受の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月7日
- 読了時間: 10分

瓶の栓は、ちゃぶ台の縁で、朝の光をひっかけていた。 金属じゃない、古い硬い栓。指で弾くと、こつ、と小さく鳴る。 小さいのに、腹に届く音。 届くから、幹夫はその音を、わざと小さくしたくなる。
栓を指先でそっと立てて、回す。
くる、くる。
最初はまっすぐ。 それから少しだけ、ゆら、ゆら。
ゆら、ゆら、は怖い日もあるのに、今朝のゆら、ゆらは怖くなかった。 揺れても倒れない揺れに見えたからだ。
縁側で父が、その様子を見ていた。 目が遠いのに、逃げない。 逃げない目は、幹夫の胸を少しだけ落ち着かせる。
父の息が、ふっと出た。
「……ええ回りだな」
ええ回り。 それだけで、幹夫の胸の奥がぽん、と鳴った。 鳴るのに、叫ばない。 叫ばない鳴り方は、家の中に増えてきた鳴り方だ。
嬉しくなると、胸が走りそうになる。 走りそうになったから、幹夫は石をポケットの中で握って、口の中で言った。
――いき。
栓は、最後にふらっと大きく揺れて、でも倒れないまま、止まった。 止まって、少し。 歩の字みたいに、止まってから次へ行く止まり方だった。
父が小さく言った。
「……倒れなかったな」
倒れなかった。 その言葉が、なぜだか幹夫には、栓じゃなく父のことを言っているみたいに聞こえた。 聞こえたから、喉の奥が少し熱くなる。 熱いのに、息ができる熱さ。
そのとき、戸口のほうで、こん、こん、と音がした。 昨日の隣の戸の「こん、こん」と同じ、でも少し違う音。 家の外の音。
父の肩が、ふっと上がった。 上がって、止まる。 止まった「間」に、幹夫は息を入れた。
――いき。
母が台所から、生活の声で言った。
「誰だに。……はいよ」
母が戸を開けると、隣のおばさんが立っていた。 肩に小さな風呂敷包み。 風呂敷の結び目が、きゅっと固い。
「この前はね、瓶、ありがとね」
ありがとね。 柔らかい言葉。 柔らかいのに、ちゃんと重い。
おばさんは風呂敷を少し持ち上げた。
「これ……少しだけど。干し芋。うちの」
干し芋。 甘い匂いが、まだ風呂敷の外には出ていないのに、幹夫の頭の中ではもう甘い匂いがしてしまう。 甘い匂いは嬉しい。 嬉しいと、胸が走りそうになる。
――いき。
父が縁側から立ち上がった。 立ち上がる動きが、急がない。 急がないのに、止まらない。 止まらない立ち上がり方は、道の途中の立ち上がり方だった。
父は戸口の少し後ろに立って、言った。
「……そんな、いい」
いい、の声が少し硬い。 硬いのに、刃になりきらない。 刃になりきらないのは、“言えた”からだ。
おばさんは押し返さなかった。 押し返さないで、風呂敷の結び目をいちどだけ撫でた。
「いいのいいの。……返すんじゃなくてさ、受け取って」
受け取って。 その言葉が落ちた瞬間、父の喉がごくりと動いた。 動いて、止まる。 止まるとき、幹夫の胸がきゅっとなる。
きゅっとなったから、息。
――いき。
母が、父のほうを見ないまま、でも父へ届く声で言った。
「……受けとくと、向こうも楽になるだに」
向こうも楽になる。 それは、返した瓶のときの「軽い」と同じ匂いがした。
父は風呂敷を見て、見て、見て――それから、両手を出した。 出す手が少し震える。 震えるのに、逃げない。
「……じゃあ……」
言葉が途中でほどけた。 ほどけたところに、母が急いで結び目を作らない。 ただ、そこに息が入る。
父は、もう一度言い直した。
「……受ける。……ありがとう」
ありがとう。 父の口から出た「ありがとう」は、小さいのに、家の中の空気をいちど柔らかくした。 柔らかいと、息が入りやすい。
おばさんは大げさに笑わなかった。 大げさに笑うと刃になるのを知っている笑わなさで、ただ頷いた。
「うん。……少しずつでいいだよ」
少しずつ。 外の声でも、その言葉は刺さらずに座った。
おばさんが帰ると、戸口の外の光がまた静かになった。 静かになっても、今度は静かが怖くなかった。 静かの中に、父の「ありがとう」が残っていたからだ。
風呂敷包みは、ちゃぶ台の上に置かれた。 結び目がきゅっと固い。 固い結び目を見ると、父の指が少しだけ動く。 動いて止まる。 止まった「間」に、幹夫は息を入れた。
――いき。
母は結び目を急がずほどいた。 ほどく手つきが、縫い箱の前の手つきと同じ。 ほどけると、中から干し芋が出た。 薄い茶色。 少し白い粉がふわっと付いている。 甘い匂いが、やっと家の中へ広がった。
祖母が鍋の向こうから淡々と言った。
「受け取ったら、食え。食うのが礼だに」
礼。 難しい字の匂いがするのに、祖母の言い方は生活の匂いだった。
父は干し芋を一枚、指でつまんだ。 つまむ指が、昨日より少しだけ落ち着いている。 落ち着いていると、指が“ここ”にいるのが分かる。
父はそれを口へ運んで、ゆっくり噛んだ。 噛む音は小さい。 小さいのに、腹へ落ちる音。
「……甘ぇな」
甘ぇな。 どうでもいい話みたいで、どうでもいい話じゃなかった。 甘いと言えること。 甘いを受け取れること。 それが、今日の“受け”だった。
幹夫も一枚もらって噛んだ。 歯に少しくっつく。 くっつくと、舌が忙しい。 忙しいのに、嫌じゃない。 嫌じゃない忙しさは、生きてる忙しさだ。
父がぽつりと言った。
「……受け取るの、むずいな」
むずい。 むずい、と言えたことが、幹夫には嬉しかった。 むずいは、持てる形になるからだ。
母は返事を急がせない。 息をひとつ入れてから、低く言った。
「うん。……でも受け取ったら、減らん。増えるのもある」
増える。 昨日の「渡したら増える」につながる増える。 字が、道の上で手をつないだ。
昼前、母が新聞紙の裏を広げた。 竹を継いだ鉛筆を置く。 継ぎ目の硬さが、今日も頼もしい。
「幹夫。……今日はこれだに」
母がゆっくり書いた。
受
幹夫は、その字を見た瞬間、さっきの父の両手を思い出した。 出した手。 震えていた手。 震えているのに逃げなかった手。
母は上のほうを指でなぞった。
「ここ、手みたいだろ」
指先が、爫の形を撫でる。 撫でると、紙が少し鳴る。 さら、の音。
「手がな、上から来る」
次に、真ん中の冖をなぞる。
「ここは屋根みたい。包むみたい。落とさないための屋根だに」
落とさないための屋根。 落とさない、という言い方が、父の「投げねぇ。置く」と同じ匂いだった。
最後に、下の又をなぞった。 又は、手にも見えるし、足にも見える。 何かを受けて、持つ形。
「ここも手だに。……下から受ける手」
上の手と、下の手。 受は、手と手の間に屋根がある字。 屋根があると、落ちない。
母は少し間を置いて、息をひとつ入れた。
「受けるってのはな……落とさないってことだに。物も、声も、気持ちも」
物。 干し芋。 声。 父の「ありがとう」。 気持ち。 嬉しいのに怖い、の真ん中の気持ち。
父が新聞紙の「受」を見て、ぽつりと言った。
「……俺、受けると……申し訳ねぇって先に来る」
申し訳ねぇ。 その言葉は硬い。硬いのに刃じゃない。 言葉になったからだ。
母は否定しなかった。 息をひとつ入れて、低く言った。
「うん。……でもな、受けるときに“ありがとう”って言えたら、それでいい」
ありがとう。 さっき父が言えた言葉。 言えた言葉を、母がもう一度ここへ置いてくれる。
母は続けた。
「ありがとう、は返事だに。……返の字。受けたら、返す。声で返す」
返。 受。 字が続く。 続くと、道になる。
父はしばらく黙って、「受」の字を見ていた。 見て、目が少しだけ細くなる。 細くなると、光が丸くなる。丸い光は痛くない。
「……受け止める、って言うな」
父がぽつりと言った。 受け止める。 止の字が入っている。 止まって、受ける。 走らないための言葉だ。
母は一度だけ頷いた。
「うん。……止まって、少し。受ける」
歩。 受。 止まって少しが、またここに座った。
幹夫は鉛筆を握った。 竹の継ぎ目が掌に当たる。硬い。 硬いと、胸が走っても戻ってこられる気がする。
受を書く。 上の手。 屋根。 下の手。
一回目の「受」は、屋根が大きくなりすぎて、手が隠れた。 隠れると、受けるのに受けられない顔になる。 受けられない顔を見ると、胸がきゅっとする。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「屋根が大きくなったらな……手を出せばええ。受ける手、見せればええ」
受ける手を見せる。 父が両手を出したみたいに。 震えててもいい。 落とさなきゃいい。
幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。
――いき。
二回目の「受」は、手が少し見えた。 見えると、字が落ち着く。 落ち着くと、胸も少し落ち着く。
父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。
「……俺も、書く」
母が父を見て、頷いた。 頷きは許しになる。 許しがあると、手が伸びる。
父の「受」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 屋根の線が少し尖った。 尖るのに刺さらない。 刺さらないのは、その尖りが“落とさない”ための尖りだからだ。
最後のはねを書くとき、父の息がいちど止まって――止まった間に、幹夫は自分の息を入れた。
――いき。
父の「受」ができた。 少し歪んでいる。 歪んでいるのに、ちゃんと受の顔をしていた。 上の手と下の手が、屋根の下で会っている顔。
父は字を見て、ふっと息を吐いた。
「……受、って……手が二つあるんだな」
母は「うん」とだけ返した。 縫い箱の下の「うん」みたいな、折り目のある「うん」。
「受ける手と、支える手。……両方あると、落ちん」
支える手。 幹夫は、石を握っていた自分の手を見た。 握る手も、支える手だ。 息も、支える手だ。
母は「受」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、掌の上の干し芋みたいに見えた。
夕方、干し芋は残り少なくなっていた。 少なくなると、名残惜しい。 名残惜しいのに、取り合いにならない。 ならないのは、今日は“受け取った”がちゃんと残っているからだ。
父は最後の一枚を手に取って、半分に折った。 折ると、白い粉が少し落ちる。 落ちるのに、飛ばない。
父は半分を幹夫の皿へ置いた。 置く。投げない。 落とさない置き方。
「……受けろ」
受けろ、は命令みたいなのに、怖くなかった。 怖くないのは、そこに“渡す”が入っているからだ。
幹夫は石を握り直して、息をひとつ入れてから言った。
――いき。「……ありがとう」
自分の声が少し震えた。 震えるのに、刺さらない。 刺さらないのは、父のさっきの「ありがとう」を受け取って、返したからだ。
父は、ほんの少しだけ口の端を上げた。 笑いきれない上がり方。 でも今日は、その上がり方が昨日より丸い。
「……うん」
短い「うん」。 短いのに、ちゃんと返事だった。
夜。 灯りが落ちる前、父が縫い箱の前でいちど止まった。 止まる影が畳の上で揺れる。 揺れるのに、倒れない。
父は縫い箱を持ち上げなかった。 代わりに、干し芋の包み紙の端を小さく折って、箱の脇へそっと置いた。 甘い匂いが、まだ少し残っている紙。 残っている匂いは、受け取った証拠だ。
父は小さな紙片に、震える字で書いた。
> うけ
それだけ。 それだけなのに、幹夫の胸の奥がぽん、と鳴った。 鳴るのに、叫ばない。 叫ばない鳴り方は、「続き」の鳴り方だった。
寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に小さく足す。
> (とうちゃんへ も)
中に書く。
> うける って> て が ふたつ ある こと なんだね> きょう> とうちゃん が> ありがとう って いって> ぼく も> ありがとう って いえた> いき
最後に、小さく「受」。 丸をひとつ。 落とさないための丸。
紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは戸口の「こん、こん」の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。
翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、三つ重なっていた。
一枚目、母の字。
> うける は> おとさない ってこと> ことば も> きもち も> いき が やね> うん
最後に、小さな丸。
二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。
> みきぼう> きのう> うけとった> ありがとう いえた> すこし> ここ が あったかい
その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。
三枚目。 文字じゃなく――瓶の栓がひとつ。 昨日より、少しだけ磨かれている。 指で触ると、角が丸い。 回してみると、ゆら、ゆらの時間が、少しだけ長い。
幹夫は栓を掌にのせて、息をひとつ入れた。
――いき。
受けた。 受け取った。 落とさなかった。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、「ここがあったかい」という父の字は届いた。 届いた“あったかい”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、受ける手と支える手を、胸の中でそっと重ねていった。




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