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声の字

 朝の蒲原は、声から始まる日がある。 波の音より先に、路地の向こうから――人の声が転がってくる。

「さかなぁ――」

 伸びる声。 伸びて、角を丸くして、家々の軒先にいったん触れてから、また向こうへ流れていく。

 幹夫は布団の中で、その声を聞いていた。 聞いているうちに、胸の奥がすこし温かくなる。 声は、家の外のものなのに、胸の中まで入ってくるからだ。

 縁側の板が、きい、と小さく鳴った。 父が起きている音。

 幹夫はそっと起きて、畳の目に足を合わせた。 合わせると、家が家のまま目を覚まさない。 襖を少し開けると、朝の冷たい空気が頬に触れた。

 縁側に、父がいた。 まだ細い背中。 細いのに、折れていない背中。 海のほうへ顔を向けて、ただ座っている。

 父の首筋が、朝の光で少し白い。 白いところを見ると、幹夫の胸がきゅっとする。 きゅっとするのに、嫌じゃない。 「ここにいる」を確かめるきゅっだ。

 父が、路地のほうへ目をやった。 さかな売りの声が、もう一度伸びた。

「さかなぁ――」

 父の喉が、ほんの少し動いた。 動いて、止まった。 止まるとき、幹夫は息をひとつ入れた。

 ――いき。

 父は口を開きかけて、閉じた。 閉じたあと、指で喉元を軽く押さえた。 押さえる指が、少しだけ強い。 強いのに、怒りじゃない。 落とさないための強さだった。

 幹夫は、上着のポケットの石を握った。 丸い石。冷たい。重い。 重いのに痛くない。 角がない重さは、言葉にならないところへ手を添えてくれる。

 父がぽつりと言った。

「……ああいう声、出せたらな」

 出せたら。 その「たら」は、遠い。 遠いのに、今ここに置かれた「たら」だった。

 幹夫は、返事の言葉を探して、見つからなくて――息だけ入れた。

 ――いき。

 父は、もう一度だけ路地を見て、小さく言った。

「……俺の声、変わっただら」

 変わった。 その言葉が胸に落ちた瞬間、幹夫の中で「父ちゃんの声」を探す目が動いた。 探す目は、番犬になりやすい。 番犬になると、眠れない夜が来る。

 だから幹夫は、石を握って、言葉を丸く転がした。

「……でも、父ちゃんの声、聞こえる」

 言ってしまってから、胸がきゅっとした。 聞こえるって言ったら、聞こえなかった日々が背中から来る気がしたからだ。

 でも父は否定しなかった。 否定しないかわりに、ふっと息を吐いた。 軽くも重くもない息。 ただ、「ここまで」の息。

「……そうか」

 受け取る「そうか」。

 朝飯のちゃぶ台で、祖母が味噌汁をよそいながら淡々と言った。

「声ぇ出るうちは、生きとるだに。出ん日も、生きとるだに。飲め」

 出る日も、出ん日も。 その並べ方が、幹夫の胸をすこしだけほどいた。 並べると、どっちも家の中に座れる。

 母は茶を足して、父の前にそっと置いた。 置き方が丁寧すぎない。 丁寧すぎないと、生活の手つきになる。

 父は椀を持つまでの「間」を、少しだけ短くして、静かに飲んだ。

「……うめぇ」

 掠れの少ない声。 湯気が混ざる声。

 幹夫は、その声の端っこを胸にしまった。 縫い箱の下へ紙を差し込むみたいに。 飛ばないように。

 母が、声を落として聞いた。

「……喉、痛いか」

 父は首を横に振った。

「痛いんじゃねぇ。……出すと、怖ぇ」

 怖い。 その言葉が、刃になりかけて――でも、刃になりきらなかった。 父が「怖い」と言えたからだ。 言えると、怖さは少し丸くなる。

 母はすぐ「だいじょうぶ」と言わなかった。 息をひとつ入れてから、低く言った。

「うん」

 預かる「うん」。

「……小さくでええ」

 小さくでええ。 少しでええ。 その許しが、ちゃぶ台の上の湯気を丸くした。

 昼前、母が新聞紙の裏を広げた。 竹を継いだ鉛筆を取る。 継ぎ目の硬さが、今日も頼もしい。

「幹夫。……今日はこれ」

 母がゆっくり書いた。

 声

 幹夫は目をこらした。 形が、どこか簡単に見えるのに、胸の奥がざわっとする。 簡単な字ほど、いちばん難しいところを触る。

 母は「声」を指でなぞって、それから、別の字も書いた。 少し難しい字。

 聲

「昔はな、こう書いた」

 母の指が、右のほうの「耳」をとん、と叩いた。

「耳、入っとるだろ」

 耳。 聞の字の中の耳。 父が「聞くのはできる」と言った耳。

 母は少し間を置いて、息をひとつ入れた。

「声ってのはな……耳があって、はじめて声になる」

 耳があって、はじめて。 その言い方が、幹夫の胸にすとんと落ちた。 声は、出すだけじゃない。届いて、入って、声になる。

 母は続けた。

「耳が受け取らんときは、ただの風だに。……風は冷たい日もあるけど、声はあったかい日もある」

 あったかい日もある。その「も」が、家の中の救いだった。

 父が新聞紙の「声」と「聲」を見て、ぽつりと言った。

「……耳、なくしたら……声もなくなるみてぇだな」

 母は否定しなかった。 息をひとつ入れてから、静かに言った。

「うん。……だから、聞くのも声だに」

 聞くのも声。 幹夫は、父が朝、さかな売りの声を聞いていた背中を思い出した。 あの背中は、もう声を出していたのかもしれない。

 幹夫は鉛筆を握った。 竹の継ぎ目が掌に当たる。硬い。 硬いと、胸が走っても戻ってこれる気がする。

 「声」を書く。 一回目は、下のところが崩れて、字が転びそうな顔になった。 転ぶと、声が落ちて割れそうで、胸がきゅっとした。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「声はな、揺れてもええ。……揺れても届けばええ」

 届けばええ。 届の字が胸の奥で座った。 サイレンは届かなかった。 でも、父の小さい「うめぇ」は届いた。

 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。

 ――いき。

 二回目の「声」は、少しだけ落ち着いた。 落ち着くと、字が「喉の奥の形」を持つ気がした。

 父が、新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 母が父を見て、頷いた。 頷きは許しになる。 許しがあると、手が伸びる。

 父は鉛筆を握った。 ぎこちない握り方。 ぎこちないのに、落とさない。

 父の「声」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 最後のはねで、父の息がいちど止まって――止まった間に、幹夫は自分の息を入れた。

 ――いき。

 父の「声」ができた。 少し歪んでいる。 歪んでいるのに、刺さらない。 刺さらないのは、そこに「出そう」とする手があるからだ。

 父は字を見て、ふっと息を吐いた。

「……声、って……紙にすると、少し楽だな」

 少し楽。 その「少し」が、幹夫の胸をあたためた。 少し、は嘘をつかない。

 母は「声」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 消す丸じゃない。受け取る丸でもない。 ただ、「ここまで」の丸。

 夕方、父は縁側で、葦のような細い茎をいじっていた。 川口のほうで拾ってきたのだろう。 節があって、指で押すと少ししなる。

 父は刃物を使わなかった。 爪と指だけで、先を少しつぶして、穴みたいな隙間を作っている。 作り方が丁寧で、急がない。 急がないのは、落とさないための手つきだ。

 幹夫は隣に座って、黙って見ていた。 見ているだけでも、胸の中の「間」が長くなる。 長い間は、息を入れられる。

 父が、葦の先を唇に当てて――小さく息を吹いた。

 ひゅ。

 小さい音。 小さいのに、腹に届く音。 サイレンみたいに尖っていない。 波みたいに丸い音。

 幹夫の胸が、ぽん、と鳴った。 鳴るのに、叫ばない。叫ばない鳴り方は、「続き」の鳴り方だ。

 父が、少し照れたみたいに言った。

「……声、出ねぇ日でも……息は出るだら」

 息。 いき。 幹夫がずっと胸の中で繰り返してきた言葉。

「息で、声の代わり」

 父はそう言って、その小さな葦笛を幹夫の手のひらに置いた。 手のひらの上で、葦は軽い。 軽いのに、落としたくない軽さだった。

 幹夫は息をひとつ入れてから、そっと吹いた。

 ひゅ。

 音が出た。 出た音が、家の夕方に混ざった。 混ざると、家の中の空気がすこしだけ柔らかくなる。

 母が台所から振り向いて、目を細めた。 湯気みたいな目。

「……ええ声だに」

 声。 葦の音も声になる。 耳が受け取るから。

 夜。 灯りが落ちる前、父が布団の中から小さく言った。

「……みき坊」

 幹夫は返事をしようとして、言葉が喉で止まった。 止まったから、息をひとつ入れた。

 ――いき。

「……うん」

 父はそれだけで、少し安心したみたいに息を吐いた。 息が戻ると、夜は夜のままでいられる。

 幹夫は、葦笛を枕元に置いて、石を握った。 冷たい。重い。 重いのに痛くない。 角がない重さが、暗い中の手すりになる。

 寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に小さく足す。

 > (とうちゃんへ も)

 中に書く。

 > こえ って > みみ が うけとると> あったかく なるんだね> とうちゃんの ちいさい こえ> ちゃんと とどいた> あしぶえ も> いき の こえ

 最後に、小さく「声」。 丸をひとつ。 刺さらない音のための丸。

 紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは恥ずかしさと、夕方の「ひゅ」の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。

 翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、三つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

 > こえ は> だす でも> きく でも ある> ちいさくても> いき が はいってれば> とどく> うん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

> みきぼう  
> きのう  
> ひゅ って でた  
> すこし  
> うれしい

 その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。

 三枚目。 文字じゃなく――葦笛がもう一本。 昨日のより少し短い。 短いのに、息を入れる穴がちゃんとある。

 幹夫はその葦笛を掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 声は大きくなくてもいい。 サイレンみたいじゃなくていい。 波みたいに丸くて、葦笛みたいに小さくて――それでも、耳が受け取れば、ちゃんと声になる。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、「すこしうれしい」という父の字は届いた。 届いた“少し”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――家の中の声を、ゆっくり増やしていこうとしていた。

 
 
 

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