時の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月4日
- 読了時間: 6分

雨の朝は、音が少ない。
少ないのに、胸の中の音だけがよく聞こえる。布団の中で幹夫は目を開け、障子の向こうの白さがいつもより濁っているのを見た。濁った白は、空が泣きそうな顔をしている白だ。
台所では祖母が火を起こしていた。薪が湿っていて、煙の匂いがいつもより重い。重い匂いは、喉に引っかかる。引っかかると、言葉が出にくくなる。
母は縫い物をしていた。
針が布に入って、出る。
入って、出る。
返し縫いの動きが、雨の日の呼吸みたいにゆっくりで、幹夫はその音に耳を預けた。
ごぉん――。
遠くで、鐘が鳴った。
寺の鐘。昨日覚えた「寺」の字が、音と一緒に胸の中へ入ってきた。
ごぉん――。
幹夫は、思わず内ポケットの紙を指で確かめた。
母の字の「まだ は いきてる ってこと」。
折り目の中の「うん」。
紙は薄いのに、そこだけが少し重い。重いと、胸の中の小さな警報が丸くなる。
「鐘、今日はよう響く」
祖母が湯呑みを置きながら言った。
母は針を止めずに、小さく頷いた。雨の日は音が遠くまで行く。遠くまで行く音は、戻ってくるのも遅い。遅い戻りは、待つの字みたいだと思った。
幹夫は、ぽつりと言った。
「鐘って……サイレンみたい?」
言ってしまってから、しまったと思った。
サイレン、という言葉は家の中で固くなることがある。固くなると、母の眉間が固くなる気がして怖い。
でも母は眉間を固くしなかった。
母は針を抜き、糸を指で押さえてから、幹夫を見た。
「似てるとこもあるけど……違う」
母はそう言って、少しだけ息を吐いた。湯気みたいな息。薄いのに、ちゃんと届く。
「サイレンは、急がせる。鐘は……知らせる」
知らせる。
郵便局の消印の「どん」。役場の赤い印の「どん」。
どれも大きな声じゃないのに、残る知らせ方だ。
祖母が言った。
「鐘はな、昔から時刻を言うで。海ぇ出るもんは、あれ聞いて動く」
時刻。
幹夫の胸の中で、昨日書いた「待」が少しだけ動いた。待つ、は、時の中にいる。寺の字が中にいる待つ。
ごぉん――。
鐘がもう一度鳴って、雨の匂いの中へ沈んでいった。
沈んでいく音は、終わりじゃなくて、続きのために沈んでいく音に聞こえた。
朝飯のあと、母はちゃぶ台の上に新聞紙の裏を広げた。
真っ白じゃない白。
真っ白じゃないのがありがたい。真っ白だと、書く前から「汚す」が先に来る。
竹を継いだ鉛筆が、幹夫の前に置かれた。
竹の継ぎ目は、掌に当たると少し痛い。痛いのに、その痛さが支えになる。痛い支えは、逃げないための支えだ。
「今日はな」
母が言って、鉛筆を取った。
母の指が竹の継ぎ目を越えるとき、幹夫の胸がちくりとした。自分の大事なものが、母の大事な用事に使われるちくり。
「“時”を書く」
時。
その音は、口の中で丸くなる。
丸くなるのに、胸の奥は少し冷える。時は進む。進むものは、戻らない。
母はゆっくり書いた。
時。
幹夫は目をこらした。
左に「日」みたいな形。右に――寺。
昨日の門で写した「寺」が、ここにもいる。寺は待つだけじゃない。時の中にもいる。
「ほれ、見て。寺、入っとるだろ」
母が指で右側をなぞる。
なぞると、鉛筆の黒が少しだけ指に移る。母は拭わなかった。拭わない指は、言葉を逃がさない指だ。
「日と寺で、“時”」
日。寺。
明の字のときも、日と月が入っていた。
字の中に、空のものが入っていると、急に「ほんとう」みたいになる気がする。
幹夫は、思わず聞いた。
「なんで、寺?」
母は少しだけ困った顔をして、それから困ったまま、祖母のほうをちらりと見た。
祖母は鍋のふたを洗いながら、「寺ぁ鐘つくでな」と言った。淡々とした声。泣く人の分まで淡々とした声。
母はそれを受け取って、幹夫に戻ってきた。
「寺はな、鐘が鳴る。……鐘で時を知る。だから、寺が入る」
鐘で時を知る。
幹夫は、さっきのごぉん――を思い出した。音が、時になって家へ届く。サイレンは届かなかったのに、鐘は届く。届く音が時を作るなら、待つという字も少しだけ息がしやすい。
母は続けた。
「待つってのは、時の中で待つってことだに」
時の中で待つ。
言い方が、少し怖かった。時は進む。進む時の中で待つのは、置いていかれる感じがする。
でも母の声は、置いていく声じゃなかった。ほどけないように言葉を置く声だった。
「ほれ、やってみ」
幹夫は鉛筆を握り直した。
まず、日。四角。中に線。
次に、寺。屋根、土、寸――母の指の動きを思い出しながら、線を置く。
途中で、手が震えた。
震えると、線がよけいに子どもになる。子どもの線は、すぐ「違う」顔をする。違う顔をすると、胸の中の警報がちくりと鳴る。
幹夫は息を止めて、もう一度書いた。
急がせない。
針みたいに、入って、出る。
入って、出る。
二つ目の「時」が、少しだけ「時」になった気がした。
なった気がしただけで、胸がふっと温かくなる。温かくなると、時は怖いだけじゃなくなる。
「よし」
母が言った。
その「よし」は、紙の上の丸みたいに、角を丸くする言葉だった。
母は「時」の横に、小さな丸をひとつ描いた。
消印の丸じゃない。
受け付けの赤い印でもない。
ただ、「ここまで」の丸。
幹夫はその丸を見て、思った。
時は進むけれど、ここまで、は置ける。
置けるなら、迷子になりにくい。
昼過ぎ、雨が少し弱くなった。
弱くなると、海の匂いが戻ってくる。潮の匂いは、家の匂いと混ざると安心の匂いになる。安心は、痛みも一緒に連れてくるけれど。
母は縫い箱の下をそっと確かめて、幹夫の「てら」の紙を取り出した。
開いて、見て、畳んだ。
畳むのが丁寧だった。丁寧に畳むのは、預かるためだ。
母はその紙の裏に、小さく足した。
足したのは、幹夫が今日覚えた字。
時。
そして、その下に、母のひらがなで書いた。
> とき は すすむ
> でも しるし は のこる
最後に、小さな丸。
幹夫はその紙を胸に当てた。
紙が体温を吸って、少しだけしなる。
しなる音が、返事の音に聞こえた。
「母ちゃん」
幹夫は言いかけて、言葉が出なかった。
ありがとう、と言いたい。
でも言うと、紙が軽くなって飛びそうで怖い。
軽くなるのが怖いから、幹夫は代わりに、首を小さく動かした。
うん。
母はそれを見て、湯呑みを置いた。
置き方が、少しだけ柔らかかった。
夕方、鐘は鳴らなかった。
雨が止みかけて、空が少し明るくなったからかもしれない。
鳴らない鐘を思うと、幹夫はふと、鳴らないサイレンを思い出した。
鳴らないものは、届かないもの。
届かないものは、なかったことになるわけじゃない。
なかったことになるわけじゃないから、胸の奥が騒ぐ。
幹夫は控え帳を開き、今日の日のところに、ひらがなで書いた。
> てらの かね
> とき
その横に、今日書けた「時」をひとつ置いた。
字がそこに座るだけで、今日が少しだけ片づく。片づくと、夜が来ても息ができる。
夜、布団に入る前に、幹夫は内ポケットの鉛筆を確かめた。
硬い。
硬さは支えになる。
支えがあるなら、時が進んでも、全部が流れていくわけじゃない。
折り目と、丸と、綴じ糸と、母の「うん」。
それらは、時の中で小さく残っていく。
蒲原には、サイレンは届かなかった。
でも、寺の鐘は届く。
そして今日、幹夫は「時」という字の中に寺がいることを覚えた。
待つ字の右側にいた寺が、時の右側にもいる――そのことが、幹夫の胸の奥をほんの少しだけ明るくした。




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