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受の字

 朝の戸口に、控えめな影が立った。 影は鳴らない。 鳴らないのに、家の空気が一枚だけ、そっとめくれる。

 とん、とん。

 木を叩く音。 小さい音。 小さい音は眠る。

 幹夫は縁側のふちで、首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。

 ――いき。

 母が戸を開けると、清水屋のおばさんが立っていた。 味噌と干物の匂いが、外の風に混ざっている。

「おはようだに。昨日は回覧、助かったで」

 おばさんの手には、小さな包み。 紙じゃなくて、布。 布はやさしい。 でも、布の中には“重さ”がある。

 母が一瞬、受け取る前に止まった。 止まるとき、胸の中に線を引いている。

「そんな……ええよ。気にせんで」

 “ええよ”は、返す言葉。 でも、おばさんは包みを引っ込めなかった。 引っ込めない手は、お願いの手だ。

「うちの干物の端っこだに。端っこでも、あると助かるだら。……受け取って」

 受け取って。 その一言が、幹夫の胸の奥をぽん、と鳴らした。

 ぽん。

 鳴ったから、息。

 ――いき。

 母の手が、前へ出そうになって、でも“掴む”手になりかけて止まった。 止まって、手の形が変わる。 受ける手。 置く手。

 母は包みをいったん、戸口の板の上に置いた。 置いてから、両手でそっと持ち上げた。

 とん。

 小さい音。 小さい音は眠る。

「……ありがと。……いただく」

 “いただく”は、受け取る言葉。 言えた瞬間、母の肩が少し落ちた。

 清水屋のおばさんが、幹夫を見て笑った。

「みき坊が届けてくれたでな。……みき坊にも、ありがとう」

 ありがとう。 ありがとうは、胸へ来る。 来ると、受ける場所がいる。

 幹夫は照れそうになって、照れる前に息を入れた。

 ――いき。

「……はい」

 小さい返事。 小さいのに、座っている返事。

 おばさんが帰ると、戸口に残った匂いが、少しだけあたたかかった。 母は包みを台所へ運びながら言った。

「受け取るの、苦手だに、うち」

 父が縁側の端からぽつりと言った。

「……俺も、だ」

 父の“だ”は短い。 短いのに、胸の奥に届く。

 幹夫は袋を押さえて、息。

 ――いき。

「……返さなきゃ、って思う」

 母が頷いた。

「うん。……返したくなる。けどな、今すぐ返そうとすると、相手の『あげたい』を切ってしまうだに」

 切ってしまう。 切るのは終いの匂い。

 父がま札を指で撫でて、ふう、と吐いた。

 ふう……。

「……受け取るのも……仕事だな。……宙ぶらりんにしない」

 宙ぶらりん。 先生が言っていた。 返事がないと、声が宙ぶらりんになる。 受け取らないと、気持ちも宙ぶらりんになる。

 幹夫の胸がぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 学校の教室は、チョークの粉の匂いがした。 乾いた匂い。 乾いた匂いは、手を早くさせる日がある。

 先生が黒板に、大きく字を書いた。

 

 きゅっ、きゅっ。

「今日は“うける”の受。読めるな」

 教室が声を出す。

「うける!」

 声が集まると、胸が忙しくなる。 幹夫は机の端に指を置いて、“ここ”を作った。

 ――いき。

 先生が言った。

「受けるってのはな、もらうことだ。だけど、“奪う”のとは違う。相手の手から、自分の手へ――落とさないように渡すことだ」

 落とさないように。 届く、の匂い。

 先生は教卓の上に、消しゴムを置いた。 白い消しゴム。 白いのに刺さらない。

「見るぞ」

 先生は消しゴムを、ひょい、と放った。 前の列の子が慌てて掴もうとして、ぽろり、と落とす。

 ころん。

 床で転がる音。 転がる音は小さいのに、胸がきゅっとなる。

 先生が言った。

「掴むと落ちる。手が硬いからだ。――受けるときは、手を“柔らかく”しろ」

 先生はもう一度、消しゴムを放った。 今度は、掌を広げた子が、ふわっと受け止めた。 掴んでない。 落ちてもいない。

「ほら。受けるってのは、柔らかい。受ける側が柔らかいと、物も言葉も痛くならない」

 痛くならない。 刺さらない。

 先生は黒板の字をとん、と叩いた。

「受はな、上にも手、下にも手がある。真ん中に屋根みたいな形があって、その下で受ける。――つまり、受けるには“場所”がいる。受ける場所を作れ」

 場所。 門の中の光。 間。 線。 全部が、胸の中でひとつにつながった。

 先生が続けた。

「それからな、もう一つ大事なのは――謝られたら、受け取れ。ありがとうを言われたら、受け取れ。受け取らないと、相手の言葉が宙ぶらりんになる」

 宙ぶらりん。 朝の父の言葉が、ぴたりと重なった。

 幹夫の胸が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 そのとき、隣の席の佐太郎が、小さな声で言った。

「……みきお、昨日さ……廊下でぶつかった」

 ぶつかった。 ぶつかると、痛い。 でも佐太郎の声は尖っていない。 尖っていないのは、謝りたい声だ。

 幹夫は、すぐ「いいよ」と言いそうになって――止まった。 “いいよ”を先に言うと、相手の謝りが宙ぶらりんになることがある。

 止まった「間」に、息。

 ――いき。

 佐太郎が続けた。

「……ごめん」

 ごめん。 ごめんは、渡された言葉。 受け取る場所がいる。

 幹夫は、胸の中に小さな屋根を作ってから、言った。

「……うん。……聞いた。……受け取った」

 受け取った。 自分から言うと、少し照れる。 でも言えた瞬間、佐太郎の肩がすとん、と落ちた。

「……ありがとう」

 ありがとう。 今度は、幹夫が受け取る番。

 幹夫は息をひとつ入れて、小さく頷いた。

 ――いき。

「……うん」

 その“うん”が、机の上で座った。 刺さらない。

 後ろの席の正夫が、にっと笑って小声で言った。

「みきぼー、受け取るの上手!」

 上手。 上手はうれしい。 うれしいと走りそうになるから、息。

 ――いき。

「……ま、した」

 正夫が頷く。

「受け取る前のま!」

 帰り道、踏切が鳴った。

 カン、カン、カン。

 幹夫は鐘と鐘のあいだを見つけて、息を入れた。

 カン、……(いき)……カン、……(いき)……

 音を受け取る。 全部じゃない。 間だけ受け取る。 それだけで、胸は走らない。

 ――いき。

 家の戸口で、母が待っていた。 待つ顔。 待つ顔は、門の中の光。

「おかえり。……今日、何書いた」

 幹夫は靴を揃えて、いちど止まってから答えた。

 ――いき。

「……受」

 母が頷く。

「受け取る、だに。……ほら、今日の干物も“受”だに」

 台所の皿の上に、干物の端っこが並んでいた。 端っこでも、ちゃんと匂いがある。 匂いがあると、腹の中が少しあたたまる。

 父が縁側から顔を出して、ぽつり。

「……受け取ったか」

 幹夫は頷く前に息を入れた。

 ――いき。

「……うん。……佐太郎の“ごめん”、受け取った」

 父の眉が少しだけ上がって、それから戻った。 戻る眉は柔らかい。

 ふう……。

「……それ、強いな」

 強い。 父の強いは、殴らない強さ。

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「受け取れ。……受け取らんと腹が荒れる。荒れると手が出る」

 手が出る。 手が出る前に、受ける手。

 夜。 飯の匂いが家の奥へ落ち着いたころ。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆。 白い継ぎ目は、今日もそこにある。 でも痛くない。

「幹夫。……今日はこれだに」

 母がゆっくり書いた。

 受

 幹夫はその字を見た瞬間、清水屋のおばさんの布包みと、先生の消しゴムと、佐太郎の「ごめん」が一緒に浮かんだ。

 母は字の上を指でなぞった。

「ここ、手みたいだに。……上の手」

 母は字の下をなぞった。

「ここも手だに。……下の手」

 母は真ん中をなぞって言った。

「真ん中はな、屋根みたいに見えるだに。……屋根の下で、手が受ける。受けるには、場所が要る。場所がないと、落ちる。刺さる」

 刺さる。 受ける場所がないと、言葉も刺さる。

 母は息をひとつ入れてから、低く言った。

「受け取るってのはな……掴むんじゃなく、両手で“置く場所”を作って受けることだに。謝りも、ありがとうも、もんも、端っこも。……受け取れば宙ぶらりんが座る。座れば次ができる」

 父がま札を指で撫でて、ぽつりと言った。

「……俺、受け取るの……怖かった」

 母は否定しない。 低く言った。

「うん。……受け取ると、借りができるって思うでな。でもな、借りじゃないだに。結び目だに。受け取って、いつか返せばええ。返せんでも、ありがとう言えばええ。……受け取るのは、つながる入口だに」

 つながる入口。 結の匂い。

 父が小さく息を吐いた。

 ふう……。

「……今日、清水屋の……端っこ、受け取った。……腹が、ほっとした」

 ほっとした。 その言葉が出ると、家の中が少し明るい。

 幹夫の胸が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 幹夫は鉛筆を握った。 受を書く。

 一回目の「受」は、上の手が尖って、字が少し掴みたがる顔になった。 掴みたがると、落ちる。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「掴みそうならな……手を丸く書け。丸い手は刺さらん。……息、入れてから」

 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。

 ――いき。

 二回目の「受」は、手が少し丸くなって、屋根の下に場所ができた。 場所ができると、受ける字になる。

 父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 父の「受」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 最後の点を置く前に、父は一度止まって――息を吐いた。

 ふう……。

 吐いてから、点を置いた。

「……点、置くと……手が“受け止めた”って感じするな」

 母が小さく頷いた。

「うん。……受け止めたら、夜が短いだに」

 夜更け。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、震える字で書いた。

あさしみずや の つつみうけとったこわい と おもった けどほっと したがっこうみきぼう「ごめん」 をうけとったそれ がつよい受て と てやね の したばしょ を つくるいき

 父がぽつりと言った。

「……みき坊。……受け取るの、こわい日もある」

 幹夫は頷く前に息を入れた。

 ――いき。

「……うん。……でも、場所を作れば……落ちない」

 父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。

 ふう……。

「……落ちない、って……好きだ」

 母の低い声が、暗い中で落ちた。

「好きって言えりゃ受け取れただに。……受け取ると、胸が座る」

 祖母が淡々と言う。

「座れりゃ飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」

 また明日。 受け取って続く明日。

 幹夫は袋を押さえて、口の中で小さく言った。

 ――いき。

 翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、三つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

受 はて と てばしょ を つくってうけとるつかむなま を いれろうん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

みきぼうきのう「ごめん」 をうけとった のえらいおれ もつつみうけとった受 って じすこしおれ の むねひらくありがとう

 その下に、丸がひとつ。

 三枚目。 文字じゃなく――小さな布の端切れ。 干物の包みに使った布の端っこ。 角が丸く折ってあって、刺さらない。 布の端に、父の震える字で小さく、

うけとった

 と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。

 幹夫はその布を掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 受け取る。 掴むんじゃなく、場所を作って受ける。 謝りも、ありがとうも、端っこも、息も。 受け取れば宙ぶらりんが座って、次へ行ける。

 蒲原に、サイレンは届かなかった。 けれど今日、布包みの端っこは届いて、家の中でちゃんと“受け取られた”。 受け取った温度を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、刺さらない受け方を、そっと胸の中に座らせていった。

 
 
 

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