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歩の字

 朝、戸口の土間に差す光が、きのうより少しだけ白かった。 白い光は、埃を見せる。埃を見せる光は、生活を生活のまま立たせる。

 父は、草履の緒を指でいじっていた。 いじって、止めて、またいじる。 結び目ほど硬くない、小さな輪を作ってはほどく手つき。

 その手を見て、幹夫は上着のポケットの石を握った。 丸い石。冷たい。重い。 重いのに痛くない。 角がない重さは、「見ていい」をくれる。

 母は台所の境目に立って、声を急がせないまま言った。

「……どこ行く」

 問いかけなのに、詰める問いじゃない。 「行かない」も座れる声だった。

 父は草履から目を離さず、ぽつりと言った。

「……歩いてみたい」

 歩いてみたい。 その言葉は軽いのに、胸の奥で重かった。 重いのに刺さらない。 刺さらない重さは、丸い石の重さに似ていた。

 母はすぐ頷かなかった。 喉が小さく動いて、息がひとつ入ったのが幹夫には分かった。

 ――まず、いき。

「……どこまで」

 母の声は低い。倒れない低さ。 父は少し考えるみたいに、草履の緒をゆっくり引いた。

「……浜の角まで。……波、近いとこまで」

 波。 「話」の字で出た波。 「聞」の字で入った波。 父の中で、波が少しずつ“ここ”になっていく。

 母は、短く言った。

「幹夫、行くか」

 幹夫は頷きかけて、いちど止まった。 止まるのは、怖いから。 でも止まっても、逃げてはいない。

「……行く」

 声が出た。 出た声が、畳の目の上に座った。

 父は、そこでやっと顔を上げた。 目が来るまでの「間」はまだ長い。 でもその間に、幹夫は息を入れられた。

 ――いき。

「……みき坊、頼む」

 頼む。 手が繋がる言葉。 幹夫の胸が、ぽん、と鳴った。鳴るのに、叫ばない。

 外へ出ると、風が思ったより冷たかった。 冷たい風は、耳の中を洗う。 洗うと、遠い音が近づく。

 砂利を踏む音。 どこかの戸が閉まる音。 遠くで、汽車の気配みたいな低い唸り。

 父は最初の一歩を、いちどだけ大きく踏んだ。 大きく踏むと、土が沈む。沈むと「重さ」が分かる。

 次の一歩は、小さかった。 小さい一歩。 小さいのに、確かに前へ進む。

 父は歩きながら、息をひとつ、ゆっくり出した。 吐く息が白い。 白い息は、見える。見えると、「出ている」が分かる。 分かると、少しだけ怖さが丸くなる。

「……土、固いな」

 父がぽつりと言った。 土が固い、なんて、どうでもいい話なのに――どうでもいい話が出るのが、幹夫には嬉しかった。 どうでもいい話は、生活の匂いがするからだ。

 幹夫は、返事のかわりに頷いた。 頷くと、石がポケットの中でこつ、と鳴った気がした。 小さいのに、腹に届く音。

 道の角を曲がると、潮の匂いが濃くなる。 濡れた縄の匂い。 海藻の匂い。 乾ききらない木の匂い。

 父の肩が、ふっと上がった。 上がって、止まった。 止まった「間」に、幹夫は息を入れた。

 ――いき。

 父は、足を止めないまま、ぽつりと言った。

「……匂い、覚えとる」

 覚。 「背中だけ」と言った日の覚。 匂いだけでも戻ってくる覚。

 幹夫は小さく言った。

「……ここだに」

 母の言い方を真似したら、少し恥ずかしかった。 でも恥ずかしさは、刺さらない恥ずかしさだった。家の匂いがしたから。

 父は、ほんの少しだけ口の端を上げた。 笑いきれない上がり方。 でも今日は、その上がり方が昨日より丸い。

 浜の角が見えるころ、金属がぶつかる音がした。

 がん。

 波の音じゃない。 木でもない。 硬い音。

 父の背中が、一瞬で固くなった。 固くなると、空気が尖る。 尖ると、幹夫の胸の中の警報も尖りかける。

 だから、息。

 ――いき。

 幹夫は石を握り直した。 冷たさが、胸の熱を少し丸くする。

 父の足が止まった。 止まって、父の喉がごくりと動いた。 動いて、でも言葉にならない。

 幹夫は父の横顔を見て、勇気を出して言った。

「……がん、って音。……桶だに。たぶん」

 断言じゃない。 たぶん、の逃げ道がある言い方。 逃げ道があると、言葉は刃になりにくい。

 父はすぐ頷かなかった。 目が遠い。遠いのに、逃げない。 そして、息をひとつ、ゆっくり出した。

「……いまのは……桶か」

 言えた。 言えたことが、幹夫の胸の奥をあたためた。

 浜の角を曲がると、男が桶を重ねていた。 桶の縁が当たって、さっきの「がん」になったのだ。 男は父に気づいて、いちどだけ視線を落とし、それから小さく言った。

「……戻ったな」

 言い方が派手じゃない。 派手じゃない言い方は、痛くない。

 父は、返事までに少し間があった。 その間に、幹夫は息を入れた。

 ――いき。

「……ああ。……少しずつだら」

 少しずつ。 父の口から出た「少しずつ」が、波の音に混ざって、砂の上で丸くなった気がした。

 男は「おう」と頷いて、余計なことを言わなかった。 言わない優しさが、潮の匂いと一緒にあった。

 帰り道、父の歩幅はさっきより少しだけ揃っていた。 揃っているのに、急がない。 急がない揃い方は、落とさないための揃い方だ。

 父がぽつりと言った。

「……歩くって、息だな」

 幹夫の胸が、ぽん、と鳴った。 鳴るのに、叫ばない。 叫ばない鳴り方は、「続き」の鳴り方。

 幹夫は小さく言った。

「……自と心」

 息の字。 鼻と胸。

 父は、ふっと息を吐いた。

「……そう。……走りそうになったら、戻す」

 戻す。 帰。 息。 字が、道の上で手をつないだ。

 家へ戻ると、母がちゃぶ台を拭いていた。 拭き方が丁寧すぎない。 丁寧すぎないと、生活の手つきになる。

 母は二人の足元を見て、声を落として聞いた。

「……どうだった」

 父は草履を脱ぎながら、短く言った。

「……歩けた。……止まったけど」

 止まったけど。 止まった、を隠さない言い方。 隠さないと、胸の中で固くならない。

 母は「うん」と頷いて、間をひとつ置いてから言った。

「止まってええ」

 許し。 その許しは、すこし温かかった。

 母は新聞紙の裏を広げて、竹を継いだ鉛筆を取った。 継ぎ目の硬さが、今日も頼もしい。

「幹夫。……今日はこれ」

 母がゆっくり書いた。

 歩

 幹夫は目をこらした。 どこか見覚えがある形が二つ、くっついている。

 母は指で左をなぞった。

「これ、止だに。止まる、の止」

 次に右側の下をなぞった。

「こっちは……少、が入っとる」

 少。 少し。 少しずつ。

 母は息をひとつ入れてから、低く言った。

「歩くってのはな……止まって、少し。それを繰り返すことだに」

 止まって、少し。 それは、今日の父の足だった。 それは、幹夫の「いき」だった。 それは、家の中でずっとやってきたことだった。

 父が「歩」を見て、ぽつりと言った。

「……止まるのが、悪いと思っとった」

 母は否定しなかった。 息をひとつ入れて、静かに言った。

「うん。……でも、止まらんと、転ぶ」

 祖母が台所から、淡々と追い打ちみたいに言った。

「胸だけ走ると足が転ぶ。言っただら」

 父は、ほんの少しだけ笑った。 笑いきれないのに、今日は少しだけ笑いの形。

「……おまえさん、昔から正しいな」

 祖母は「正しいんじゃなく、生活だ」と言いたげに、鍋をかき回す音を大きくした。 その音が、家の匂いを濃くした。

 幹夫は鉛筆を握った。 止を書いて、少を置く。 一回目の「歩」は、少が大きくなりすぎて、歩幅が広すぎる字になった。

 広すぎると、転びそうで胸がきゅっとした。 きゅっとしたから、息。

 ――いき。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「少が大きくなったらな……止を戻す。止があると、歩になる」

 止があると、歩になる。 その言い方が、幹夫の胸にすとんと落ちた。

 二回目は、少が少しだけ小さくなって、字が落ち着いた。 落ち着くと、字が「進む顔」をする。

 父が、新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 母が父を見て、頷いた。 頷きは許しになる。 許しがあると、手が伸びる。

 父の「止」は、少し揺れた。 揺れるのに、折れていない。 父の「少」は、小さかった。小さいのに、ちゃんとそこにいる。 最後の点を置くとき、父の息がいちど止まって――止まった間に、幹夫は自分の息を入れた。

 ――いき。

 父の「歩」ができた。 少し歪んでいる。 歪んでいるのに、刺さらない。 刺さらないのは、そこに「止まっていい」が入っているからだ。

 父は字を見て、ふっと息を吐いた。

「……歩、って……止まるのが入っとるんだな」

 母は「うん」とだけ返した。 その「うん」は、縫い箱の下の「うん」みたいだった。 受け取って、折り目にして、飛ばさない「うん」。

 母は「歩」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 消す丸じゃない。受け取る丸でもない。 ただ、「ここまで」の丸。

 夜。 灯りが落ちる前、父が布団の中から小さく言った。

「……みき坊」

 幹夫は返事をする前に、息をひとつ入れた。

 ――いき。

「……うん」

 父はそれだけで、少し安心したみたいに息を吐いた。 息が戻ると、夜は夜のままでいられる。

 幹夫は寝る前に、小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に小さく足す。

 > (とうちゃんへ も)

 中に書く。

 > あるく って> とまって すこし なんだね> きょう とまっても> ころばなかった> いき が あったから> あしたも すこし

 最後に、小さく「歩」。 丸をひとつ。 足が転ばないための丸。

 紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは恥ずかしさと、砂を踏んだ「ぎゅ、ぎゅ」の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。

 翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、三つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

 > あるく は> とまる と> すこし の くりかえし> いき が はいる ぶん> すすむ> うん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

> みきぼう  
> きのう  
> あるけた  
> がん って おと  
> こわかった  
> でも  
> とまって  
> すこし  
> もどれた

 その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。

 三枚目。 文字じゃなく――浜の砂が、ほんのひとつまみ。 紙に包まれて、角が丸い袋になっている。 握るとさらさらして、指の間から落ちそうなのに、ちゃんとそこにいる。

 幹夫は砂の袋を掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど、砂を踏む「ぎゅ、ぎゅ」は届いた。 届いた足音を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――止まって、少し、を胸の中で何度も繰り返しながら、今日の道をそっと歩き始めた。

 
 
 

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