top of page

助の字

 朝の井戸は、まだ冷たい音を抱えていた。 つるべの木が、水の重さを思い出す前の静けさ。

 幹夫は縁側のふちに座って、首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。

 ――いき。

 「まちばこ」のふたが、ほんの少しだけ浮いていた。 浮いているのは、誰かの困りごとが入った印だ。

 母がふたを開ける。 中には、小さな紙。 角が丸く折ってある。 丸い角は、刺さらない。

 母の目が、紙の文字を追って、そこで止まった。

いどの なわすれて こわいよかったらみてくださいひらた

 すれて、こわい。 縄がこわい、じゃなくて――縄が切れるのがこわい、ってことだ。 切れると、水が落ちる。 落ちる音は、胸に刺さることがある。

 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったのは、平田さんの“こわい”が胸に届いた音。

 鳴ったから、息。

 ――いき。

 父が縁側の端から顔を出した。 紙を読む前に、いったん置き布の上へ置いてから、指の腹で端を撫でる。 撫でると、紙が暴れない。

 父の目が「いどの なわ」で止まる。 止まると、肩がふっと上がりかける。

 上がりかけて――止まった。

 止まった「間」に、父は懐へ触れて、丸い角のま札を撫でた。

 ふう……。

「……行くか」

 短い。 短いのに、ちゃんと“道”が入っている。

 母が頷いた。

「うん。……縄は、放っとくと切れる。切れる前に助けりゃええだに」

 助けりゃ。 その言葉が、幹夫の胸に小さく灯った。

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「切れる前が肝だ。……助けは“前”に出せ。後は刺さる」

 “前”。 父の肩が上がりきる前。 音が刺さる前。 幹夫の得意な“前”。

 父が納屋から麻縄の端切れを出してきた。 縄は、乾いた匂いがする。 乾いた匂いは、手を少し硬くする日がある。

 父が縄を、いきなり引っぱらない。 指の腹で撫でて、毛羽立ちの場所を探す。 探すと、怖さが形になる。 形になると、手が荒れない。

「……みき坊。……おまえは、結び目押さえろ。……掴むな。受ける手だ」

 受ける手。 受ける手は、落とさない手。

 幹夫は頷く前に息を入れた。

 ――いき。

「……うん」

 井戸端には、平田のおばさんが立っていた。 頬が少しこわばっている。 こわばりは、声より先に顔に出る。

「おはようだに……朝からすまんね」

 謝る声。 謝る声は、受け取らないと宙ぶらりんになる。

 幹夫の胸がぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 父が、いきなり「ええよ」と切らなかった。 まず、縄を見る。 縄の擦れた白いところ。 そこだけ、細くなっている。

 父の肩がふっと上がりかける。 上がりかけて――止まる。

 止まった「間」に、父が口の中で言った。

「……縄の擦れだ」

 名前を置く。 置けると、怖さが全部にならない。

 ふう……。

 父は、つるべをいきなり上げ下げしない。 まず、桶を井戸の口から少しだけ見せて、重さを確かめる。 重いときは、急がない。

「……一回、上げる。……平田さん、ここまで寄るな。……ここで待て」

 ここまで。 線の言葉。守りの言葉。

 父と幹夫が並ぶ。 父が縄を握る。握るけれど、握りこまない。 幹夫は結び目のあたりを、受ける手で押さえる。 押さえると、縄が暴れない。

 ――いき。

 父がゆっくり引く。

 ぎぃ……。

 木が鳴る。 鳴る音は小さい。 小さいのに、胸の奥の硬いところを起こしやすい。

 父の肩が、ふっと上がりかけた。 上がりかけて――止まる。

 止まった「間」に、幹夫は小さく言った。

「……ま」

 父が、ふう、と吐いた。

 ふう……。

「……ま」

 父も言えた。 言えると、音が音のままで座る。

 桶が水面から顔を出す。 水が、重い。 重いけれど、ゆっくりなら上がる。

 ごとん。

 桶が井戸端に置かれた。 水が揺れて、光がゆらりと踊る。 ゆらりは、怖いゆらりじゃない。 生きてるゆらり。

 平田のおばさんの肩が、すとん、と落ちた。

「……助かった」

 助かった。 その二文字が、井戸端の空気を少しだけ温めた。

 父はすぐ「いいえ」と返さず、まず頷いた。 頷いてから、言葉を置いた。

「……うん。……切れる前でよかった」

 “前でよかった”。 祖母の言う“前”。

 父は擦れたところを切り落として、新しい縄の端を継ぐ。 結び目を作るとき、ぎゅっと締めきらない。 少し締めて、少し戻す。 結び目の中に、ちいさな“ま”。

 幹夫はその手つきを見て、胸がぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 平田のおばさんが、恐る恐る言った。

「……うち、なにも出せんで……」

 出せんで。 返せんで。 それは拒む声じゃなく、困りの声。

 父が先に言った。 声を尖らせず、短く。

「……ええ。……縄が切れんのが、いちばんだ」

 押しつけない“ええ”。 受け取れる“ええ”。

 幹夫も、息をひとつ入れてから言った。

 ――いき。

「……よかったら、で……いい」

 平田のおばさんの目が、少しだけ柔らかくなった。 柔らかい目は、受け取る目。

「……ありがと。……ほんと、助かった」

 ありがとう。 助かった。 受け取る言葉が二つ。

 幹夫は、受け取る場所を胸に作ってから、頷いた。

 ――いき。

「……うん」

 学校の教室は、チョークの粉の匂いがした。 乾いた匂い。 乾いた匂いは、字の角を立てやすい。

 先生が黒板に、大きく字を書いた。

 

 きゅっ、きゅっ。

「今日は“たすける”の助。読めるな」

 教室が声を出す。

「たすける!」

 声が集まると、胸が忙しくなる。 幹夫は机の端に指を置いて、“ここ”を作った。

 ――いき。

 先生が言った。

「助けるってのはな、相手の仕事を奪うことじゃない。相手が倒れないように、力を“添える”ことだ」

 添える。 端っこを外して取るみたいに。 切らない添え方。

 先生は教卓の上の重い辞書を持ち上げようとした。 片手だと、少し揺れる。

「ほら、これ。先生一人でも持てるけど、揺れる。揺れると落ちるだろ」

 先生は隣の子を呼んで、反対側を持たせた。 両方から支えると、辞書が座る。

「な。助けは、これだ。相手が“持てる”ようになるまで、力を足す。――足しすぎると、相手の手が休みっぱなしになる。足りないと、落ちる。ちょうどいい“ま”を入れろ」

 ちょうどいい、ま。 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。

 ――いき。

 先生が続けた。

「助はな、右に“力”がついてる。力を足す字だ。左は“且”って形だ。皿みたいに見えるだろ。――そこへ力を添える。だから助ける」

 皿。 塩の皿。 欠けた椀。 場所を作るってこと。

 先生は少し声を落として言った。

「それから大事なこと。助けを求めるのは恥じゃない。頼るのは弱さじゃない。助けを求めて、助けられて、また助ける。――これが“続く”だ」

 続く。 糸が切れない匂い。

 休み時間、正夫が幹夫に小声で言った。

「みきぼー、今朝、だれか助けた?」

 幹夫はすぐ言わず、息を入れてから答えた。

 ――いき。

「……井戸の縄。……切れそうで……父ちゃんと、結んだ」

 正夫が目を丸くする。

「縄、切れると怖いもんな! 助かったって言われた?」

 幹夫は小さく頷いた。 頷く前に、息。

 ――いき。

「……言われた。……助かった、って」

 正夫がにっと笑った。

「それ、いい! “助”の字、ぴったり!」

 夕方。 家の中に干物の匂いが戻ってきたころ、平田のおばさんが戸口に立った。 手に、小さな束――薪の細いの。 端っこみたいな薪。

「これ、井戸の礼。端っこだに。……受け取って」

 母が、すぐ掴まない。 いったん戸口の板に置いて、置いてから受ける。

 とん。

 小さい音。 小さい音は眠る。

「ありがと。……助けは、返すんじゃなくて、つながるんだに。……うちも、いつか助ける」

 平田のおばさんが、ほっと息を吐いた。

 ふう……。

「……助けてもらうの、怖かったけど……言ってよかった」

 言ってよかった。 その言葉が、幹夫の胸を少し熱くした。

 熱いと走りそうだから、息。

 ――いき。

 父が縁側の端からぽつりと言った。

「……井戸の縄……切れなくて……助かった」

 父が「助かった」を口にする。 それだけで、幹夫の胸の奥がぽん、と鳴った。

 ――いき。

 夜。 飯の匂いが家の奥へ落ち着いたころ。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆。 白い継ぎ目は、今日もそこにある。 でも痛くない。

「幹夫。……今日はこれだに」

 母がゆっくり書いた。

 助

 幹夫はその字を見た瞬間、井戸の縄と、先生の辞書と、平田さんの「助かった」が一緒に浮かんだ。

 母は字の右を指でなぞった。

「ここ、力だに。……ちから」

 母は左をなぞった。

「こっちは、皿みたいな形だに。……受ける場所みたいな形。場所があると、力が座る」

 座る。 座ると刺さらない。

 母は息をひとつ入れてから、低く言った。

「助けるってのはな……相手の場所(受けるところ)に、力を“少し”添えることだに。奪わん。押しこまん。足しすぎん。足りんと落ちる。……ちょうどいい“ま”で支える。支えられたら、相手の胸が座る」

 父がま札を撫でて、ぽつりと言った。

「……俺、助けてもらうの……苦手だった」

 母は否定しない。 低く言った。

「うん。……助けてもらうと、借りができるって思うでな。でも借りじゃないだに。糸だに。結び目だに。……今日、平田さんが言っただら。『言ってよかった』って。助けは、言えると刺さらん」

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「助けりゃ腹が荒れん。……助けを断ると溜まる。溜まると手が出る」

 父が小さく息を吐いた。

 ふう……。

「……今日、井戸で……肩、上がった。……でも、みき坊が『ま』って。……助かった」

 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 幹夫は鉛筆を握った。 助を書く。

 一回目の「助」は、力が強く出て、字が少し押しこむ顔になった。 押しこむ顔は、刺さる。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「押しこみそうならな……力を小さく置け。助けは“少し”だに。息、入れてから」

 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。

 ――いき。

 二回目の「助」は、力が座って、左の形が“受け皿”に見えた。 見えると、助ける字になる。

 父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 父の「助」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 最後の点を置く前に、父は一度止まって――息を吐いた。

 ふう……。

 吐いてから、点を置いた。

「……点、置くと……力が“添えた”って感じするな」

 母が小さく頷いた。

「うん。……添えられりゃ、続くだに」

 夜更け。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、震える字で書いた。

あさひらた の かみいど の なわすれて こわいいったいって くれてたすかったいどぎぃ って なったかた うごいたでもみきぼう「ま」たすかった助ばしょ にちから をすこしいき

 父がぽつりと言った。

「……みき坊。……助けるのも、助けられるのも……こわい日がある」

 幹夫は頷く前に息を入れた。

 ――いき。

「……うん。……でも、少しなら……刺さらない」

 父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。

 ふう……。

「……少し、って……好きだ」

 母の低い声が、暗い中で落ちた。

「好きって言えりゃ、助けが座るだに。……助けは、線と同じ。ここまで、って余地を残す」

 祖母が淡々と言う。

「余地がありゃ飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」

 また明日。 助けて続く明日。

 幹夫は袋を押さえて、口の中で小さく言った。

 ――いき。

 翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、三つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

助 はちから をすこし そえるおしこむなま を のこせうん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

みきぼうきのう「ま」 がたすかったおれ もひらた をたすけた助 って じすこしおれ の むねやわらかいありがとう

 その下に、丸がひとつ。

 三枚目。 文字じゃなく――麻縄の短い切れ端。 結び目に余地が残してある。刺さらない結び。 縄の横に、父の震える字で小さく、

すこし

 と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。

 幹夫はその縄を掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 助ける。 相手の受け皿に、力を少し添える。 押しこまない。 足しすぎない。 間と余地を残して、落ちないように支える。

 蒲原に、サイレンは届かなかった。 けれど今日、井戸のぎぃ、という小さな音の前に、幹夫の「ま」と、父の息は届いた。 届いた“少しの力”が、縄も胸も切らせなかった。 その丸さを落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、刺さらない助け方を、そっと胸の中に座らせていった。

 
 
 

コメント


Instagram​​

Microsoft、Azure、Microsoft 365、Entra は米国 Microsoft Corporation の商標または登録商標です。
本ページは一般的な情報提供を目的とし、個別案件は状況に応じて整理手順が異なります。

※本ページに登場するイラストはイメージです。
Microsoft および Azure 公式キャラクターではありません。

Microsoft, Azure, and Microsoft 365 are trademarks of Microsoft Corporation.
We are an independent service provider.

​所在地:静岡市

©2024 山崎行政書士事務所。Wix.com で作成されました。

bottom of page