届の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月18日
- 読了時間: 10分

朝の「まちばこ」は、今日は空っぽじゃなかった。 薄い板が、ひとつ――角を丸くして、そっと入っている。
回覧板。
木の匂いと、紙の匂い。 匂いは静か。静かなのに、胸の奥をくすぐる。
幹夫は縁側のふちに座って、首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。
――いき。
母が台所の境目から、湯気の匂いを連れて言った。
「みき、これ……きのう夜に回すはずだっただに。黒布で手がふさがってて、うっかりした」
うっかり。 母の「うっかり」は、責める匂いじゃない。 人の手は、たまに落とす、っていう匂い。
父が縁側の端で、袖口の返し縫いを指でなぞっていた。 指が止まって、少しだけ息が遅れる。
ふう……。
「……次の家、清水屋だな」
母が頷く。
「そうだに。朝のうちに届けんと、次が動かん」
次が動かん。 次の次まで止まってしまう。 それは、糸が切れるのと似ている。
幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったのは、責任の音。 責任の音は、走りやすい。
走る前に、息。
――いき。
「……ぼく、届ける」
言ってしまってから、喉の奥が熱くなった。 熱いのは、言った自分が少し怖いから。 でも怖さは、言葉の後ろに座らせればいい。
父の肩が、ふっと上がりかけて――止まる。 止まった「間」に、父が懐へ触れて、丸い角の札を撫でた。
ふう……。
「……よし。……でも、急ぐな。……線、守れ。……ここまで、を持ってけ」
父は縁側の板に残っている白いチョーク線を指で示した。 “ここまで”。 線があると、胸が全部にならない。
母が、回覧板をいきなり渡さない。 置き布の上に、そっと置いてから、幹夫の手の位置を確かめる。
「掴まんで。受ける手だに。角、刺さらんように」
幹夫は回覧板の端を、指の腹でそっと触った。 固い。 固いけれど、布と紙の間に、ちゃんと余地がある。
――いき。
持ち上げる。 持ち上げた瞬間、板の重さが腕に来る。 重い。 でも、石の重さと違って、これは“誰かへ行く重さ”だ。
「いってきます」
幹夫は言って、玄関の敷居をまたぐ前に、いちど止まった。 止まると、足が落ち着く。
――いき。
「いってらっしゃい。……届いたら、戻っておいで」
母の「戻っておいで」は、線を引く声だった。
道は、潮と砂と木の匂いが混ざっていた。 蒲原の道は、混ざる匂いでできている。 混ざるけれど、ちゃんと分かれる。
回覧板を胸の前で受けるように持つと、歩き方が自然とゆっくりになる。 ゆっくりは、守り。
――いき。
途中、犬が一匹、塀の向こうで吠えた。
わん。
短い音。 短いのに、胸に刺さりそうになる日がある。
幹夫の肩が、ふっと上がりかけて――止まる。 止まった「間」に、幹夫は足を止めた。
――いき。
父の言葉が胸の中にある。
急ぐな。線、守れ。
犬の声のあとに、静かが来る。 その静かに息を置いた。
――いき。
犬はもう吠えなかった。 吠えないと、音は音のまま、道に落ちる。
清水屋の戸口が見えた。 いつもは味噌や干物の匂いがする家。 今朝はまだ、戸が少しだけ閉じている。
幹夫は戸を叩く前に、回覧板をいったん自分の足元の置き石の上に置いた。 置いてから、手を空にする。 空の手は、丁寧になる。
――いき。
とん、とん。
戸の向こうで足音がして、清水屋のおばさんの声がした。
「はいよ」
戸が少し開いて、おばさんの顔が出た。 顔が出ると、胸がほっとする。 人の顔は、門の中の光みたいだ。
幹夫は回覧板を持ち上げ、いきなり突き出さず、戸口の板の上にそっと置いた。
とん。
小さい音。 小さい音は眠る。
「……回覧板。……うち、きのう夜、回せなくて……今朝」
“回せなくて”。 言い訳みたいに聞こえないように、息をひとつ入れた。
――いき。
「……届けた」
おばさんは回覧板を見て、幹夫の顔も見て、頷いた。
「ええだに。夜は真っ暗だったでな。朝でええ。……みき坊、よう来たね」
よう来たね。 その言葉が、回覧板の重さを少し軽くした。
幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
「……はい」
おばさんは回覧板の角を指でなぞって言った。
「角、丸くしてある。……かあちゃんの手だに」
幹夫は小さく頷いた。 丸い角は、刺さらない。
おばさんが最後に言った。
「ちゃんと届いたで。……帰り、気ぃつけて」
届いたで。 “届いた”が、胸の中であたたかく座った。
――いき。
幹夫は戸口から離れる前に、いちど頭を下げた。 下げたあと、足を出す。 ゆっくり。 戻る線を守って。
学校の教室は、チョークの粉の匂いがした。 乾いた匂い。 乾いた匂いは、言葉を急がせる日がある。
先生が黒板に、大きく字を書いた。
届
きゅっ、きゅっ。
「今日は“とどく”の届。読めるな」
教室が声を出す。
「とどく!」
声が集まると、胸が忙しくなる。 幹夫は机の端に指を置いて、“ここ”を作った。
――いき。
先生が言った。
「届くってのは、向こうに着くことだ。届くまでには、道がある。道の途中で落ちたり、別のものになったりする」
別のもの。 昨日の伝言遊び。 『ゆっくり』が『早く』になったやつ。
先生は黒板の字を指でとん、と叩いた。
「左は“尸(しかばね)”って習うが、今は“屋根”みたいに覚えろ。中の“由”は、出どころだ。家の中から外へ出て、ちゃんと着く。これが届だ」
家の中から外へ。 門の外と門の中。 言葉も紙も、出ていって、着く。
先生が続けた。
「大事なのはな、“届いた”って確かめることだ。言っただけじゃだめだ。渡しただけでも、まだだ。相手の手に入って、相手が『届いた』と言って、初めて届く」
届いたと言って。 清水屋のおばさんの声が、胸の中でふっとよみがえった。
ちゃんと届いたで。
幹夫の胸が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
先生が言った。
「おまえらも、家へお知らせを届けろ。余計な怖さを足すな。『先生が言った』は『先生が言った』のまま。届くように、ゆっくりな」
ゆっくり。 また出た。 ゆっくりは、届くための速度。
休み時間、正夫が机に顔を近づけて言った。
「みきぼー、届くって、いいね。届くと、なんか胸が落ち着く」
幹夫はすぐ頷かず、息を入れてから言った。
――いき。
「……うん。……届くと……終われる。……次へいける」
正夫が嬉しそうに笑った。
「次へいける! 続く! つづくための“届”だ!」
続くための届。 それは、ちょっとだけかっこいい言い方に聞こえた。
帰り道、踏切が鳴った。
カン、カン、カン。
でも幹夫は、鐘の“あいだ”を探して、息を入れた。
カン、……(いき)……カン、……(いき)……
音の中にも、届く道がある。 静かが届く道。
――いき。
家の戸口が見えて、幹夫は足を少しだけ速めそうになって――止めた。 止めると、届く。
“届く”は、走ることじゃない。 落とさないこと。
家に入ると、母が台所の境目から顔を出した。
「届けたかい」
幹夫はすぐ答えず、まちばこの前でいちど止まった。 止まって、息。
――いき。
「……届けた。……おばさん、届いたって言った」
母が小さく頷く。
「それなら届いただに。……よし」
よし。 吉の匂い。 結の夜のよしが、ここへ来た。
父が縁側から顔を出した。 父の目が、幹夫の顔に落ちる。 今ここで見る目。
「……届いたか」
――いき。
「……うん。……落とさなかった」
父の肩がふっと上がりかけて――止まる。 止まった「間」に、父が自分で息を吐いた。
ふう……。
「……落とさないの、強いな」
強い。 父の強いは、殴らない強さ。 続く強さ。
母が、ぶつけない声で言う。
「届くってのはな、相手の胸まで押しこむことじゃないだに。相手の戸口に、そっと置く。受けてもらえる形で」
戸口に、そっと置く。 それは、まちばこのやり方にも似ていた。 声でぶつけないで、置く。
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「押しこむな。……押しこむと刺さる。置け。届けばええ」
置け。 置けば届く。 今日の家の決まりが、また座る。
夜。 飯の匂いが家の奥へ落ち着いたころ。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆。 白い継ぎ目は、今日もそこにある。 でも痛くない。
「幹夫。……今日はこれだに」
母がゆっくり書いた。
届
幹夫はその字を見た瞬間、朝の回覧板と、清水屋の戸口と、「届いたで」の声が一緒に浮かんだ。
母は上の形を指でなぞった。
「ここ、尸だに。……屋根みたいな形だに。家の中、って感じ」
家の中。 門の中。 安心の中。
母は下を指でなぞった。
「ここ、由だに。……出どころ。中から外へ、って道」
道。 線。 間。 息。
母は息をひとつ入れてから、低く言った。
「届くってのはな……家の中のものが、道を通って、外の誰かのところへ着く字だに。着くってのは、ぶつかることじゃない。相手が受け取れる形で着く。……届いた、って相手が言えると、ほんとに届いた」
父がま札を指で撫でて、ぽつりと言った。
「……俺、届くって……遠いことだと思ってた」
母は否定しない。 低く言った。
「うん。……遠いこともある。届かん日もある。けどな、近くでも“届かん”ことがあるだに。怒りが邪魔したり、怖さが邪魔したり。……だから、ま。息。線。門。落ち着いて渡す。そうすると、近くでも届く」
近くでも届く。 父の「許す」や「守る」が、そうだった。
祖母が淡々と言う。
「届けば飯がうまい。……届かんと腹が荒れる。荒れりゃ言葉が飛ぶ」
言葉が飛ぶ。 飛ぶ言葉は、落ちやすい。 落ちやすい言葉は、刺さりやすい。
父が小さく息を吐いた。
ふう……。
「……俺も……届く言葉、使いたいな」
幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
幹夫は鉛筆を握った。 届を書く。
一回目の「届」は、屋根が小さくて、字が窮屈な顔になった。 窮屈だと、道が塞がるみたいに見える。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「窮屈ならな……屋根を少し広げりゃええ。道が通る分だけ。……息、入れてから」
幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。
――いき。
二回目の「届」は、屋根に余地ができて、由がすとんと座った。 座ると、届く字になる。
父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。
「……俺も、書く」
父の「届」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 最後の点を置く前に、父は一度止まって――息を吐いた。
ふう……。
吐いてから、点を置いた。
「……点、置くと……着いた、って感じするな」
母が小さく頷いた。
「うん。……着いたら、次へ行けるだに」
母は「届」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、回覧板の角を丸くしたみたいに見えた。
夜更け。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、震える字で書いた。
あさかいらんみきぼうとどけたおとさなかった「とどいた」 っていわれた届いえ の なか からそと へみち を とおってつくおれ の ことば もとどけたいいき
父がぽつりと言った。
「……みき坊。……届かん日もあるな」
幹夫は頷く前に息を入れた。
――いき。
「……うん。……でも、落とさなければ……届きやすい」
父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。
ふう……。
「……落とさない、って……ま、だな」
母の低い声が、暗い中で落ちた。
「うん。……ま、して置けば、届く。ぶつけたら届かん」
祖母が淡々と言う。
「置けりゃ飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」
また明日。 届く明日。
幹夫は袋を押さえて、口の中で小さく言った。
――いき。
寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。
(とうちゃんへ も)
中に書く。
とどく(届)っていえ の なか からみち を とおってつく じ なんだねきょうぼくかいらんおとさなかったおばさんとどいた って いったぼくうれしかったいき
最後に、小さく「届」。 丸をひとつ。 着いた丸。
紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは犬の短い声の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。
翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、三つ重なっていた。
一枚目、母の字。
届 はいえ の なか からそと へみち を とおって つくおとすなぶつけるなうん
最後に、小さな丸。
二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。
みきぼうきのうとどけた な「とどいた」 がきけてたすかった届 って じすこしおれ の むねつくありがとう
その下に、丸がひとつ。
三枚目。 文字じゃなく――薄い板の切れ端みたいな、小さな木片。 角が紙で包んで丸くしてある。刺さらない。 包みの端に、父の震える字で小さく、
とどいた
と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。
幹夫はその包みを掌にのせて、息をひとつ入れた。
――いき。
届く。 家の中から、道を通って、誰かの戸口へ着く。 ぶつけない。 落とさない。 相手が「届いた」と言える形で置く。
蒲原に、サイレンは届かなかった。 けれど今日、回覧板の重さと「届いたで」の声は届いた。 届いた丸を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、刺さらない“着き方”を、そっと胸の中に座らせていった。





コメント