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国の貌

  • 山崎行政書士事務所
  • 5月29日
  • 読了時間: 8分


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第一章 影の検定

 その老いた編集者の額には、かつて軍靴の音が響いていた日本の都市の記憶が、ひとすじの皺となって刻まれていた。東京の冬は冷たく、彼が住む文京のアパートメントの廊下を通り抜ける風は、敗戦の焼け跡の名残のように身を切った。

 岩倉章吾。元歴史教師、現在は某教科書出版社の監修者。彼は「国の貌」を綴る作業に、すでに四十年を費やしていた。戦後の混濁した言論空間に生きながらも、彼の信条は一度たりとも揺るがなかった。曰く、「歴史とは、刀に刻まれた刃文である。曖昧であってはならぬ」。

 だが、ある冬の夕刻、文部科学省からの検定意見が届いた瞬間、彼の筆は止まった。

 ――「『日本軍の命令により沖縄住民が集団自決した』との記述は、通説的見解ではない」

 机に置かれた書状は、まるで命を断ち切る切腹の通告のようであった。岩倉は、その場に両膝を立て、背筋を伸ばして目を閉じた。彼の胸中に、かつて慶良間の地で死に絶えた少年少女の叫びがこだまする。

 「命令などなかった」という証言の裏に潜むもの。それは、歴史という名の怨念である。死者の声を削除しようとする手は、果たして誰のものか? それとも国家の手か?

 岩倉は編集部の若手を集め、声を低くして言った。

 「記述を変えろと言うならば、我々が何のために筆を取ってきたのか問わねばならぬ。国家に媚びぬことは、国家への忠義の第一歩である」

 その時、部屋の片隅で青年が声を上げた。

 「でも岩倉先生、今の時代にそんなことを言っていたら、教科書は採択されませんよ。事実かどうかなんて、結局“誰が認めたか”なんですよ」

 彼の言葉は鋭く、無垢だった。しかし岩倉はその刃を怖れなかった。

 「だからこそ、我々は真実の“貌”を残す義務がある。慰安婦を、南京を、沖縄を、“なかったこと”にするのは国家の背信であり、我々の敗北だ。だが、我々の筆が真実を刻む限り、国は生きる」

 その夜、彼は久しぶりに背広を正し、靖国神社の大鳥居をくぐった。幾千の英霊の息吹が、雪混じりの風とともに石畳を這っていた。

 「この国が再び、自らの記憶を喪うことなかれ」

 その唇から洩れた言葉は、祈りではなかった。抵抗であり、闘争であり、そして、かつて三島が夢見た「国体の詩」そのものだった。


第二章 削除された慰安婦

 そのファクスは、まるで火の気配を帯びていた。 文部科学省からの「訂正申請のお願い」――そこには、「従軍慰安婦」という言葉が政府見解に適合しないとの旨が、事務的な字体で、冷たく、無機質に並んでいた。

 岩倉章吾は、その紙片をまるで死者の遺書のように手に取り、しばし目を閉じた。 “従軍”の二文字が切除されれば、日本はまた一つ、記憶の墓標を打ち砕くことになる。 この国は今や、自己の恥を消し去ることでのみ、歴史を語ろうとしているのか。

 彼の脳裏に浮かんだのは、一人の女の姿であった。 名もなき女、朝鮮の寒村から連れられたとされるその少女は、遠い戦地で兵士の背を洗い、病んだ男たちの荒れた肌をその小さな掌で撫でた。 彼女の顔は、記録にも写真にも残されていない。だが、教科書に記されるわずか数行の中に、彼女の肉声はかすかに宿っていた。

 それを、削除するというのか。 岩倉は、ペンを取り、その校正紙の隅に赤字で書き込んだ。

 ――「この国が、記憶を断つとき、倫理は滅ぶ」。

 だが、その赤は編集部の若い審査係によってすぐに却下された。 「それでは検定が通りません」 冷ややかな声に、岩倉は怒らなかった。むしろ、その無感動さに、戦慄を覚えた。

 彼は窓を開けた。冬の東京の空気は、どこか人工的な冷たさを帯びている。 街路に立つ女子高生の制服、塾に急ぐ小学生、喫煙所に集う中年――この誰の頭の中にも、“慰安婦”という言葉はもはや、存在しないのだ。 それは、あらゆるニュースがそうであるように、「削除済」の一語で、現実から剥奪されていったのだ。

 編集会議の帰り道、岩倉は夜の国会議事堂を遠く望んだ。 あの建物の中では、国家の名において、記憶が再定義されている。 「強制はなかった」「用語が不適切だ」「政府見解に基づけ」――すべては、文字を制す者が国家を制するという、最も古くからの戦術だった。

 だが岩倉は思った。 記述を削除した者は、いずれその削除の事実すら、削除される。 だとすれば、誰かが、命を懸けてそれを記録しなければならない。

 彼の眼差しは、明治の軍人のように凛としていた。 慰安婦という語が教科書から消えたとしても、その削除の事実を刻むことが、保守たる者の任である。 それは、卑屈な加害の懺悔ではない。日本という国家の尊厳を、あくまで**「記憶を守る責任」**として守ろうとする、武士のごとき覚悟であった。

 その夜、彼は一人、明治神宮に詣でた。 かつて国を支えた英霊と神々に、こう告げた。

 「この国を貶めたくはない。ただ、この国が、自らの過去を“消去”する国になってはならぬのです」

 冬の空に、榊の葉が揺れていた。 その葉擦れの音が、削除された声なき記憶のうめきのように、彼の耳に届いた。


第三章 南京に雪は降るか

 冬の始まりの東京には、雪が降らなかった。

 それは単なる気象ではなく、岩倉章吾にとっては預言であった。 南京に、かつて雪は降っただろうか――。 数万の兵士が市門を越え、数知れぬ民衆の命が土と化したその地に、白き静寂が一度でも覆ったことがあっただろうか。

 彼は今、その問いの答えを、教科書の「数字」に見出そうとしていた。 死者数。三十万、二十万、十万、あるいは数千。

 文部科学省からの検定意見には、こうあった。 「南京事件の死者数については通説的見解が存在せず、明記する場合は諸説あることを注記せよ」

 “注記せよ”、と。 この一語のなかに潜んでいたのは、記憶に対する容赦ない冷却であった。 数字は、罪の重量を秤にかける天秤であり、国家が自身の手をどれほど血に染めたかを計る唯一の数学だった。

 「なぜそれほどまでに、数を恐れるのか」

 岩倉は自らにそう呟き、机の上に開いた昭和二十年代の資料を見つめた。 そこには、かつてある旧軍人が語った証言が、にじむような手書きの文字で綴られていた。

 ――「撃ち尽くした後の沈黙が一番怖かった。あの沈黙だけは、何年経っても耳を離れん」

 教科書から数字を削除するとは、その沈黙を再び、無かったものにすることだ。

 その日の編集会議で、岩倉は小さな声で言った。

 「私はね、三十万という数字が正しいと言いたいのではない。ただ、三十万という数字を“怖れる国家”に、私は寒気を覚えるのだ」

 若き編集者の一人が苦笑した。

 「数字なんて、印象操作にしかなりませんよ。それより、“客観性”のある記述で検定を通しましょう。犠牲者数は“未確定”と注釈すればいい。それが、現代の合理性です」

 “合理性”――その言葉の軽さに、岩倉の頬はうっすらと紅潮した。

 「合理は国家を守らぬ。情緒が、歴史を守るのだ。まして、我々が守るべきは“数字”ではない。“痛み”だ」

 しかし、彼の言葉は誰の胸にも届かなかった。 デザインの美しいページに、綺麗にレイアウトされた本文とグラフ、その下に小さく添えられた注釈。 「犠牲者数については諸説あり、定まっていない」

 それはまるで、国家が記憶を数字に置き換え、さらにその数字を疑いのなかに溶かしていく錬金術だった。 だがそれを「科学的態度」と呼ぶ者たちが、この国には山ほどいた。

 夜更け、岩倉は再び靖国へと足を向けた。 英霊に祈りを捧げるためではなかった。国家という言葉を、もう一度自らの中に問い直すためだった。

 彼は、境内の石畳の上で立ち止まり、ひとすじの風を受けた。 南京に雪は降るか――否。 この国が、自らの「冷たさ」を数値に封じ込めてしまった以上、雪など降るものか。

 南京の空には、数も記憶もない。 あるのは、誰も語らぬ沈黙のみ。

 その沈黙に耐える者だけが、国を語る資格がある。 それが、岩倉の“保守”であった。


最終章 記述者たちの遺言

 その原稿用紙は、黄色く変色していた。

 まるでそれ自身が、時代の埃を吸い込み、言葉が時間に喰われていく様を曝しているようであった。 岩倉章吾は、それをそっと開いた。墨痕未だらにして、旧仮名遣いが整然と並ぶ。 それは、かつての歴史教師仲間が死の間際に遺した、ある草稿であった。

 題は「国家と記憶」。副題にこうあった――「記述者は、沈黙と戦う者なり」。

 静かに机に向かいながら、岩倉は思った。 我々は、この国において、ただの“筆記者”ではなかった。 歴史を記すとは、未来に殉じる行為である。死者の声を掬い、まだ見ぬ世代へと託す行いである。 だが今、国家はその筆を奪いに来た。慰安婦を、南京を、沖縄を、数字を、証言を、そして沈黙さえも“削除”という名の剣で断ち切ってゆく。

 それでもなお、岩倉はこの国を憎まなかった。

 「美とは、矛盾を愛することだ」

 それは、彼が若かりし頃に読んだ三島の一節だった。 国家は不完全であるがゆえに美しい。だからこそ、その矛盾に対して正しく記述しなければならない。削除ではなく、記録によって。

 彼の旧友――山内教授は、死の直前まで教壇に立っていた。 「本当の保守とは、国家の過去を美化することではない。  国家が過去に耐えうるよう、記述という十字架を背負わせることだ」 その声が、まるで亡霊のように、岩倉の耳朶に蘇った。

 窓の外では、ようやく雪が降り始めた。

 東京の夜にしては静かな雪である。 その白は、削除された教科書のページよりも白く、清冽だった。 だがそれは、何かを覆い隠すための雪ではなかった。 むしろ、削除された記述の亡霊を、そっと慰撫するような静謐な赦しだった。

 岩倉は一枚の手紙を書いた。

 ――「私は、削除された言葉の背後に、魂を見た。  それらを記すことは、政治ではなく、供養である。  我が死後、もしこの手紙を読む者がいるならば、頼む。  “記述者”という名の灯火を、どうか次代に繋いでほしい。  国家のために、ではない。国家に耐えるために」

 封筒にその文を納めると、岩倉はゆっくりと背筋を伸ばした。 ペンを置き、眼鏡を外し、窓を開けた。 雪はますます深くなり、視界を白の彼方へ連れてゆく。

 彼の胸にはもはや恐れはなかった。 国家がすべてを削除しても、真実が死ぬわけではない。

 なぜなら、記述とは、永遠の抵抗であるからだ。

 その夜、都心の一角で、一人の老いた記述者が静かに息を引き取った。 彼の胸にあったのは、過去を忘れぬ国家への、最後の遺言だった。

※完

 
 
 

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