと上がりかけた。 上がりかけて――止まる。 止まれたところで、父が口の中で小さく言った。

「……湯呑みの音だ」

 名前を置く。 置けると、音は音のままで座る。

 母が戸を開けて、低い声で言った。

「おじゃましますだに」

 中の人が振り返る。 顔がいくつも。 顔がいくつもあると、目が迷う。 迷うと、胸が走る日がある。

 幹夫は袋を押さえて、息。

 ――いき。

 清水屋のおばさんが手招きした。

「こっちこっち。……兄さん、みき坊も来ただに」

 父は、いちど懐に手を入れて、布の端を指でつまんだ。 つまんで、確かめる。 確かめると、胸の中に皿ができる。

 座る場所は、入口に近い端だった。 端は、逃げ道がある。 逃げ道があると、胸が潰れにくい。

 ――いき。

 座敷の真ん中に、回覧板が置かれた。 板の上で紙が擦れる音が、さら、と鳴った。

 さら、は刺さらない。 でも、誰かが急いで紙を押さえて、板が畳に当たった。

 ごとっ。

 硬い音。 父の肩が跳ねた。 跳ねて――声が出そうな形で止まる。

 止まった「間」に、幹夫は袋を押さえて息を入れた。

 ――いき。

 父が、口の中で言った。

「……板の音だ」

 名前を置く。 置いたら、息が戻る。

 ふう……。

 隣に座っていた母が、父の懐をちらりと見て、低く言った。

「布、出すだに」

 父は頷いて、折り畳んだ布をそっと出した。 出して、すぐ広げない。 一度、畳の上に置いてから、端をゆっくり開く。 開くときの音を眠らせる手つき。

 父は布を、回覧板の下へ滑り込ませた。 滑り込ませるだけ。 叩かない。 押しつけない。

 次に紙がめくられても、音が小さかった。 さら。 さら。 湯呑みの音も、畳の上で少し丸くなる気がした。

 座敷の空気が、ほんの少しだけやわらかくなる。

 清水屋のおばさんが、布を見て言った。

「最近、みんな布だに。……いいねぇ、音が寝る」

 “音が寝る”。 その言い方が、父の肩を一段落とした。

 父が、ぽつりと言った。

「……寝る音は……聞ける」

 聞ける。 命令じゃない。 自分の足で立つ「聞ける」。

 集まりの話は、長くなかった。 配給のこと。 集まりの順番。 回覧板の回す道筋。

 でも、途中で、座敷の端の男が声を張った。

「……遅ぇと困るだろ! みんながみんな、暇じゃねぇんだ!」

 声が尖る。 尖る声は、胸の奥の硬いところを叩きやすい。

 父の肩が、ふっと上がりかけて――止まる。 止まるとき、目が遠くへ行きかける。 行きかけて――戻る。

 戻すために、父は息を吐いた。

 ふう……。

 幹夫は袋を押さえて、息。

 ――いき。

 母が、男の声へぶつけない声で言った。

「遅れんようにするだに。……でも、急ぐと音が荒れる。荒れると、手も荒れる」

 手も荒れる。 暮らしの言い方で、尖りを丸くする。

 祖母じゃない人が、笑いを落とした。

「そうだに。……湯呑み割ったら、余計困る」

 笑いが混じると、尖りが少しだけ溶ける。

 男は、言い返そうとして、でも一瞬だけ言葉を飲み込んだ。 飲み込んだのは、みんなの“間”がそこにできたからだ。

 父は、その間に、布の端を指で撫でた。 撫でると、手が戻る。 手が戻ると、胸も戻る。

 ――いき。

 司会の人が、回覧板の端を指で押さえながら言った。

「じゃあ、次は……浜のほうは、兄さんのとこだに」

 兄さん。 父の番。 “回す”が父へ来る。

 父の喉がごくりと動いた。 でも、目は逃げない。 逃げない目で、父は小さく頷いた。

「……うん。……俺が回す」

 “俺が”。 座敷の中で、父が「俺」を置いた。 それは、語ったときの“俺”より、少しだけ外に届く“俺”だった。

 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 清水屋のおばさんが、にこ、と笑って言った。

「兄さん、声、丸いでええだに。……会うときは、それが一番」

 声、丸い。 丸い声は刺さらない。 刺さらない声は、続く。

 帰り道。 潮の匂いが濃くなって、暗さが少し増した。 暗いと、足音が大きく聞こえる日がある。

 父は道の端を歩きながら、ぽつりと言った。

「……会うって……疲れるな」

 疲れる。 正直な言葉。 疲れるのは、悪じゃない。 体がちゃんと働いた証拠。

 幹夫は返事を急がなかった。 間を置いて、息。

 ――いき。

「……うん。……でも父ちゃん、座れた」

 父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。

「……座れた。……布、助かった」

 母が低く言う。

「会うときは、布みたいな“間”がいるだに。……人と人の間。音と胸の間」

 間。 縁の間。 門の間。 受け皿の間。 全部が帰り道に並ぶ。

 父がぽつり。

「……俺、会うの、嫌いだと思ってた」

 母が、否定しない声で返す。

「嫌い、じゃなくて……刺さるのが怖かっただに。刺さらんようにすれば、会える」

 刺さらんようにすれば、会える。 幹夫の胸の奥が、すとん、と座った。

 ――いき。

 夜。 家の中の匂いが戻ってきて、飯の温度が畳に落ち着いたころ。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆。 継ぎ目は今日も痛くない。

「幹夫。……今日はこれだに」

 母がゆっくり書いた。

 会

 幹夫はその字を見た瞬間、座敷の提灯の揺れと、布の上で眠った回覧板の音を思い出した。 会う、は“集まり”で、でも“刺さらない工夫”でもあった。

 母は上の形を指でなぞった。

「ここ、人だに。……人がふたり、みたいにも見えるだら」

 人。 父と母。 幹夫と正夫。 そして、座敷のいくつもの顔。

 母は下をなぞった。

「こっちは云(いう)みたいな形だに。……言う、ってこと」

 言う。 語る。 伝える。 でも、今日は大声じゃなく、置く声。

 母は息をひとつ入れてから、低く言った。

「会うってのはな……人が集まって、言葉を交わして、ひとつの場を作る字だに。会議の会も、出会いの会も、ここだに」

 ひとつの場。 場があると、息が入る。 場があると、戻れる。

 母は続けた。

「でもな、会うのは“がまん”じゃない。……布を敷くみたいに、間を敷く。そうすると、声が刺さらん」

 間を敷く。 その言い方が、幹夫の胸の奥にふわっと座った。

 父が新聞紙の「会」を見て、ぽつりと言った。

「……俺、会の字……好きかもしれん」

 “好きかもしれん”。 かも、がある。 余地がある。 余地があると、好きは怖くない。

 母が頷く。

「うん。……今日は会えただに。座れただに。『俺が回す』って言えただに」

 父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。

「……会うって……俺が俺で居る練習だな」

 居る練習。 待の字の匂い。 信の字の匂い。 語の字の匂い。

 祖母が鍋の向こうで淡々と言った。

「会うなら飯食え。飯食ったら寝ろ。……それが一番の会だ」

 乱暴なのに、太い道の言い方。

 幹夫は鉛筆を握った。 会を書く。

 一回目の「会」は、人が細くて、下が詰まって、息苦しい顔になった。 息苦しいと、胸がきゅっとする。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「詰まったらな……人を太らせりゃええ。会うのは、人の温度だに。……息、入れてから」

 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。

 ――いき。

 二回目の「会」は、少し丸い顔になった。 丸いと、座れる字になる。

 父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 父の「会」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 最後の点を置く前に、父は一度止まって――息を吐いた。

 ふう……。

 吐いてから、点を置いた。

「……点、置くと……場が閉まる感じがするな」

 閉まる、は牢屋じゃない。 “終わり”じゃなく、“まとまり”。 まとまると、次へ渡せる。

 母は「会」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、座敷の提灯の丸みたいに見えた。

 夜。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、今日のページに震える字で書いた。

あつまりいったこわかった けどぬの しいたおと ねたおれ が まわす って いえたかい って じすこし すきいき

 父がぽつりと言った。

「……みき坊。……会うの、まだこわい」

 幹夫は頷く前に息を入れた。

 ――いき。

「……うん。……でも、布と、ぼくと、母ちゃんがいる」

 父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。

「……そうだな。……会うの、ひとりでやらんでいいな」

 母の低い声が、暗い中で落ちた。

「ひとりでやらんでええ。……会うってのは、支え合うってことだに」

 祖母が淡々と言う。

「支え合ったら飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」

 また明日。 会える明日。

 幹夫は袋を押さえて、口の中で小さく言った。

 ――いき。

 寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。

(とうちゃんへ も)

 中に書く。

あう ってひと が あつまってことば を かわしてば を つくる って こと なんだねきょうあつまり いったぬの しいたおと ねたとうちゃんおれ が まわす って いえたいき

 最後に、小さく「会」。 丸をひとつ。 提灯の丸。

 紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは男の尖った声の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。

 翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、三つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

あう はひと が あつまって ば を つくるぬの みたい に ま を しくささらん ようにうん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

みきぼうきのうあつまりこわかった けどとまれたぬの で おと ねたおれ が まわす って いえたすこしおれ が ここ に おれた

 その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。

 三枚目。 文字じゃなく――折り畳んだ小さな布。 角が丸く縫ってある。刺さらない角。 布のすみに、父の震える字で小さく、

かい

 と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。

 幹夫はその布を掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 会う。 人と人の間に、布みたいな間を敷く。 音も言葉も刺さらないように、いったん座らせる。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、座敷で眠った小さな音と、「俺が回す」という父の声は届いた。 届いた“会えた”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、出会いのふちを、刺さらない形で、そっと丸くしていった。

 
 
 

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