伝の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月18日
- 読了時間: 10分

朝の光は、戸のすき間から入ってきて、畳の目を一本だけ白くした。 一本の白は、線みたいだ。 線があると、今日が始まる場所が分かる。
幹夫は縁側のふちに座って、首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。
――いき。
ちゃぶ台の端の「まちばこ」に、今朝は紙が一枚入っていた。 白い紙。 白いのに刺さらないように、角が折ってある。 母の折り方。掴まない折り方。
「学校の、お知らせだに」
母が言った。声が急がない。
紙には、太い字で書いてある。
今夜 灯火管制 合図 拍子木先生より 家の人へ
家の人へ。 それは、紙が歩いていく言葉だ。 歩いていく言葉には、転びやすいところがある。 途中で、違う顔になってしまうところ。
父がその紙を見て、肩がふっと上がりかけた。 上がりかけて――止まる。
止まった「間」に、幹夫は息を入れた。
――いき。
父は懐のま札に触れて、ふう、と吐いた。
ふう……。
「……先生から、か」
母が頷く。
「そうだに。……学校からのは、ちゃんと伝えんといかん。道中で“らしい”にせん」
“らしい”。 昨日、先生も言っていた。 聞いた話が、胸の中で勝手にふくらむ匂い。
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「ふくらむ話は腹が荒れる。……伝えるなら、細う伝えろ」
細う。 糸みたいに。 切れないくらいの細さで。
母が幹夫に紙を差し出した。 いきなり渡さない。 置き布の上に、そっと置いてから、指でちょんと示す。
「先生に、返事書いて持ってけ。……家の人が見たって、しるしだに」
しるし。 印は、届いたっていう丸。
幹夫は紙を受け取って、鞄のいちばん内側へ入れた。 内側は、門の中。 門の中に入れると、紙が落ち着く気がした。
――いき。
父が、縁側の板に引いた白い線を指でなぞって、ぽつりと言った。
「……今夜、合図が鳴っても、走るな。……伝えるときも、走るな」
伝えるときも。 音だけじゃない。 言葉も走る。
幹夫は頷く前に息を入れた。
――いき。
「……うん。……ま、してから」
父は一瞬だけ笑いそうになって、笑わないまま息を吐いた。
ふう……。
「……それでいい」
学校の教室は、チョークの粉の匂いがした。 乾いた匂い。 乾いた匂いは、言葉の角を立てやすい。
先生が黒板に、大きく字を書いた。
伝
きゅっ、きゅっ。
「今日は“つたえる”の伝。読めるな」
教室が声を出す。
「つたえる!」
声が集まると、胸が忙しくなる。 幹夫は机の端を指で触って、“ここ”を作った。
――いき。
先生は黒板をとん、と叩いた。
「伝えるってのは、言葉を運ぶことだ。運ぶってことは、落とすかもしれないってことでもある。落とすなよ」
落とすなよ。 それは、紙にも胸にも言える。
先生が続けた。
「伝は、左が“人”。右が“云う(いう)”。人が言うことを、人へ渡す字だ。――ただしな」
先生は声を少し落とした。
「自分の心で“足す”と、別の話になる。怖いを足すな。強いを足すな。『らしい』を勝手に『ほんと』にするな」
怖いを足すな。 その言葉が、幹夫の胸の中で、父の肩の“上がりかけ”とつながった。
先生が急に言った。
「じゃあ、伝言(でんごん)遊びをするぞ。前の列の人は、先生の言葉を後ろへ伝えろ。最後の人が言え」
教室がざわっとする。 ざわっとするのは、風みたいだ。 風は、言葉も動かす。
先生が小さな声で、前の列にだけ囁いた。
「『今日の宿題は算数。ページ三。ゆっくりやれ』」
前の子が、次の子へ囁く。 囁きが、列を歩く。
幹夫の番が来た。 耳が受け取る。 胸が一瞬だけ、持ち上がる。 持ち上がったまま言うと、言葉がこぼれる。
だから、息。
――いき。
幹夫は、隣の子の顔を見て、ゆっくり囁いた。
「きょうの……しゅくだいは……さんすう。……ぺえじ、さん。……ゆっくり、やれ」
ゆっくり、やれ。 その“ゆっくり”を落としたくなかった。 落とすと、家で母が困る。 父の胸も走るかもしれない。
列の最後の子が立って、大きな声で言った。
「今日の宿題は算数! ページ三! 早くやれ!」
教室が笑った。 笑いは、刃になる日がある。 でも今日は、先生が先に手を上げた。
「ほらな。『ゆっくり』が『早く』になった。これが伝言だ。間がないと、言葉は走って形が変わる」
間。 門の中の光。 幹夫の胸の中で、昨日の字がぱっと灯った。
先生が言った。
「幹夫、おまえは『ゆっくり』を落とさなかったな。いい伝え方だ。息を入れて、言葉を置け」
“いい伝え方”。 幹夫の喉の奥が熱くなった。 熱いと走りそうだから、息。
――いき。
後ろの席の正夫が小声で言った。
「みきぼー、伝えるの上手!」
上手。 “上手”は、嬉しいのに照れる。 照れると声が小さくなる。
幹夫は小さく言った。
「……ま、した」
正夫はにっと笑って頷いた。
「ま! つたえる前のま!」
帰り道、踏切が鳴った。
カン、カン、カン。
でも幹夫は、鐘と鐘のあいだを先に見つけた。
カン、……(いき)……カン、……(いき)……
正夫が真似をして息を吐く。
ふう……。
「間があると、伝えるのも楽だな!」
楽。 楽は、刺さらない軽さ。
――いき。
角を曲がると、上級生たちが道端で話していた。
「今夜、清水は赤くなるってよ」
「飛行機、来るって」
“ってよ”。 “来るって”。 その言葉は、耳に入ってくる。 聞こえる。 でも、聞くかどうかは選べる。
幹夫は足を止めた。 止めた「間」に、息。
――いき。
先生の言葉が胸にあった。
怖いを足すな。『らしい』を『ほんと』にするな。
幹夫は正夫の顔を見た。 正夫の目が丸くなっている。 丸い目は、胸が忙しい目だ。
「みきぼー……今夜……」
正夫が言いかけた。 言いかけの言葉は、転びやすい。
幹夫は、先に門を作った。
――いき。
「……聞いた話? ……それとも、先生から?」
正夫が口を閉じて、ふう、と息を吐いた。
「……聞いた話」
幹夫は頷く前に息を入れた。
――いき。
「……じゃあ、家に持ち帰らない。……持ち帰るのは、紙だけ」
紙だけ。 確かなものだけ。 正夫が少し不満そうに唇を尖らせて、でも頷いた。
「……うん。紙だけ」
その“うん”が、幹夫の胸を少し軽くした。
家に帰ると、ちゃぶ台の端の「まちばこ」が待っていた。 空っぽの箱。 空っぽは、来る場所。 今日は、紙が帰ってくる場所。
幹夫は鞄からお知らせの紙を出して、まちばこにいったん置いた。 いったん置く。 置くと、言葉も座る。
――いき。
「母ちゃん。……先生の。……これ」
母が紙を受け取る前に、いちど置き布の上へ置いた。 置いてから、読んで、頷いた。
「うん。……よく落とさんで来た。伝えたで」
伝えたで。 その言い方が、あたたかい。
父が縁側から顔を出した。 父の顔は、まだ昼の顔。 でも目の奥に、今夜の影が少しだけ見える。
父がぽつり。
「……学校、何か言ってたか」
幹夫はすぐ答えそうになって、いちど息を入れた。
――いき。
「……今夜、灯火管制。……合図は拍子木。……それだけ。……先生が言った」
“それだけ”。 怖いを足さない“それだけ”。
父の肩がふっと上がりかけて――止まる。 止まった「間」に、父が自分で息を吐いた。
ふう……。
「……それだけ、か。……助かる」
助かる。 言葉が細い糸みたいに、父の胸へ入っていった。
母が、ぶつけない声で言う。
「今夜は、灯を漏らさん。黒布、用意しとく。……拍子木が鳴ったら、息して待つ」
祖母が淡々と言う。
「待て。……伝えろ。……余計な話は腹で止めろ」
腹で止めろ。 祖母の“止める”は太い。
夕方。 外で拍子木が、試しみたいに鳴った。
カン、カン。
木の乾いた音。 乾いた音は、胸を走らせる日がある。
父の肩がふっと上がりかけて――止まる。 止まった「間」に、父が口の中で言う。
「……木の音だ」
ふう……。
幹夫は貝殻の糸が揺れるのを見て、音の“あいだ”を探した。
カン、……カン。
……のところ。 そこに、息。
――いき。
父がぽつりと言った。
「……今夜、誰かが走ったら……『ま、して』って伝えてくれ」
伝えてくれ。 父の口から出る“頼む”。
幹夫は頷く前に息を入れた。
――いき。
「……うん。……伝える」
母が小さく頷いた。
「伝えるって、守りだに」
守り。 伝えることが、守りになる夜。
夜。 灯を落とし、黒布を窓に当てる。 家の中は暗い。 暗いのに、息は通る。 息が通る暗さは、刺さらない。
拍子木が遠くで鳴った。
カン、カン。
父が、ふう、と吐く。
ふう……。
幹夫は、父の息を聞いた。 聞いた息を、胸で受けて――そのまま返す。
――いき。
“いる”って言葉は、声にしなくても伝わるときがある。 息の形で。
夜が少しほどけたころ。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆。 白い継ぎ目は、今日もそこにある。 でも痛くない。
「幹夫。……今日はこれだに」
母がゆっくり書いた。
伝
幹夫はその字を見た瞬間、先生の伝言と、噂の“ってよ”と、家へ持ち帰った紙が一緒に浮かんだ。
母は左側を指でなぞった。
「こっちは人だに。……にんべん」
人。 人が人へ。
母は右側をなぞった。
「こっちは云(いう)だに。……言う、って形」
言う。 言葉を置く。 置いた言葉が歩く。
母は息をひとつ入れてから、低く言った。
「伝えるってのはな……人が言うことを、人へそのまま渡す字だに。余計なのを足すと、別の話になる。怖いを足すと刺さる。……だから、ま。息。間を入れて、言葉を座らせてから渡す」
父がま札を指で撫でて、ぽつりと言った。
「……今日、みき坊が……“それだけ”って言ったの、助かった」
母が頷く。
「うん。……正しい伝え方だに。『聞いた話』は『聞いた話』のままにする。『先生が言った』は『先生が言った』のままにする。……線を引くみたいにな」
線。 ここまで。 間。 聞。 全部が、伝の中に座った。
祖母が淡々と言う。
「伝えりゃ飯がうまい。……伝えんと腹が荒れる。荒れりゃ噂が増える」
噂が増える。 怖いが増える。 増えないように、細く伝える。
父が小さく息を吐いた。
ふう……。
「……俺も……伝えるの、下手だった。……怒りを足してた」
母は否定しない。 低く言った。
「うん。……でも今日は足さなかった。息が先に出た。……それが伝えるの入口だに」
幹夫は鉛筆を握った。 伝を書く。
一回目の「伝」は、人が細くて、云が早くて、字が走りそうな顔になった。 走りそうだと、言葉が転ぶ。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「走りそうならな……にんべんを太らせりゃええ。人が座ってから言う。……息、入れてから」
幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。
――いき。
二回目の「伝」は、人が少し座って、云も落ち着いた。 落ち着くと、言葉が落ちない字になる。
父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。
「……俺も、書く」
父の「伝」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 最後の点を置く前に、父は一度止まって――息を吐いた。
ふう……。
吐いてから、点を置いた。
「……点、置くと……言葉が隣へ渡るみてぇだな」
母が小さく頷いた。
「うん。……渡せりゃ伝わる。伝わりゃ、夜が短いだに」
夜更け。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、震える字で書いた。
がっこう の かみみきぼうおとさんで もって きた「それだけ」 っていったたすかった伝ひと が いう こと をひと へま を いれてわたすこんやかん の あいだ息 できたいき
父がぽつりと言った。
「……みき坊。……伝えるの、こわい日もある」
幹夫は頷く前に息を入れた。
――いき。
「……うん。……でも、足さなければ……刺さらない」
父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。
ふう……。
「……足さない、って……強いな」
母の低い声が、暗い中で落ちた。
「強いだに。……足さないってのは、守ることだに」
祖母が淡々と言う。
「守れりゃ飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」
また明日。 細く伝わる明日。
幹夫は袋を押さえて、口の中で小さく言った。
――いき。
寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。
(とうちゃんへ も)
中に書く。
つたえる(伝)ってひと が いう こと をひと へ わたす じ なんだねきょうぼくかみおとさなかったこわい を たさなかったとうちゃんたすかった って いったぼくうれしかったいき
最後に、小さく「伝」。 丸をひとつ。 届いた丸。
紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは“ってよ”の噂の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。
翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、三つ重なっていた。
一枚目、母の字。
伝 はひと の ことば をそのままひと へ わたすたすなま を いれろうん
最後に、小さな丸。
二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。
みきぼうきのう「それだけ」 がたすかった伝 って じすこしおれ の むねおちつくありがとう
その下に、丸がひとつ。
三枚目。 文字じゃなく――短い糸が一本。 両端に小さな結び目があって、真ん中に丸い貝殻がひとつ通してある。 糸は細い。 でも切れていない。 貝殻の横に、父の震える字で小さく、
そのまま
と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。
幹夫はその糸を掌にのせて、息をひとつ入れた。
――いき。
伝える。 人の言葉を、人へ渡す。 怖いを足さない。 “らしい”を“ほんと”にしない。 間を入れて、言葉を座らせてから渡す。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今夜も、届かない音の代わりに、拍子木と紙と息が届いた。 届いたものを落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、刺さらない“そのまま”を、そっと胸の中に座らせていった。




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