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名の字

 夕方の蒲原は、声がいちど低くなる。 日が沈みかけると、海の青が黒に寄って、道の端っこが見えにくくなる。 見えにくくなると、人は声を伸ばす。 伸ばして、角を丸くして、家々の軒先に触らせてから、相手まで届かせる。

「……みっちゃん、帰るぞー」

 どこかの父親の声。 呼ぶ声は、命令みたいなのに、どこかあたたかい。 あたたかいのに、ちゃんと遠い。 遠いから、迷子にならずにすむ。

 幹夫は縁側に座って、その声を聞いていた。 聞いているだけで、胸の奥がすこし落ち着く。 名前は、見えないときの手すりみたいだと思った。

 隣で、父が小さな木の舟を指で転がしていた。 腹が丸い舟。 丸い腹は、沈みにくい。 沈みにくいものを見ると、胸の中の「走りそう」が少しだけ遅くなる。

 父は舟を転がすのをやめて、路地のほうを見た。 夕方の声が、もういちど伸びる。

「……さかなぁ――」

 その声の伸び方を、父はじっと見ているみたいだった。 見ているのに、目が遠くならない。 今の「見てる」は、ここにいる見てるだ。

 幹夫は、上着のポケットの石を握った。 丸い石。冷たい。重い。 重いのに痛くない。 角がない重さは、夕方の薄暗さを刺さらなくする。

 父が、ぽつりと言った。

「……夕方は、名前が要るな」

 名前。 その一言が落ちた瞬間、幹夫の胸の奥がぽん、と鳴った。 鳴るのに、叫ばない。叫ばない鳴り方は、続きの鳴り方だ。

 幹夫は返事を探して、見つからなくて――息だけ入れた。

 ――いき。

 父は、しばらく沈黙して、それから小さく続けた。

「……暗いと、顔が見えねぇ。……だから、呼ぶ」

 呼ぶ。 呼ぶと、そこにいる。 呼ぶと、戻る道ができる。

 幹夫の喉の奥が熱くなった。 熱いのに、息ができる熱さだった。

 夕飯の支度の匂いが濃くなるころ、母が台所から顔を出した。 驚きを刃にしない顔で、低く言う。

「幹夫、手ぇ洗ってこい」

 幹夫。 母はいつも幹夫を呼ぶ。 呼び方が暮らしの中にある。

 幹夫は「うん」と言いかけて、ふと父のほうを見た。 父は、母の声に肩を揺らさないでいた。 揺らさないで、ただ、口の端をほんの少し動かした。

 そして、父が言った。

「……幹夫」

 幹夫。 父の口から、ちゃんとその二文字の音が出た。 みき坊、じゃない。 幹夫、という名そのまま。

 その瞬間、幹夫の胸の奥が、ぽん、じゃ足りなくて、ぽん、ぽん、と二回鳴った。 二回鳴ると、嬉しさが走りそうになる。 走りそうになったから、幹夫は石を握って、息をひとつ入れた。

 ――いき。

「……うん」

 返事は小さかった。 小さいのに、父の目が少しだけ細くなった。 細くなると、光が丸くなる。丸い光は痛くない。

 父が照れたみたいに言った。

「……呼べた」

 呼べた。 それだけ。 それだけなのに、幹夫は胸の奥が熱くて、目の奥が少しだけ痛かった。 痛いのに、嫌じゃない。 嫌じゃない痛さは、ほどける手前の痛さだ。

 夜、灯りが落ちる前。 祖母が鍋を下ろす音がして、母が布巾を絞る音がして、家は静かに「寝る支度」の顔になった。

 父は布団の前でいちど止まって、喉元を指で押さえた。 押さえる指は、強すぎない。 強すぎないのに、落とさない指。

「……向こうじゃ、名前、呼ばれんかった」

 ぽつり。 その言葉は硬いのに、刃じゃなかった。 硬い言葉を、父が家の中へ置けたからだ。

 母はすぐ包まなかった。 息をひとつ入れてから、低く言った。

「うん」

 預かる「うん」。

 父は続けた。

「……番号で呼ばれると……自分が、薄くなる」

 薄くなる。 幹夫は胸がきゅっとした。 薄くなるのは怖い。 怖いから、息。

 ――いき。

 母は、声を急がせない。

「薄くなったら、濃くすりゃええ。……ここで」

 ここで。 その二文字は、畳の匂いがする。

 父は、何か言いかけて、言葉を飲んだ。 飲んだところで、母が静かに言った。

「今夜も、呼ぶだに。……呼ばれたら、戻る」

 呼ばれたら戻る。 それは、舟の戻る腹みたいな言い方だった。

 幹夫は布団に入って、石を握った。 冷たい。重い。 重いのに痛くない。 角がない重さが、暗い中の手すりになる。

 ――いき。

 それだけで、夜は夜のままでいられた。

 翌朝。 母は新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆を置く。 継ぎ目の硬さが、今日も頼もしい。

「幹夫。……今日はこれだに」

 母がゆっくり書いた。

 名

 幹夫は、その字を見た瞬間、昨日の夕方を思い出した。 暗い。 顔が見えない。 だから、呼ぶ。

 母は指で上をなぞった。

「これ、夕(ゆう)だに。暗くなるほう」

 次に下をなぞった。

「こっちは口。……声が出るとこ」

 夕と口。 暗いときの口。 見えないときの声。

 母は少し間を置いて、息をひとつ入れた。

「名ってのはな……暗いとき、口で呼んで、相手を見つける字だに」

 幹夫の胸の奥が、すとん、と座った。 名前は、夜の道しるべ。 声は、暗いところの灯り。

 父が「名」を見て、ぽつりと言った。

「……だから、夕方に要るんだな」

 母は一度だけ頷いた。

「うん。……呼ぶってのは、渡すってことだに。声を渡す。名を渡す」

 渡す。 昨日の字が、今日に繋がる。 字が道になっていく。

 幹夫は鉛筆を握った。 夕を書く。 口を書く。 一回目の「名」は、夕が大きくなりすぎて、口が小さくなった。 暗さが大きいと、声が出にくい顔になる。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「夕が大きくなったらな……口を太らせりゃええ。声のほう、残す」

 声を残す。 残ると、戻れる。

 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。

 ――いき。

 二回目の「名」は、口が少しだけ座った。 座ると、字が「呼べる顔」になる。

 父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 母が父を見て、頷いた。 頷きは許しになる。 許しがあると、手が伸びる。

 父の「名」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 夕の払いが少し尖って、口が少し歪んだ。 歪んでいるのに、刺さらない。 刺さらないのは、そこに「呼ぼう」が入っているからだ。

 父は書き終えると、ふっと息を吐いた。 軽い息。 軽いのに、笑いじゃない。 軽い息は「ここまで」の息。

「……名、って字……俺、好きだな」

 好き。 父の口から出る「好き」は、まだ珍しい。 珍しいのに、押しつけない好きだった。

 そして父は、新聞紙の端にもう一つ、ゆっくり書いた。

 幹夫

 幹の線が少し揺れて、夫の最後が少し尖った。 尖るのに刺さらない。 刺さらないのは、その尖りが「落とす尖り」じゃなく、「置く尖り」だからだ。

 幹夫の喉の奥が熱くなった。 熱くなりすぎて、息が浅くなりそうだったから、石を握って息をひとつ入れた。

 ――いき。

「……これ、ぼく?」

 幹夫が小さく聞くと、父は少し照れたみたいに鼻の下を擦った。

「……おまえさんの名だ。……紙に置いとくと、逃げん」

 逃げん。 その言い方が、縫い箱の下の紙の匂いと同じだった。

 母は「名」と「幹夫」の横に、小さな丸をひとつずつ描いた。 丸は、ここまでの丸。 刺さらないための丸。

 夜。 父の息が一度だけ早くなった。 布団が擦れて、肩が上がる気配。

 幹夫の胸の中の警報がきゅっと鳴る。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 母の低い声が、暗い中で落ちた。

「……ここだに」

 少し間。 父の声が、布団の中から漏れた。

「……幹夫……」

 呼び間違いじゃない。 幹夫の名が、父の口から出た。 自分が呼ばれているのに、幹夫は「戻ってる」のほうが先に胸に来て、目が熱くなった。

 母が続けた。

「名、呼べたら戻る。……いき、入れて」

 父の息が、ふっと落ちていった。 落ちていく息は、布団の奥へ戻っていく息だった。

 幹夫は石を握ったまま、口の中で小さく言った。

 ――いき。

 暗さは暗さのままで、刺さらなかった。

 翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、三つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

 > なまえ は> ゆうがた の くち> みえないとき ほど> よぶ> いき> うん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

 > みきぼう> きのう> なまえ よべた> すこし> もどれた

 その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。

 三枚目。 文字じゃなく――小さな木片がひとつ。 木の舟の削りカスを固く握って、丸くしたみたいな木の玉。 その玉に、父の震える字で小さく、

 > みき

 とだけ彫ってある。 彫り跡は少し尖っているのに、触ると痛くない。 痛くないのは、丸く磨かれているからだ。

 幹夫は木の玉を掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 名は、暗いときの口。 見えないときの灯り。 呼べたら、戻れる。 紙にも、木にも、胸の中にも――置いておける。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、「なまえよべた」という父の字は届いた。 届いた“呼ぶ”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、夕方の手すりを胸の奥に、そっと増やしていった。

 
 
 

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