幹の字
- 山崎行政書士事務所
- 2 日前
- 読了時間: 10分

朝の楠の幹は、まだ雨の冷たさを抱えていた。 樹皮の溝に、夜の水が細く残っている。 残った水は、光を思い出す前の黒さをしている。
幹夫は縁側のふちに座って、首の布の袋を掌で押さえた。 袋の中には、丸い木片。 庭で剪った枝の、輪切りの小さな木。 年輪が、渦みたいにいくつも入っている。 鳴らない。 鳴らないのに、ちゃんと重い。 木の時間の重さ。
――いき。
息を入れると、胸の中に一本の柱が立つ。 柱は、揺れても折れない場所を探す。 幹夫の名前の一文字。 幹。 木の、まんなか。
「まちばこ」のふたが、ほんの少しだけ浮いていた。 浮いているのは、誰かの困りが入った印。 困りは、言う前に角が立つから、箱で丸くする。
母がふたを開ける。 中には、小さな紙。 角が丸く折ってある。 丸い角は刺さらない。 刺さらないと、手が取れる。
母の目が、紙の文字を追って、そこで止まった。
くす の みき われて こわいよかったら きてください やしろ
くす。 楠。 みき。 幹。
幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったのは、紙の「みき」が、幹夫の「幹」に触れた音。 同じ音は、胸に近い。
――いき。
父が土間から顔を出した。 紙を受け取る前に、いったん膝の上の布に置く。 置くと、手が急がない。 父は指の腹で紙の端を撫でた。 撫でると、紙が暴れない。 暴れないと、言葉も刺さらない。
父の目が「みき」で止まる。 止まると、肩がふっと上がりかける。 上がるのは怒りじゃなく――怖さの準備。
上がりかけて――止まった。
止まった「間」に、父は懐に触れて、小さな札を撫でた。 “ま”の札。 父は肩が上がりきる前に、そこを撫でる。
ふう……。
「……楠か」
短い。 短いのに、“太さ”が入っている。
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「楠の幹は町の背骨だ。……割れりゃ、枝も泣く」
背骨。 幹。 幹夫の胸の柱が、少しだけきゅっと固くなる。 固いと折れやすい。 折れる前に、息。
――いき。
母が頷いた。
「うん。……雨のあとで割れること、あるだに。濡れて膨らんで、乾きはじめで引くと、ぱきって」
乾きはじめ。 乾く前の、揺れる時間。 その時間は、いちばん“間”がいる。
父が納屋から荒縄と竹の棒を出してきた。 縄は乾いた匂いがする。 乾いた匂いは、手を少し固くする日がある。 竹は軽い。 軽いのに、支える力がある。 支えは、重くなくていい。
「……みき坊。……おまえは、竹を当てる位置を見ろ。……押すな。……添えろ」
添える。 押しこまない添え方。 幹夫は頷く前に息を入れた。
――いき。
「……うん」
道は、雨の匂いがまだ低く残っていた。 土の匂い。 草の匂い。 海のほうからは、塩の匂いが薄く来る。 蒲原の朝は、山と海のあいだの“間”にある。
踏切の前で、遠くから電車の音が近づいてきた。
がたん……ごとん……。
鉄の音。 鉄の音は硬い。 硬いのに、一定だと安心にもなる。
父がぽつりと言った。
「……幹線だ」
幹。 また、幹。 幹線は、町の道の幹。 枝みたいな小道が、そこへ寄っていく。
幹夫は、袋の木片を掌で押さえた。 年輪の渦が、線路みたいに見えた。 渦の中心が、幹。
――いき。
神社の境内は、湿った葉の匂いがした。 砂利が少し沈んでいて、歩くと音が丸い。 丸い音は刺さらない。
社の横に、楠が立っていた。 幹が太い。 太いのに、雨上がりの光をまだ抱えている。 幹の途中に、白い線が走っていた。 裂け目。 裂け目は、木の肌が開いてしまった場所。
社守のじいさんが、手を胸の前で擦りながら立っていた。 擦る手は、言葉より先に不安を出す。
「おはようだに……すまん。昨夜、風が……朝見たら、ここが……」
じいさんの指が、裂け目の近くで止まる。 止まる指は、触れたくない指。 触れたら壊れそうだから。
幹夫の胸が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
父は、すぐ「大丈夫だ」と切らなかった。 まず、幹を見る。 裂け目の端。 樹皮の盛り上がり。 木の湿り。 見ると、怖さが“形”になる。 形になると、手が出せる。
父の肩が、ふっと上がりかける。 上がるのは、折れる前の怖さ。
上がりかけて――止まった。
止まった「間」に、父が口の中で言った。
「……割れだ」
名前を置く。 置けると、割れが全部にならない。
ふう……。
父は裂け目に指を入れない。 指を入れると、広がる日がある。 広がるのは、刺さる。 父は裂け目の外側を、指の腹でそっと撫でた。 撫でると、木が怒らない。
「……ここで止まってる。……まだ、木が持ってる」
持ってる。 幹が持ってる。 じいさんの肩が少し落ちた。 落ちると、息が通る。
「……持ってるなら……助かるか」
父が短く頷いた。 頷いてから、線の言葉を置いた。
「……今は、支える。……割れが広がらんように。……でも、締めすぎん」
締めすぎん。 幹夫の袋の木片が、掌の中で静かに重くなる。 締めると、木は苦しい。 苦しいと、折れる。
父が竹を幹に当てる位置を見た。 裂け目の左右。 左右から、添える。 竹は、幹の丸みに沿って少し浮く。 浮くところが、木の呼吸の場所。
「……みき坊。……ここ、見ろ。……竹が当たるとこ、痛いとこだ。……痛いとこだけ、受けてやる」
受ける。 押すんじゃない。 幹夫は竹を持った。 掴むけれど、掴みこまない。 受ける手で、そこにいる。
――いき。
父が縄を回す。 ぐる。 ぐる。 縄が幹を抱く音は、乾いた擦れ。 擦れは痛いことがある。 痛い前に、間。
父の肩がふっと上がりかけた。 上がりかけて――止まる。
止まった「間」に、幹夫は小さく言った。
「……ま」
父が、ふう、と吐いた。
ふう……。
「……ま、だな」
父は縄を、いきなりぎゅっと締めない。 少し締めて、少し戻す。 結び目の中に、ちいさな“余地”を残す。 余地は、木の息の穴。
縄が座る。 座ると、幹が怒らない。 怒らないと、割れが広がらない。
じいさんが、恐る恐る言った。
「……縄、ゆるいみてえだが……」
ゆるい。 ゆるいは、怠けじゃなくて――生きる間。
父がすぐ否定しない。 一度、楠の葉を見上げる。 葉が、雨のしずくをまだ少し持っている。 持っているのに、揺れる。
「……木は、太る。……昼に太って、夜に少し引く。……きついと、太るときに刺さる。……だから、ゆるいぐらいでいい」
じいさんの目が、少しだけ柔らかくなった。 柔らかい目は、受け取る目。
「……なるほどだに……木にも、間か」
幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
縄を結び終えると、楠の幹が少しだけ落ち着いたように見えた。 落ち着きは、音じゃなく――空気の座り方で分かる。
じいさんが、深く頭を下げた。
「……助かった。……この楠、町のもんだで……折れたら、胸が折れる」
胸が折れる。 幹が折れるみたいに。 父はすぐ「いいえ」と切らず、まず頷いて、言葉を置いた。
「……うん。……折れる前でよかった」
“前でよかった”。 祖母の言う“前”。 刺さる前。 割れる前。
帰り道。 踏切の向こうで、電車がまた鳴った。
がたん……ごとん……。
幹夫は線路を見て、胸の柱を思った。 幹線。 枝道。 木の幹。 枝。 どれも、まんなかが座ると、揺れても続く。
――いき。
学校の教室は、乾いたチョークの匂いがした。 乾いた匂いは、線の角を立てやすい。 角は刺さることがある。
先生が黒板に、大きく字を書いた。
幹
きゅっ、きゅっ。
「今日は“みき”の幹だ。読めるな」
教室が声を出す。
「みき!」
声が集まると、胸が忙しくなる。 幹夫は机の端に指を置いて、“ここ”を作った。
――いき。
先生が言った。
「幹はな、木のまんなかだ。枝や葉っぱを支える柱だ。――風で枝が揺れても、幹が座ってると木は倒れん」
座ってる。 父の言う“座る”。 母の言う“座る”。 座ると、刺さらない。
先生は黒板の左を指でなぞった。
「左は木へん。木だ。――右はな、乾くの“乾”の右側と同じ形だと思っていい」
乾く。 今朝の縄の匂い。 乾いた匂い。 でも、楠は濡れていた。 濡れと乾きの間で、生きていた。
「木は雨を吸って膨らむ。乾いて引く。――その行ったり来たりを、真ん中で受けるのが幹だ」
受ける。 幹夫の受ける手。 楠の幹の受ける力。
正夫が横から小声で言った。
「みきぼー、今日、おまえの字じゃん」
幹夫はすぐ返さず、息を入れてから言った。
――いき。
「……うん。……でも、まだ……書けん」
正夫が目を丸くする。
「え、書けないの? みきぼーなのに?」
幹夫の胸が、ぽん、と鳴った。 鳴ると、急いで言い返したくなる。 急ぐと刺さる。 刺さる前に、間。
――いき。
「……幹は……太いで……むずい」
正夫がにっと笑った。
「太いって、いいじゃん! 俺の字、細っこいもん!」
笑い声は、角が丸いと刺さらない。 幹夫の胸の柱が、少しだけゆるむ。 ゆるむと折れない。
夕方。 家の中に、煮物の匂いが戻ってきたころ。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆。 白い継ぎ目。 でも痛くない。
「幹夫。……今日はこれだに」
母がゆっくり書いた。
幹
幹夫はその字を見た瞬間、楠の裂け目の白さと、縄のゆるさと、先生の黒板が一緒に浮かんだ。 浮かぶと胸がぽん、と鳴る。 鳴ったから、息。
――いき。
母が左をなぞった。
「ここ、木だに。……木へん」
母が右をなぞった。
「こっちは、乾くの“乾”の右側みたいだに。乾くってのは、水が引いて、間ができるってことだに」
間。 また、間。 幹は、間を受ける。 間を残す。
母は声を少し落として言った。
「幹ってのはな……枝みたいに広がらん。葉っぱみたいに見せびらかさん。けど、真ん中で支える。――支えるってのは、押しこむことじゃないだに。座らせることだに」
父が縁側の端からぽつりと言った。
「……今朝……楠の幹……割れてた。……怖かった」
父が“怖かった”を口にする。 それだけで、幹夫の胸の奥がぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「幹が割れると枝が暴れる。……人も同じだ。……胸の幹が割れると口が刺さる」
父が小さく息を吐いた。
ふう……。
「……でも……みき坊が『ま』って……俺の肩、止まった。……助かった」
助かった、の代わりに、座った、が来る。 幹夫は袋の木片を掌にのせた。 年輪の渦が、静かに回っているみたいに見える。
――いき。
幹夫は鉛筆を握った。 幹を書く。
一回目の「幹」は、木へんが強く出て、右が押しこまれて、字が窮屈な顔になった。 窮屈な字は、読む人の息も窮屈にする。
「ええ」
母が言った。 転んでもいい「ええ」。
「押しこみそうならな……力を小さく置け。幹は太いけど、線は怒らせん。――息、入れてから」
幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。
――いき。
二回目の「幹」は、木へんが立って、右の形に少し余地ができた。 余地があると、字が呼吸する。 呼吸すると、幹になる。
父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。
「……俺も、書く」
父の「幹」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 最後の横線の前で、父は一度止まって――息を吐いた。
ふう……。
吐いてから、線を置いた。
「……止まると……幹が座るな」
母が小さく頷いた。
「うん。……止まれるのが幹だに」
夜更け。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、震える字で書いた。
けさ やしろ の かみくす の みき われて こわいってかみ が きたみき って かいて あっておれ みきぼう の なまえ おもいだしたみき は き の まんなか だって せんせい いったくす の みき しばるとき きつく しめると ささるま を のこしたま の なか に みき が すわるいき
父がぽつりと言った。
「……みき坊。……幹ってのは……強いだけじゃねえな」
幹夫は頷く前に息を入れた。
――いき。
「……うん。……ま が あると……折れん」
父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。
ふう……。
「……おまえの名……いいな。……幹、って」
母の低い声が、暗い中で落ちた。
「名にある字はな……胸の柱になるだに。柱は、固めすぎん。余地を残す。――余地があると、人も木も、明日へ続く」
祖母が淡々と言う。
「続けば飯がうまい。……うまけりゃ、また明日だ」
また明日。 幹の明日。 枝の明日。 間の明日。
幹夫は袋の木片を押さえて、口の中で小さく言った。
――いき。
翌朝。 まちばこのふたは、畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。 小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、二つと、ひとつ。
一枚目、社守の字。
くす の みき しずかに なったしめすぎない のが みき の いき だと わかったありがとう
最後に、小さな丸。
二枚目、母の字。
幹 は き の まんなかま を のこせば き も ひと も すわるいき して かけ うん
最後に、丸。
三つ目は、紙じゃなく――楠の葉。 掌ほどの大きい葉。 表はつるり。 裏は白っぽい。 裏の白は、光を受ける前の白。 今朝の幹の白と似ていた。
幹夫は葉を掌にのせて、息をひとつ入れた。
――いき。
幹は、木のまんなか。 枝を支える。 風を受ける。 濡れて膨らんで、乾いて引いて――その行ったり来たりを、真ん中で受ける。 受けるために、締めすぎない。 余地を残す。 間を残す。
蒲原の朝は、山と海のあいだで今日も揺れる。 その揺れの真ん中に、楠の幹が座っている。 幹夫の胸の中にも、一本の柱が座っていく。
葉の丸さを落とさないように、幹夫は掌でそっと包んで――今日も、自分の名の字を、刺さらない太さで、胸の中に座らせていった。





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