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声の字

2月7日
読了時間: 8分

 朝の蒲原は、声から始まる日がある。 波の音より先に、路地の向こうから――人の声が転がってくる。

「さかなぁ――」

 伸びる声。 伸びて、角を丸くして、家々の軒先にいったん触れてから、また向こうへ流れていく。

 幹夫は布団の中で、その声を聞いていた。 聞いているうちに、胸の奥がすこし温かくなる。 声は、家の外のものなのに、胸の中まで入ってくるからだ。

 縁側の板が、きい、と小さく鳴った。 父が起きている音。

 幹夫はそっと起きて、畳の目に足を合わせた。 合わせると、家が家のまま目を覚まさない。 襖を少し開けると、朝の冷たい空気が頬に触れた。

 縁側に、父がいた。 まだ細い背中。 細いのに、折れていない背中。 海のほうへ顔を向けて、ただ座っている。

 父の首筋が、朝の光で少し白い。 白いところを見ると、幹夫の胸がきゅっとする。 きゅっとするのに、嫌じゃない。 「ここにいる」を確かめるきゅっだ。

 父が、路地のほうへ目をやった。 さかな売りの声が、もう一度伸びた。

「さかなぁ――」

 父の喉が、ほんの少し動いた。 動いて、止まった。 止まるとき、幹夫は息をひとつ入れた。

 ――いき。

 父は口を開きかけて、閉じた。 閉じたあと、指で喉元を軽く押さえた。 押さえる指が、少しだけ強い。 強いのに、怒りじゃない。 落とさないための強さだった。

 幹夫は、上着のポケットの石を握った。 丸い石。冷たい。重い。 重いのに痛くない。 角がない重さは、言葉にならないところへ手を添えてくれる。

 父がぽつりと言った。

「……ああいう声、出せたらな」

 出せたら。 その「たら」は、遠い。 遠いのに、今ここに置かれた「たら」だった。

 幹夫は、返事の言葉を探して、見つからなくて――息だけ入れた。

 ――いき。

 父は、もう一度だけ路地を見て、小さく言った。

「……俺の声、変わっただら」

 変わった。 その言葉が胸に落ちた瞬間、幹夫の中で「父ちゃんの声」を探す目が動いた。 探す目は、番犬になりやすい。 番犬になると、眠れない夜が来る。

 だから幹夫は、石を握って、言葉を丸く転がした。

「……でも、父ちゃんの声、聞こえる」

 言ってしまってから、胸がきゅっとした。 聞こえるって言ったら、聞こえなかった日々が背中から来る気がしたからだ。

 でも父は否定しなかった。 否定しないかわりに、ふっと息を吐いた。 軽くも重くもない息。 ただ、「ここまで」の息。

「……そうか」

 受け取る「そうか」。

 朝飯のちゃぶ台で、祖母が味噌汁をよそいながら淡々と言った。

「声ぇ出るうちは、生きとるだに。出ん日も、生きとるだに。飲め」

 出る日も、出ん日も。 その並べ方が、幹夫の胸をすこしだけほどいた。 並べると、どっちも家の中に座れる。

 母は茶を足して、父の前にそっと置いた。 置き方が丁寧すぎない。 丁寧すぎないと、生活の手つきになる。

 父は椀を持つまでの「間」を、少しだけ短くして、静かに飲んだ。

「……うめぇ」

 掠れの少ない声。 湯気が混ざる声。

 幹夫は、その声の端っこを胸にしまった。 縫い箱の下へ紙を差し込むみたいに。 飛ばないように。

 母が、声を落として聞いた。

「……喉、痛いか」

 父は首を横に振った。

「痛いんじゃねぇ。……出すと、怖ぇ」

 怖い。 その言葉が、刃になりかけて――でも、刃になりきらなかった。 父が「怖い」と言えたからだ。 言えると、怖さは少し丸くなる。

 母はすぐ「だいじょうぶ」と言わなかった。 息をひとつ入れてから、低く言った。

「うん」

 預かる「うん」。

「……小さくでええ」

 小さくでええ。 少しでええ。 その許しが、ちゃぶ台の上の湯気を丸くした。

 昼前、母が新聞紙の裏を広げた。 竹を継いだ鉛筆を取る。 継ぎ目の硬さが、今日も頼もしい。

「幹夫。……今日はこれ」

 母がゆっくり書いた。

 声

 幹夫は目をこらした。 形が、どこか簡単に見えるのに、胸の奥がざわっとする。 簡単な字ほど、いちばん難しいところを触る。

 母は「声」を指でなぞって、それから、別の字も書いた。 少し難しい字。

 聲

「昔はな、こう書いた」

 母の指が、右のほうの「耳」をとん、と叩いた。

「耳、入っとるだろ」

 耳。 聞の字の中の耳。 父が「聞くのはできる」と言った耳。

 母は少し間を置いて、息をひとつ入れた。

「声ってのはな……耳があって、はじめて声になる」

 耳があって、はじめて。 その言い方が、幹夫の胸にすとんと落ちた。 声は、出すだけじゃない。届いて、入って、声になる。

 母は続けた。

「耳が受け取らんときは、ただの風だに。……風は冷たい日もあるけど、声はあったかい日もある」

 あったかい日もある。その「も」が、家の中の救いだった。

 父が新聞紙の「声」と「聲」を見て、ぽつりと言った。

「……耳、なくしたら……声もなくなるみてぇだな」

 母は否定しなかった。 息をひとつ入れてから、静かに言った。

「うん。……だから、聞くのも声だに」

 聞くのも声。 幹夫は、父が朝、さかな売りの声を聞いていた背中を思い出した。 あの背中は、もう声を出していたのかもしれない。

 幹夫は鉛筆を握った。 竹の継ぎ目が掌に当たる。硬い。 硬いと、胸が走っても戻ってこれる気がする。

 「声」を書く。 一回目は、下のところが崩れて、字が転びそうな顔になった。 転ぶと、声が落ちて割れそうで、胸がきゅっとした。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「声はな、揺れてもええ。……揺れても届けばええ」

 届けばええ。 届の字が胸の奥で座った。 サイレンは届かなかった。 でも、父の小さい「うめぇ」は届いた。

 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。

 ――いき。

 二回目の「声」は、少しだけ落ち着いた。 落ち着くと、字が「喉の奥の形」を持つ気がした。

 父が、新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 母が父を見て、頷いた。 頷きは許しになる。 許しがあると、手が伸びる。

 父は鉛筆を握った。 ぎこちない握り方。 ぎこちないのに、落とさない。

 父の「声」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 最後のはねで、父の息がいちど止まって――止まった間に、幹夫は自分の息を入れた。

 ――いき。

 父の「声」ができた。 少し歪んでいる。 歪んでいるのに、刺さらない。 刺さらないのは、そこに「出そう」とする手があるからだ。

 父は字を見て、ふっと息を吐いた。

「……声、って……紙にすると、少し楽だな」

 少し楽。 その「少し」が、幹夫の胸をあたためた。 少し、は嘘をつかない。

 母は「声」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 消す丸じゃない。受け取る丸でもない。 ただ、「ここまで」の丸。

 夕方、父は縁側で、葦のような細い茎をいじっていた。 川口のほうで拾ってきたのだろう。 節があって、指で押すと少ししなる。

 父は刃物を使わなかった。 爪と指だけで、先を少しつぶして、穴みたいな隙間を作っている。 作り方が丁寧で、急がない。 急がないのは、落とさないための手つきだ。

 幹夫は隣に座って、黙って見ていた。 見ているだけでも、胸の中の「間」が長くなる。 長い間は、息を入れられる。

 父が、葦の先を唇に当てて――小さく息を吹いた。

 ひゅ。

 小さい音。 小さいのに、腹に届く音。 サイレンみたいに尖っていない。 波みたいに丸い音。

 幹夫の胸が、ぽん、と鳴った。 鳴るのに、叫ばない。叫ばない鳴り方は、「続き」の鳴り方だ。

 父が、少し照れたみたいに言った。

「……声、出ねぇ日でも……息は出るだら」

 息。 いき。 幹夫がずっと胸の中で繰り返してきた言葉。

「息で、声の代わり」

 父はそう言って、その小さな葦笛を幹夫の手のひらに置いた。 手のひらの上で、葦は軽い。 軽いのに、落としたくない軽さだった。

 幹夫は息をひとつ入れてから、そっと吹いた。

 ひゅ。

 音が出た。 出た音が、家の夕方に混ざった。 混ざると、家の中の空気がすこしだけ柔らかくなる。

 母が台所から振り向いて、目を細めた。 湯気みたいな目。

「……ええ声だに」

 声。 葦の音も声になる。 耳が受け取るから。

 夜。 灯りが落ちる前、父が布団の中から小さく言った。

「……みき坊」

 幹夫は返事をしようとして、言葉が喉で止まった。 止まったから、息をひとつ入れた。

 ――いき。

「……うん」

 父はそれだけで、少し安心したみたいに息を吐いた。 息が戻ると、夜は夜のままでいられる。

 幹夫は、葦笛を枕元に置いて、石を握った。 冷たい。重い。 重いのに痛くない。 角がない重さが、暗い中の手すりになる。

 寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に小さく足す。

 > (とうちゃんへ も)

 中に書く。

 > こえ って > みみ が うけとると> あったかく なるんだね> とうちゃんの ちいさい こえ> ちゃんと とどいた> あしぶえ も> いき の こえ

 最後に、小さく「声」。 丸をひとつ。 刺さらない音のための丸。

 紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは恥ずかしさと、夕方の「ひゅ」の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。

 翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、三つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

 > こえ は> だす でも> きく でも ある> ちいさくても> いき が はいってれば> とどく> うん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

> みきぼう  
> きのう  
> ひゅ って でた  
> すこし  
> うれしい

 その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。

 三枚目。 文字じゃなく――葦笛がもう一本。 昨日のより少し短い。 短いのに、息を入れる穴がちゃんとある。

 幹夫はその葦笛を掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 声は大きくなくてもいい。 サイレンみたいじゃなくていい。 波みたいに丸くて、葦笛みたいに小さくて――それでも、耳が受け取れば、ちゃんと声になる。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、「すこしうれしい」という父の字は届いた。 届いた“少し”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――家の中の声を、ゆっくり増やしていこうとしていた。

 
 
 

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