名の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月6日
- 読了時間: 6分

面会の翌朝、母はまず、机を拭いた。 拭き終わっても、また拭いた。 濡れ布巾の跡が乾いていくのを見ていると、胸の中の波もいっしょに引いていく気がするのだろう、と幹夫は思った。
ちゃぶ台の上に広げられたのは、役場の紙だった。 薄いのに硬い紙。角がぴしっとしていて、字がまっすぐで、紙が「役目」の顔をしている。
その横に、返信用封筒。 小さくて、軽くて、いちばん飛びそうな紙。
母は紙の端を揃えて、上着のポケットから――幹夫の丸い石を出して、そっと乗せた。 石は冷たかった。 冷たいのに、そこだけ落ち着く冷たさだった。
「……借りるでな」
母が小さく言った。 幹夫は頷いた。 石が紙を押さえるのを見ているだけで、胸の中の警報が丸く鳴った。
母は控え帳を開き、昨日のことを確かめるみたいに、面会の紙の端を一度なぞった。 なぞって、息をひとつ入れてから、鉛筆を取る。 竹を継いだ鉛筆。 継ぎ目を越える指の動きが、いつもより少しだけ遅い。
紙の上に、枠が並んでいる。
住所 氏名 続柄 本人との関係
幹夫は「氏名」という二文字を見て、喉の奥がきゅっとなった。 あの部屋で聞こえた「みき坊」が、胸の奥でまた鳴ったからだ。
母は住所を書いた。 筆圧が落ち着いている。 次に「氏名」の枠へ鉛筆が来ると、そこだけ線が一瞬、細くなる。細くなるのは、怖いからだ。怖いのに、書くからだ。
母は、自分の名前を書いた。 字がまっすぐで、畳の目みたいに揃っている。 揃っているのに、最後の一画だけが少し震えた。
それから、母の手が止まった。 止まったまま、石をいちど見た。 石は何も言わない。 何も言わないのに、「落ち着け」と言っているみたいな重さだった。
母は息をひとつ入れて、次の枠へ、ゆっくり字を書き始めた。 幹夫には、その字が何か分かる前に、母の喉が小さく動くのが見えた。 声にならない動き。 声にしたら崩れるものを、喉の中で畳んでいる動き。
書き終えてから、母はその二文字を、指でそっとなぞった。 撫でるみたいに。 撫でるのに、強く押さえない。 落ちないように、落とさないように。
幹夫は、思わず聞いてしまった。
「……母ちゃん。いま書いたの、父ちゃんの、名まえ?」
母はすぐ答えず、紙を裏返して、また戻した。 戻す動きが、返し縫いみたいだった。 戻って、整えて、進む。
「うん」
母の「うん」は短いのに、重かった。 重いのに、刃じゃない。 その重さは、石に近かった。
幹夫は「氏名」の二文字を見た。 名前。 父ちゃんの名前。 呼んだら、どこかで振り向くかもしれない名前。 でも呼んだら、また紙が増える名前。
「名まえって……なんで、あるの」
幹夫が言うと、母は鉛筆を置いて、新聞紙の裏を一枚、そっと引き寄せた。 真っ白じゃない白。 この白の上なら、言葉が転んでも大丈夫な気がした。
母はゆっくり書いた。
名
「これが、名まえの“名”」
幹夫は目をこらした。 下に「口」。 上に「夕」。 夕は、日が沈みかけるときの字だ。
母は上の「夕」を指でなぞった。
「夕方になると、暗くなるだろ」
次に下の「口」。
「暗いとき、顔が見えんとき……声で呼ぶ。口で呼ぶ」
母は、少しだけ間を置いた。 間の中に、昨日の面会室の白さが入り込んだ気がして、幹夫の胸がきゅっとした。
「暗いときでも、迷子にならんように。……だから、名」
迷子にならんように。 その言い方が、胸にすとんと落ちた。 父ちゃんが迷子になっていたわけじゃない。 でも、家族のほうが、長いこと迷子になっていた。
母は、新聞紙の「名」の横に、小さくひらがなを書いた。
> なまえ
ひらがなは柔らかい。 柔らかいから、今は助かる。
幹夫は、昨日の声を思い出した。 「みき坊」。 暗い部屋じゃなかったのに、あの二文字は暗さの中から聞こえたみたいだった。 ずっと見えなかったものが、声でだけ見えた、みたいに。
「……父ちゃん、ぼくの名まえ、言ったね」
幹夫が言うと、母は一度だけ頷いた。 頷きは返事になる。
「うん。……呼んでくれた」
呼んでくれた。 その言葉だけで、幹夫の胸の奥が熱くなった。 熱いのに、泣く熱さじゃない。 熱いのに、息ができる熱さだった。
昼前、空っぽの袖の男が戸口に来た。 今日は帽子をかぶっていない。頭が少し光っていて、日が強いのが分かる。
「返す紙、書いとるか」
男はそう言って、ちゃぶ台の上の「氏名」の枠に目を落とした。 そこにある母の字――父の名前。 男の目が、その字の上で一瞬だけ止まった。
「……久しぶりに見たな」
男がぽつりと言った。 久しぶりに見た、という言い方が、少しだけ不思議だった。 名前は紙の上のものなのに、見た、で言う。 見える形になると、胸の中のものも形になるのかもしれない。
母は「うん」とだけ答えた。 その「うん」は、縫い箱の下の「うん」みたいだった。 預かる「うん」。
男は少し咳払いをして、幹夫のほうを見た。
「昨日な……“みき坊”って言うたろ」
幹夫は頷いた。頷いたら、胸の奥がまた熱くなる。
「俺ぁあれで、分かった」
男は言って、少し笑った。笑いきれない笑いじゃなくて、今日はほんの少しだけほどけた笑いだった。
「名ぁ、残るでな。人が消えても、呼び方は残る」
残る。 母がずっと言ってきた言葉。 控え。折り目。丸。棒。 それと同じ場所に、呼び方も座っている。
祖母が台所から言った。
「名ぁ、呼ぶもんだ。紙に書くのは……呼びつづけるためだ」
祖母の声は淡々としているのに、そこだけ強かった。 呼びつづけるため。 それは、泣かないためじゃなく、生活を続けるための強さだった。
母は返信用封筒を手に取って、指で端を整えた。 整えて、折り目をつける。 折り目をつけると、封筒は飛ばない顔になる。
「これ、出すでな」
母が言った。 出す。 また、暗い口へ歩かせる。
幹夫は石を見た。 石は、母の紙の上でじっとしている。 じっとしているから、束が散らばらない。 散らばらないと、名まえも散らばらない。
夕方、母は封筒を閉じる前に、もう一度だけ「氏名」の枠を見た。 見て、息をひとつ入れてから、封筒の表に宛名を書いた。 宛名の線はまっすぐだった。 まっすぐであるほど、怖さが混じる。迷ったら飛ぶからだ。
幹夫はその横で、自分の帳面を開いた。 白い綴じ糸の結び目。ほどけない白。 鉛筆を握り、「名」を真似して書いてみた。
夕。 口。
一回目の「名」は、夕が大きすぎて、口が小さくなった。 小さい口は、声が出なさそうだった。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「名ぁな……大きくても小さくても、呼べりゃええ」
呼べりゃええ。 その言い方が、幹夫の胸を少し軽くした。 軽くなるのに、飛ばない軽さ。
二回目の「名」は、口が少し落ち着いた。 落ち着くと、声が座る。
幹夫は、帳面の隅にひらがなで書いた。
> みきぼう
それから、もう一度だけ「名」を置いた。 名は、呼び方の入れ物みたいだ、と幹夫は思った。
母は「名」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 消す丸じゃない。受け取る丸でもない。 ただ、「ここまで」の丸。
夜。 縫い箱の下に差し込む紙には、今日は短くした。 宛名に「おかあちゃんへ」。
> なまえって > くらくても よべるんだね > みきぼう って よばれたの あったかい
最後に、小さく「名」。 丸をひとつ。 声が飛ばないように置く丸。
紙を折り畳んで差し込むと、指先が少し震えた。 震えは恥ずかしさと、熱い胸の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。
翌朝、縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、母の字だった。
> なまえ は > くらいときの て > よばれたら > もどれる > うん
最後に、小さな丸。
幹夫は紙を胸に当てた。 紙が体温を吸って、少しだけしなる。 しなる音が、返事の音に聞こえた。
名まえは、暗いときの手。 呼ばれたら、戻れる。 戻れる場所があるなら、まだ、は息をできる。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど、「みき坊」という呼び方は届いた。 届いた呼び方は、紙よりも先に、幹夫の胸の奥でほどけない結び目になっていた。




コメント