受の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月19日
- 読了時間: 9分

朝の戸口に、控えめな影が立った。 影は鳴らない。 鳴らないのに、家の空気が一枚だけ、そっとめくれる。
とん、とん。
木を叩く音。 小さい音。 小さい音は眠る。
幹夫は縁側のふちで、首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。
――いき。
母が戸を開けると、清水屋のおばさんが立っていた。 味噌と干物の匂いが、外の風に混ざっている。
「おはようだに。昨日は回覧、助かったで」
おばさんの手には、小さな包み。 紙じゃなくて、布。 布はやさしい。 でも、布の中には“重さ”がある。
母が一瞬、受け取る前に止まった。 止まるとき、胸の中に線を引いている。
「そんな……ええよ。気にせんで」
“ええよ”は、返す言葉。 でも、おばさんは包みを引っ込めなかった。 引っ込めない手は、お願いの手だ。
「うちの干物の端っこだに。端っこでも、あると助かるだら。……受け取って」
受け取って。 その一言が、幹夫の胸の奥をぽん、と鳴らした。
ぽん。
鳴ったから、息。
――いき。
母の手が、前へ出そうになって、でも“掴む”手になりかけて止まった。 止まって、手の形が変わる。 受ける手。 置く手。
母は包みをいったん、戸口の板の上に置いた。 置いてから、両手でそっと持ち上げた。
とん。
小さい音。 小さい音は眠る。
「……ありがと。……いただく」
“いただく”は、受け取る言葉。 言えた瞬間、母の肩が少し落ちた。
清水屋のおばさんが、幹夫を見て笑った。
「みき坊が届けてくれたでな。……みき坊にも、ありがとう」
ありがとう。 ありがとうは、胸へ来る。 来ると、受ける場所がいる。
幹夫は照れそうになって、照れる前に息を入れた。
――いき。
「……はい」
小さい返事。 小さいのに、座っている返事。
おばさんが帰ると、戸口に残った匂いが、少しだけあたたかかった。 母は包みを台所へ運びながら言った。
「受け取るの、苦手だに、うち」
父が縁側の端からぽつりと言った。
「……俺も、だ」
父の“だ”は短い。 短いのに、胸の奥に届く。
幹夫は袋を押さえて、息。
――いき。
「……返さなきゃ、って思う」
母が頷いた。
「うん。……返したくなる。けどな、今すぐ返そうとすると、相手の『あげたい』を切ってしまうだに」
切ってしまう。 切るのは終いの匂い。
父がま札を指で撫でて、ふう、と吐いた。
ふう……。
「……受け取るのも……仕事だな。……宙ぶらりんにしない」
宙ぶらりん。 先生が言っていた。 返事がないと、声が宙ぶらりんになる。 受け取らないと、気持ちも宙ぶらりんになる。
幹夫の胸がぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
学校の教室は、チョークの粉の匂いがした。 乾いた匂い。 乾いた匂いは、手を早くさせる日がある。
先生が黒板に、大きく字を書いた。
受
きゅっ、きゅっ。
「今日は“うける”の受。読めるな」
教室が声を出す。
「うける!」
声が集まると、胸が忙しくなる。 幹夫は机の端に指を置いて、“ここ”を作った。
――いき。
先生が言った。
「受けるってのはな、もらうことだ。だけど、“奪う”のとは違う。相手の手から、自分の手へ――落とさないように渡すことだ」
落とさないように。 届く、の匂い。
先生は教卓の上に、消しゴムを置いた。 白い消しゴム。 白いのに刺さらない。
「見るぞ」
先生は消しゴムを、ひょい、と放った。 前の列の子が慌てて掴もうとして、ぽろり、と落とす。
ころん。
床で転がる音。 転がる音は小さいのに、胸がきゅっとなる。
先生が言った。
「掴むと落ちる。手が硬いからだ。――受けるときは、手を“柔らかく”しろ」
先生はもう一度、消しゴムを放った。 今度は、掌を広げた子が、ふわっと受け止めた。 掴んでない。 落ちてもいない。
「ほら。受けるってのは、柔らかい。受ける側が柔らかいと、物も言葉も痛くならない」
痛くならない。 刺さらない。
先生は黒板の字をとん、と叩いた。
「受はな、上にも手、下にも手がある。真ん中に屋根みたいな形があって、その下で受ける。――つまり、受けるには“場所”がいる。受ける場所を作れ」
場所。 門の中の光。 間。 線。 全部が、胸の中でひとつにつながった。
先生が続けた。
「それからな、もう一つ大事なのは――謝られたら、受け取れ。ありがとうを言われたら、受け取れ。受け取らないと、相手の言葉が宙ぶらりんになる」
宙ぶらりん。 朝の父の言葉が、ぴたりと重なった。
幹夫の胸が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
そのとき、隣の席の佐太郎が、小さな声で言った。
「……みきお、昨日さ……廊下でぶつかった」
ぶつかった。 ぶつかると、痛い。 でも佐太郎の声は尖っていない。 尖っていないのは、謝りたい声だ。
幹夫は、すぐ「いいよ」と言いそうになって――止まった。 “いいよ”を先に言うと、相手の謝りが宙ぶらりんになることがある。
止まった「間」に、息。
――いき。
佐太郎が続けた。
「……ごめん」
ごめん。 ごめんは、渡された言葉。 受け取る場所がいる。
幹夫は、胸の中に小さな屋根を作ってから、言った。
「……うん。……聞いた。……受け取った」
受け取った。 自分から言うと、少し照れる。 でも言えた瞬間、佐太郎の肩がすとん、と落ちた。
「……ありがとう」
ありがとう。 今度は、幹夫が受け取る番。
幹夫は息をひとつ入れて、小さく頷いた。
――いき。
「……うん」
その“うん”が、机の上で座った。 刺さらない。
後ろの席の正夫が、にっと笑って小声で言った。
「みきぼー、受け取るの上手!」
上手。 上手はうれしい。 うれしいと走りそうになるから、息。
――いき。
「……ま、した」
正夫が頷く。
「受け取る前のま!」
帰り道、踏切が鳴った。
カン、カン、カン。
幹夫は鐘と鐘のあいだを見つけて、息を入れた。
カン、……(いき)……カン、……(いき)……
音を受け取る。 全部じゃない。 間だけ受け取る。 それだけで、胸は走らない。
――いき。
家の戸口で、母が待っていた。 待つ顔。 待つ顔は、門の中の光。
「おかえり。……今日、何書いた」
幹夫は靴を揃えて、いちど止まってから答えた。
――いき。
「……受」
母が頷く。
「受け取る、だに。……ほら、今日の干物も“受”だに」
台所の皿の上に、干物の端っこが並んでいた。 端っこでも、ちゃんと匂いがある。 匂いがあると、腹の中が少しあたたまる。
父が縁側から顔を出して、ぽつり。
「……受け取ったか」
幹夫は頷く前に息を入れた。
――いき。
「……うん。……佐太郎の“ごめん”、受け取った」
父の眉が少しだけ上がって、それから戻った。 戻る眉は柔らかい。
ふう……。
「……それ、強いな」
強い。 父の強いは、殴らない強さ。
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「受け取れ。……受け取らんと腹が荒れる。荒れると手が出る」
手が出る。 手が出る前に、受ける手。
夜。 飯の匂いが家の奥へ落ち着いたころ。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆。 白い継ぎ目は、今日もそこにある。 でも痛くない。
「幹夫。……今日はこれだに」
母がゆっくり書いた。
受
幹夫はその字を見た瞬間、清水屋のおばさんの布包みと、先生の消しゴムと、佐太郎の「ごめん」が一緒に浮かんだ。
母は字の上を指でなぞった。
「ここ、手みたいだに。……上の手」
母は字の下をなぞった。
「ここも手だに。……下の手」
母は真ん中をなぞって言った。
「真ん中はな、屋根みたいに見えるだに。……屋根の下で、手が受ける。受けるには、場所が要る。場所がないと、落ちる。刺さる」
刺さる。 受ける場所がないと、言葉も刺さる。
母は息をひとつ入れてから、低く言った。
「受け取るってのはな……掴むんじゃなく、両手で“置く場所”を作って受けることだに。謝りも、ありがとうも、もんも、端っこも。……受け取れば宙ぶらりんが座る。座れば次ができる」
父がま札を指で撫でて、ぽつりと言った。
「……俺、受け取るの……怖かった」
母は否定しない。 低く言った。
「うん。……受け取ると、借りができるって思うでな。でもな、借りじゃないだに。結び目だに。受け取って、いつか返せばええ。返せんでも、ありがとう言えばええ。……受け取るのは、つながる入口だに」
つながる入口。 結の匂い。
父が小さく息を吐いた。
ふう……。
「……今日、清水屋の……端っこ、受け取った。……腹が、ほっとした」
ほっとした。 その言葉が出ると、家の中が少し明るい。
幹夫の胸が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
幹夫は鉛筆を握った。 受を書く。
一回目の「受」は、上の手が尖って、字が少し掴みたがる顔になった。 掴みたがると、落ちる。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「掴みそうならな……手を丸く書け。丸い手は刺さらん。……息、入れてから」
幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。
――いき。
二回目の「受」は、手が少し丸くなって、屋根の下に場所ができた。 場所ができると、受ける字になる。
父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。
「……俺も、書く」
父の「受」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 最後の点を置く前に、父は一度止まって――息を吐いた。
ふう……。
吐いてから、点を置いた。
「……点、置くと……手が“受け止めた”って感じするな」
母が小さく頷いた。
「うん。……受け止めたら、夜が短いだに」
夜更け。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、震える字で書いた。
あさしみずや の つつみうけとったこわい と おもった けどほっと したがっこうみきぼう「ごめん」 をうけとったそれ がつよい受て と てやね の したばしょ を つくるいき
父がぽつりと言った。
「……みき坊。……受け取るの、こわい日もある」
幹夫は頷く前に息を入れた。
――いき。
「……うん。……でも、場所を作れば……落ちない」
父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。
ふう……。
「……落ちない、って……好きだ」
母の低い声が、暗い中で落ちた。
「好きって言えりゃ受け取れただに。……受け取ると、胸が座る」
祖母が淡々と言う。
「座れりゃ飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」
また明日。 受け取って続く明日。
幹夫は袋を押さえて、口の中で小さく言った。
――いき。
翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、三つ重なっていた。
一枚目、母の字。
受 はて と てばしょ を つくってうけとるつかむなま を いれろうん
最後に、小さな丸。
二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。
みきぼうきのう「ごめん」 をうけとった のえらいおれ もつつみうけとった受 って じすこしおれ の むねひらくありがとう
その下に、丸がひとつ。
三枚目。 文字じゃなく――小さな布の端切れ。 干物の包みに使った布の端っこ。 角が丸く折ってあって、刺さらない。 布の端に、父の震える字で小さく、
うけとった
と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。
幹夫はその布を掌にのせて、息をひとつ入れた。
――いき。
受け取る。 掴むんじゃなく、場所を作って受ける。 謝りも、ありがとうも、端っこも、息も。 受け取れば宙ぶらりんが座って、次へ行ける。
蒲原に、サイレンは届かなかった。 けれど今日、布包みの端っこは届いて、家の中でちゃんと“受け取られた”。 受け取った温度を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、刺さらない受け方を、そっと胸の中に座らせていった。





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