守の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月18日
- 読了時間: 9分

朝の軒下は、潮の匂いがまだ眠ったまま座っていた。 眠った潮は、冷たいのに刺さらない。
ちち、ちち。
燕の声が、巣の奥から小さく漏れてくる。 漏れてくる音は、家の中の“やわらかいところ”を起こす。
幹夫は縁側のふちに座って、首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。
――いき。
そのとき、燕の声とは違う音が、屋根の端に落ちた。
カァ。
黒い声。 黒い声は、光より先に胸へ来る。
幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
見上げると、軒の先――守りの網のすぐ外に、烏が止まっていた。 目が、巣のほうを見ている。 見る目が、丸くない。 “狙う”目だ。
幹夫の喉の奥が熱くなった。 熱いと走りそうになる。 走る前に、息。
――いき。
「……だめ」
声は小さい。 小さいのに、胸の中で必死だ。
烏がもう一度鳴いた。
カァ。
父の肩が、家の中でふっと上がりかけた。 上がりかけて――止まる。 止まった「間」に、幹夫は父の背中を見る。
父は縁側の端から出てきて、烏を見た。 見る目が遠くへ行かない。 今ここで、黒い鳥を見る目。
父が口の中で小さく言った。
「……烏の声だ」
名前を置く。 置けると、胸が音に飲まれない。
ふう……。
父は烏に向かって怒鳴らない。 怒鳴ると、燕も怖がる。 怖がると、巣が“逃げる場所”になってしまう。
父は懐から、丸い角の札を出して、縁側の板の上にそっと置いた。
とん。
小さい音。 小さい音は眠る。
「……ま」
父はそう言ってから、幹夫に目を落とした。
「……みき坊。……巣の下、立つな。……ここまで」
父が指で、縁側の端の線を示す。 “ここまで”があると、怖さが全部にならない。
幹夫は頷く前に息を入れた。
――いき。
「……うん」
父は網の結び目をいきなり引っぱらない。 網の端を指の腹で撫でて、余地を確かめる。 余地があると、守りは罠にならない。
烏は網の外側を、ゆっくり歩いた。 歩く足は静か。 静かなのに、怖い。
幹夫は、手のひらの袋を押さえる力が強くなっているのに気づいて、いちどだけ緩めた。 緩めると、息が入る。
――いき。
台所の境目から母が顔を出した。
「からすかね」
母の声は尖らない。 尖らないと、家の空気が暴れない。
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「守り網があるだに。……でも油断すんな。賢いでな」
賢い。 烏は賢い。 賢いものは、隙を探す。
父は少し考える顔をして、ぽつりと言った。
「……糸、いるな」
糸。 続の字の糸。 結の字の糸。 解の字の端っこを作る糸。
父は納屋から細い麻紐を持ってきて、軒下の柱と柱に、一本の糸を渡した。 ただ渡すだけじゃない。 ところどころに、貝殻を結んでいく。 浜の白い貝。 白いのに刺さらない。
父が結び目を作るとき、ぎゅっと締めない。 少し締めて、少し戻す。 結び目の中に、ちいさな“ま”。
ふう……。
「……これで、光が動く」
母が頷いた。
「からすは、動くもん嫌うだに」
風が吹くと、貝殻が少しだけ揺れた。 揺れて、ちい、と鳴る。
ちい。
眠った音。 眠った音は、刺さらない。
烏が首を傾げた。 傾げる首は、“考える首”。 考える首が、もう一度巣を見て――それから、少し距離を取った。
幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
烏は、最後に一度だけ鳴いて、屋根の向こうへ飛んでいった。
カァ。
遠ざかる黒い声。 遠ざかると、胸が戻る。
父が、ふう、と息を吐いた。
ふう……。
「……守れた」
守れた。 その二文字が、軒下の空気を少しだけ明るくした。
幹夫は、巣の下を見た。 燕の声がまた小さく聞こえる。
ちち。
小さい音。 小さい音は、生きている音。
幹夫は喉の奥が熱くなった。 熱いのは、安心の熱。 走らないように、息を入れる。
――いき。
「……父ちゃん……守った」
父は少し間を置いて、幹夫の頭を“掴まない撫で方”で軽く撫でた。
「……守った。……でも、追い払ったんじゃない。……近づけない“ここまで”を作った」
ここまで。 “守る”は、怒りじゃなく、境目なのかもしれない。
学校の教室は、チョークの粉の匂いがした。 乾いた匂い。 乾いた匂いは、言葉を少しだけ硬くする。
先生が黒板に、大きく字を書いた。
守
きゅっ、きゅっ。
「今日は“守る”の守。家を守る。命を守る。約束を守る。……読めるか」
教室が声を出す。
「まもる!」
声が集まると、胸が忙しくなる。 幹夫は袋を押さえて、息をひとつ入れた。
――いき。
先生が言った。
「守るってのは、閉じこめることじゃない。壊れないように、刺さらないように、場所を作ることだ。境目を作ることだ」
境目。 朝の父の「ここまで」。 ぴたり、と合った。
先生が続けた。
「じゃあ幹夫。おまえは何を守りたい?」
呼ばれた瞬間、教室の目が集まる。 目が集まると、胸がきゅっとなる。 きゅっとなる前に、息。
――いき。
幹夫は机の端を指で触って、“ここ”を作った。 ここ。 今ここ。
「……燕……です」
教室が、ふっと笑いそうな空気になった。 笑いは、刺さる日がある。
でも先生が、笑わない笑いで言った。
「いいな。小さい命を守りたいってのは、立派だ。守るってのは、強いものが弱いものにする仕事だ」
“立派”。 その言葉が、幹夫の胸の奥を少しだけ広げた。
正夫が後ろから小声で言った。
「みきぼー、つばめ守ったの?」
幹夫はうん、と言う前に息を入れた。
――いき。
「……朝、からす……来た。……父ちゃんが……糸、つけた」
正夫の目が丸くなる。
「守り糸! かっこいい!」
かっこいい。 子どもの“かっこいい”は、すぐ座る。
帰り道、軒下の貝殻が風で揺れていた。 ちい。 ちい。 眠った音が、守りの音になる。
幹夫は縁側の端で、いちど立ち止まって、巣を見上げた。 燕は巣のふちから顔を出して、すぐ引っ込んだ。 引っ込むのは、まだ恥ずかしいから。 恥ずかしいは、生きてる印。
――いき。
父が縁側の端で貝殻の糸を指でなぞっていた。 なぞると、結び目が座る。 座ると、守りが長持ちする。
父がぽつりと言った。
「……今日、学校で……守、書いたか」
幹夫は頷く前に息を入れた。
――いき。
「……うん。……燕、守りたいって言った」
父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。
ふう……。
「……いい」
短い“いい”。 短いのに、胸があたたかい。
母が台所から、欠けた椀――今は塩の皿――を持ってきた。 欠けたところは丸く削ってある。 刺さらない欠け。
「塩、これに入れるだに。欠けても、守れば使える」
守れば使える。 その言い方が、朝の烏の黒い声より強かった。
祖母が淡々と言う。
「守りゃ飯がうまい。……守らんと腹が荒れる」
夜。 飯の匂いが家の奥へ落ち着いたころ。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆。 白い継ぎ目は、今日もそこにある。 でも痛くない。
「幹夫。……今日はこれだに」
母がゆっくり書いた。
守
幹夫はその字を見た瞬間、軒下の貝殻の糸と、父の「ここまで」と、先生の「閉じこめるんじゃない」が一緒に浮かんだ。
母は上の形を指でなぞった。
「ここ、宀(うかんむり)だに。……屋根。家」
屋根。 巣の屋根。 布の屋根。 胸の屋根。
母は下をなぞった。
「こっちは寸(すん)だに。……手のひら、ちいさい手つき」
小さい手。 幹夫の手。 押さえる手。 置く手。
母は息をひとつ入れてから、低く言った。
「守るってのはな……屋根の下で、小さい手が“ここまで”を作る字だに。殴って追い払うんじゃない。囲って閉じこめるんじゃない。……近づけない境目を作って、息ができる場所を残す」
息ができる場所。 余地。 結び目の“ま”。
母は続けた。
「それとな、守るのは“もの”だけじゃない。言葉も守る。約束も守る。……怒りから守る。怖さから守る。守るってのは、暴れんように座らせることだに」
父が新聞紙の「守」を見て、ぽつりと言った。
「……俺、守るって……戦うことだと思ってた」
母は否定しない。 低く言った。
「うん。……でも戦うと、心が尖る。尖ると刺さる。……今日みたいに、糸で揺らして“ここまで”作るほうが、守りになることもあるだに」
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「尖るな。……尖ると手が切れる。守れ」
父が小さく息を吐いた。
ふう……。
「……尖らん守り……覚える」
覚える。 続く匂いの言葉。
幹夫は鉛筆を握った。 守を書く。
一回目の「守」は、宀が小さくて、字が窮屈な顔になった。 窮屈だと、守るが“閉じる”に見える。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「窮屈ならな……屋根を広げりゃええ。守るってのは、息の場所を作ることだに。……息、入れてから」
幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。
――いき。
二回目の「守」は、屋根が少し広くなって、寸の手も座った。 座ると、守れる字になる。
父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。
「……俺も、書く」
父の「守」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 最後の点を置く前に、父は一度止まって――息を吐いた。
ふう……。
吐いてから、点を置いた。
「……点、置くと……屋根が座るな」
母が小さく頷いた。
「うん。……座った屋根は、守りになるだに」
母は「守」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、貝殻の揺れる丸みたいに見えた。
夜更け。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、今日のページに震える字で書いた。
あさからすかぁ って なったかた うごいたでもま して息 していと と かいつけたつばめまもれた守いえ の したここまでみきぼうまもりたい って いえたうれしいいき
父がぽつりと言った。
「……みき坊。……守るの、こわい日もある」
幹夫は頷く前に息を入れた。
――いき。
「……うん。……でも、ここまで、があると……守れる」
父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。
ふう……。
「……ここまで……好きだ」
母の低い声が、暗い中で落ちた。
「好きって言えりゃ守れたってことだに。……自分の心も守れただに」
祖母が淡々と言う。
「守れりゃ飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」
また明日。 守れる明日。
幹夫は袋を押さえて、口の中で小さく言った。
――いき。
寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。
(とうちゃんへ も)
中に書く。
まもる(守)ってやね の した でちいさい て がここまで を つくる じ なんだねきょうからす きたとうちゃんかい の いとつけたつばめまもれたぼくうれしかったいき
最後に、小さく「守」。 丸をひとつ。 貝殻の丸。
紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは烏の黒い声の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。
翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、三つ重なっていた。
一枚目、母の字。
守 はやね の した でここまで を つくるいき の ばしょ を のこすうん
最後に、小さな丸。
二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。
みきぼうきのうからす の こえびく したでもま して息 してまもれた守 って じすこしおれ の むね の やねひろいありがとう
その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。
三枚目。 文字じゃなく――小さな白い貝殻。 糸が短く結ばれていて、揺らすとちい、と眠った音がする。 貝殻の横に、父の震える字で小さく、
ここまで
と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。
幹夫はその貝殻を掌にのせて、息をひとつ入れた。
――いき。
守る。 戦うんじゃなく、境目を作る。 屋根の下に息の場所を残して、尖らないように座らせる。
蒲原に、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、軒下で揺れる貝殻の小さな音と、父の「守れた」は届いた。 届いた“ここまで”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、刺さらない守り方を、そっと胸の中に座らせていった。





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