夫の字
- 山崎行政書士事務所
- 1 日前
- 読了時間: 10分

朝のちゃぶ台は、まだ湯気を抱えていた。 薄い粥の湯気。 米が少ない日の湯気は、軽いのに、鼻の奥に残る。
箸が、一本だけ、ちょっと短い。 母の箸の先が、欠けていた。
欠けは、小さい。小さいのに、口へ行く道の先にある。
幹夫は縁側のふちに座って、首の布の袋を掌で押さえた。 中には、竹の小さな削り屑。 昨日、父が箸を削ったときの、白い薄片。 鳴らない。 鳴らないのに、ちゃんと“尖り”の匂いがする。
――いき。
息を入れると、尖りが少し丸くなる。 丸いと、刺さらない。
「まちばこ」のふたが、ほんの少しだけ浮いていた。 浮いているのは、誰かの困りごとが入った印。 困りごとは、言う前に角が立つから、箱で丸くする。
母がふたを開ける。 中には、小さな紙。 角が丸く折ってある。 丸い角は刺さらない。
母の目が、紙の文字を追って、そこで止まった。
ふうふ ばしいっぽん おれて ささりそう こわいよかったら つくってください かねこ
夫婦箸。 二本で一つ。 一つで二本。
“ささりそう”。 箸が怖いんじゃなくて――箸のささくれが、指や口に刺さるのが怖い。 刺さるのは、痛いだけじゃない。 痛いと、心も急ぐ。 急ぐと、言葉も刺さる日がある。
幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったのは、金子さんの“こわい”が胸に届いた音。
鳴ったから、息。
――いき。
父が土間から顔を出した。 紙を受け取る前に、いったん膝の上の布に置く。 置くと、手が急がない。 父は指の腹で紙の端を撫でた。 撫でると、紙が暴れない。 暴れないと、言葉も暴れない。
父の目が「ふうふ ばし」で止まる。 止まると、肩がふっと上がりかける。
上がりかけて――止まった。
止まった「間」に、父は懐へ触れて、小さな札を撫でた。 丸い角の、ま札。 父は肩が上がりきる前に、それを撫でる。
ふう……。
「……箸か」
短い。 短いのに、口の道が入っている。
母が頷いた。
「うん。……箸は口へ行くだに。刺さる前に、丸くしてやらんと」
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「箸が刺さると飯がまずい。……飯がまずいと腹が立つ。……腹が立つと手が荒れる」
手が荒れる。 荒れる前が肝。 幹夫の得意な“前”。
父が納屋から竹を一本、引っぱり出してきた。 青い竹。 青い竹は、切ると甘い匂いがする。 甘いのに、刃に触れると危ない。
父は鉈(なた)を持つ前に、布を一枚取り出した。 白い布。 父はそれを額に巻く。 鉢巻。 布が額に座ると、父の目が少し静かになる。
鉢巻の白い線が、父の額に一本、走った。 一本の線。 線は「ここまで」を作る。
幹夫の胸が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
「……みき坊。……竹、押さえろ。……掴むな。……受ける手だ」
受ける手。 受ける手は、刃を呼ばない手。
幹夫は頷く前に息を入れた。
――いき。
「……うん」
父は竹をいきなり割らない。 節を指で撫でて、固いところと柔らかいところを確かめる。 確かめると、怖さが形になる。 形になると、手が荒れない。
とん。
鉈が、節の少し外に置かれる。 父は、打つ前に止まる。 止まると、間ができる。 間ができると、刃が暴れない。
――いき。
ぱき。
竹が割れた。 割れた音は乾いている。 乾いた音は刺さりやすい。 刺さる前に、息。
――いき。
父は割った竹を、箸の幅に細くしていく。 削る。 削る。 削り屑が、白い花みたいに落ちる。 落ちるのに、刺さらない。 軽い落ちは、床に座る。
「……夫婦箸は……二本だ。……一本じゃ、飯がつかめん」
父がぽつりと言った。 “二本”。 その言葉が、幹夫の胸の柱をちょっと立てた。
母が、欠けた箸を布の上に置いた。 置いてから言う。 置くと、言葉が尖らない。
「うちもだに。……一本欠けると、口が怖い」
怖い。 怖い、が家の中に落ちた。 落ちると刺さりそうになる。 刺さる前に、父の肩がふっと上がりかける。
上がりかけて――止まった。
止まった「間」に、父が鉢巻を指で押さえた。 額の線。 一本の線。
ふう……。
「……丸くする」
短い。 短いのに、ちゃんと“手当て”が入っている。
金子さんの家は、道を二つ曲がった先。 庭先に、干した大根の匂いが揺れていた。 干す匂いは、冬へ向かう匂い。 昭和十八年の匂い。
金子のおばさんが戸口に立っていた。 頬が少しこわばっている。 こわばりは、声より先に顔に出る。
「おはようだに……朝からすまんね。……箸が……」
おばさんの手に、折れた箸。 折れた先が、白く毛羽立っている。 毛羽は刺さる毛羽。
幹夫の胸がぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
父はすぐ「ええよ」と切らなかった。 まず、折れ口を見る。 ささくれの立ち方。 指で触れない。 触れると刺さる。
「……刺さりそうだ」
名前を置く。 置けると、怖さが全部にならない。
ふう……。
金子のおばさんが、小さく言った。
「……夫婦箸って、二本で夫婦だら。……一本折れると……なんだか、心も欠ける」
欠ける。 欠ける、は箸だけじゃない言い方。 おばさんの家の奥から、子どもの咳がひとつ聞こえた。 咳は、家の“足りない”を教える音。
父が、声を尖らせずに短く言った。
「……欠けたのは、箸だ。……心は……今、ここにある」
押しつけない言い方。 受け取れる言い方。
父は持ってきた竹を取り出し、折れた箸と同じ長さに当てた。 当てると、足りるか足りないかが見える。 見えると、手が落ち着く。
「……みき坊。……この線、見ろ。……ここまでだ」
父の指が、竹に一本の線を示した。 線は、境目。 境目は、守り。
――いき。
父は削る。 こす、こす。 刃が竹を撫でる。 撫でる削り方。 撫でると、竹が怒らない。
箸の先は、尖らせない。 尖りは刺さる。 父は先を少し丸くする。 丸い先は、豆もつかめる。 つかめるのに、刺さらない。
金子のおばさんが、恐る恐る言った。
「……そんな丸くして、つかめるかね」
父が一度止まる。 止まると、言葉の居場所ができる。
「……つかめる。……丸いほうが、口も怖がらん」
幹夫は、削り屑が膝に落ちるのを見た。 白い薄片。 ひらひら。 それは、折れた一本の代わりじゃない。 “食べる”が続くための、小さな橋。
――いき。
削り終わると、父は箸を布で拭いた。 拭くと、ささくれが立っていないか分かる。 父は指の腹でそっと撫でる。 撫でて、止まる。 止まると、刺さる前が見える。
「……よし」
父は二本を揃えて、金子のおばさんの掌へ置いた。 掴ませない。 置いて、受けさせる。
とん。
小さい音。 小さい音は眠る。
金子のおばさんの肩が、すとん、と落ちた。
「……助かった」
助かった。 その二文字が、戸口の空気を少しだけ温めた。
父はすぐ「いいえ」と返さず、まず頷いた。 頷いてから、言葉を置いた。
「……うん。……刺さる前でよかった」
“前でよかった”。 祖母の言う“前”。
金子のおばさんが、箸をそっと握った。 握る手が、少し震えている。 震えるのに、落とさない。
「……夫婦って……二本で、やっとだら」
父が、鉢巻の線を指で押さえて言った。
「……二本で、つかむ。……片方が折れたら……もう片方は、余計に痛い。……だから、折れんように……丸くする」
丸くする。 丸くするのは、強くするためじゃない。 続けるため。
学校の教室は、チョークの粉の匂いがした。 乾いた匂い。 乾いた匂いは、線の角を立てやすい。
先生が黒板に、大きく字を書いた。
夫
きゅっ、きゅっ。
「今日は“おっと”の夫。読めるな」
教室が声を出す。
「おっと!」「ふ!」
声が集まると、胸が忙しくなる。 幹夫は机の端に指を置いて、“ここ”を作った。
――いき。
先生が「夫」の上の一本を指でなぞった。
「これ、一本だ。一本の線。――鉢巻みたいだろ。働くとき、男が額に巻くやつだ」
幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 父の鉢巻。 白い線。
先生が下の形をなぞる。
「こっちは“大”。人が手を広げた形だ。――つまり夫ってのはな、手を広げる人が、一本筋を入れる字だ」
一本筋。 線は、ここまで、を作る。 ここまでがあると、家の中が刺さらない。
先生は教卓の上の箸を一本だけ持ち上げた。 豆をつまもうとして――落とした。
ころん。
「な。一本だと、つかめん」
先生はもう一本の箸を持って、二本で豆をつまんだ。 今度は豆が座った。
「二本でつかめる。夫婦ってのは、これだ。片方が全部やるんじゃない。――力を“合わせる”。合わせるために、一本筋を通す。怒りの筋じゃない。続ける筋だ」
続ける筋。 幹夫の胸の柱が、すっと座った気がした。
――いき。
休み時間、正夫が小声で言った。
「みきぼー、今日の字、父ちゃんの字じゃん。夫って」
幹夫はすぐ答えず、息を入れてから言った。
――いき。
「……父ちゃん、今朝……鉢巻して……箸、丸くした」
正夫が目を丸くする。
「え、箸? なんで?」
「……刺さる前に……丸く」
正夫がにっと笑った。
「それ、夫っぽい! なんか、でっかいことじゃなくて、続くやつ!」
夕方。 家の中に煮物の匂いが戻ってきたころ。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆。 白い継ぎ目。 でも痛くない。
「幹夫。……今日はこれだに」
母がゆっくり書いた。
夫
幹夫はその字を見た瞬間、父の鉢巻の白い線と、金子さんの箸の丸い先と、先生の豆が一緒に浮かんだ。
母は上の一本を指でなぞった。
「ここ、一本だに。……一本の線。……線があると、行きすぎん。押しこみすぎん」
母は下をなぞった。
「こっちは“大”。手を広げる形。……広げるってのは、取るためじゃない。受けるためだに」
受ける。 幹夫の受ける手。 父の受ける言葉。
母は息をひとつ入れてから、低く言った。
「夫ってのはな……大きく構えるだけじゃないだに。一本、筋を入れて、家が刺さらんようにする。――怒りの線じゃなくて、“間”を残す線だに」
父が縁側の端で、鉢巻をほどきながらぽつりと言った。
「……俺、夫って字……でかいだけの字だと思ってた」
母は否定しない。
「うん。……でかいだけだと、ぶつかるだに。……一本の線があると、止まれる」
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「止まれりゃ飯がうまい。……うまけりゃ言葉も丸い」
父が小さく息を吐いた。
ふう……。
「……今朝、金子さんの“欠けた”って声……胸に来た。……でも、鉢巻の線……触ったら……止まった」
幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
幹夫は鉛筆を握った。 夫を書く。
一回目の「夫」は、上の一本が強くて、字が少し刺す顔になった。 刺す顔は、読む人の胸を忙しくする。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「強くなりそうならな……力を小さく置け。夫の線は、押す線じゃない。止まる線だに。……息、入れてから」
幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。
――いき。
二回目の「夫」は、上の一本が座って、下の“大”が受け皿みたいに見えた。 見えると、刺さらない夫になる。
父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。
「……俺も、書く」
父の「夫」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 上の一本を引く前に、父は一度止まって――息を吐いた。
ふう……。
吐いてから、一本の線を置いた。
「……一本、置くと……俺の肩、落ちるな」
母が小さく頷いた。
「うん。……落ちると、家が座るだに」
夜更け。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、震える字で書いた。
きょう かねこ の ふうふばし つくったいっぽん だと つかめんにほん だと まるく つかめるおれ の ひたい の いっぽん の しろ でおれ の かた が とまった夫 って じでかい だけ じゃ ないいっぽん で とまるいき
父がぽつりと言った。
「……みき坊。……夫でいるのも……こわい日がある」
幹夫は頷く前に息を入れた。
――いき。
「……うん。……でも……一本、止まれたら……刺さらない」
父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。
ふう……。
「……止まれるの……好きだ」
母の低い声が、暗い中で落ちた。
「好きって言えりゃ、夫が座るだに。……夫婦は、二本の箸。片方が刺さりそうなら、丸くしてやればいい」
祖母が淡々と言う。
「丸けりゃ飯がうまい。……うまけりゃ、また明日だ」
また明日。 続く明日。
幹夫は袋の竹屑を押さえて、口の中で小さく言った。
――いき。
翌朝。 まちばこのふたは、畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、二つと、ひとつ。
一枚目、金子のおばさんの字。
はし まるくて こわくないこども も たべたふうふ って ふたり で たべる って こと だらありがとう
最後に、小さな丸。
二枚目、母の字。
夫 は いっぽん で とまるとまれりゃ ま が できるま が できりゃ ことば が ささらん うん
最後に、丸。
三つ目は、紙じゃなく――小さな竹の先。 丸く削ってある。 ささくれがない。 刺さらない先。 その横に、父の震える字で小さく、
いっぽん
と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。
幹夫はその竹を掌にのせて、息をひとつ入れた。
――いき。
夫。 大きく手を広げるだけじゃない。 一本の線で止まって、間を作って、家が刺さらないようにする。 夫婦は二本。 二本で、飯をつかむ。 二本で、明日をつかむ。
蒲原の朝は、今日も山と海のあいだで揺れる。 その揺れの中で、一本の線が座ると、箸も言葉も刺さらない。 幹夫は丸い先を落とさないように掌を包んで――今日も、夫の字の“止まる線”を、そっと胸の中に座らせていった。





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