top of page

水の字


朝の水路は、まだ冷たい音を抱えていた。 石の縁が、夜の水を離す前の静けさ。 水はそこにいるのに、まだ走らない。 走らない水は、息みたいに胸の奥に座る。

 幹夫は縁側のふちに座って、首の布の袋を掌で押さえた。 袋の中には、竹の小さな筒。 昨日、父が切ってくれた。 筒の中に、井戸水を少しだけ入れてある。 揺らすと、こぽん、と鳴る。 鳴るのに、刺さらない。 丸い音。

 ――いき。

 息を入れると、胸の中に“水の道”がひとつできる。 道があると、怖さが溜まりきらない。 溜まる前に、流れる。

 「まちばこ」のふたが、ほんの少しだけ浮いていた。 浮いているのは、誰かの困りごとが入った印。 困りごとは、口に出す前に濁るから、箱でいったん座らせる。

 母がふたを開ける。 中には、小さな紙。 角が丸く折ってある。 丸い角は刺さらない。 刺さらないと、手が取れる。

 母の目が、紙の文字を追って、そこで止まった。

みずみち とまったたね かわく こわいよかったら きてください たなか

 水道じゃない。 水路。 田んぼへ行く水の道。 止まると、苗が乾く。 乾くと、米が痩せる。 痩せると、冬の腹が冷える。

 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったのは、田中さんの“こわい”が胸に届いた音。

 鳴ったから、息。

 ――いき。

 父が土間から顔を出した。 紙を受け取る前に、いったん膝の上の布に置く。 置くと、手が急がない。 父は指の腹で端を撫でる。 撫でると、紙が暴れない。 暴れないと、言葉も暴れない。

 父の目が「みずみち」で止まる。 止まると、肩がふっと上がりかける。

 上がりかけて――止まった。

 止まった「間」に、父は懐へ触れて、小さな札を撫でた。 丸い角の、ま札。 肩が上がりきる前の札。

 ふう……。

「……行くか」

 短い。 短いのに、“流れ”が入っている。

 母が頷いた。

「うん。……水は止めると濁るだに。濁る前に、道を開けりゃええ」

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「水は逃げ道が要る。……逃げ道がないと、腐る。……腐ると刺さる」

 刺さる。 腐った水の匂いは、鼻じゃなく胸に来る。 胸に来る前に、間。

 父が納屋から鍬(くわ)と竹の棒と、古い網を出してきた。 網は、魚を取る網じゃない。 水路の葉っぱを受ける網。 受ける網は、押しこまない。

「……みき坊。……おまえは網を持て。……掴むな。……受ける手だ」

 受ける手。 受ける手は、水を怒らせない手。

 幹夫は頷く前に息を入れた。

 ――いき。

「……うん」

 田中さんの田んぼへ向かう道は、まだ湿っていた。 雨のあとじゃないのに湿っているのは、夜の露。 露は、小さな水。 小さな水が集まると、草の匂いが濃くなる。

 水路の角で、田中さんが立っていた。 頬が少しこわばっている。 こわばりは、声より先に顔に出る。

「おはようだに……朝からすまん。……水が、来ん」

 来ん。 来ない水は、胸を乾かす。

 幹夫の胸がぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 父はすぐ「ええよ」と切らなかった。 まず、水路を見る。 水の線。 石の溝。 藻の薄い緑。 止まっているところは、水面が鏡みたいに張っている。 鏡は怖い日がある。 動かないと、全部が映るから。

 父の肩がふっと上がりかける。 上がりかけて――止まる。

 止まった「間」に、父が口の中で言った。

「……詰まりだ」

 名前を置く。 置けると、怖さが全部にならない。

 ふう……。

 父は竹の棒をいきなり突っ込まない。 突っ込むと、奥へ押しこむ日がある。 押しこむと、余計に止まる。

 父は棒を水面にそっと置いて、流れを探した。 探すと、止まりが形になる。 形になると、手が荒れない。

「……ここだ。……落ち葉が、腹を作ってる」

 腹。 水の腹。 腹があると、水が通れない。

 父が鍬で、落ち葉の端だけをすくう。 すくう。 押さない。 引っかけない。 ただ、持ち上げる。

「……みき坊。……網、ここ」

 ここ。 線の言葉。 守りの言葉。

 幹夫は網を水面の少し先に構えた。 構えるけど、力を入れすぎない。 力が強いと、水が跳ねる。 跳ねると刺さる。

 ――いき。

 父が落ち葉の塊を、そっと浮かせた。

 ぶわ。

 水が一瞬、白く濁った。 濁りは怖い。 怖いけど、落ちた濁りは“動く”しるし。

 田中さんが声を詰まらせた。

「……うわ……余計、濁った……」

 父はすぐ「違う」と切らなかった。 一度、手を止める。 止めると、言葉が座る場所ができる。

「……落ちた濁りだ。……流れりゃ、澄む」

 澄む。 祖母の“腐る前”。 母の“濁る前”。 全部、水の言葉でつながる。

 父が葉の塊を網のほうへ寄せる。 寄せると、幹夫の網が受ける。 受けると、葉が逃げない。

 ――いき。

 葉が網に乗った。 乗った瞬間、水が――すう、と音を変えた。

 すう……。

 止まっていた水が、走りはじめた。 走りはじめの音は、細い。 細いのに、胸の奥の乾いたところを濡らす。

 父の肩がふっと上がりかける。 水の勢いで、体が前へ持っていかれそうになる。

 上がりかけて――止まる。

 止まった「間」に、幹夫は小さく言った。

「……ま」

 父が、ふう、と吐いた。

 ふう……。

「……ま」

 父も言えた。 言えると、水が水のままで座る。 座ったまま、流れる。

 水は田んぼのほうへ道を見つけていった。 苗の列の間を、きらり、と走る。 きらりは、怖いきらりじゃない。 生きてるきらり。

 田中さんの肩が、すとん、と落ちた。

「……水、来た……助かった……」

 助かった。 その二文字が、田んぼの空気を少しだけ柔らかくした。

 父はすぐ「いいえ」と返さず、まず頷いた。 頷いてから、言葉を置いた。

「……うん。……止まる前でよかった」

 “前でよかった”。 水も、胸も。 止まる前が肝。

 田中さんが恐る恐る言った。

「……うち、なにも出せんで……」

 出せんで。 返せんで。 困りの声。

 父が先に言った。 尖らせず、短く。

「……ええ。……水が止まらんのが、いちばんだ」

 押しつけない“ええ”。 受け取れる“ええ”。

 幹夫も息をひとつ入れてから言った。

 ――いき。

「……よかったら、で……いい」

 田中さんの目が、少しだけ柔らかくなった。 柔らかい目は、受け取る目。

 学校の教室は、チョークの粉の匂いがした。 乾いた匂い。 乾いた匂いは、線の角を立てやすい。 角は刺さることがある。

 先生が黒板に、大きく字を書いた。

 水

 きゅっ、きゅっ。

「今日は“みず”の水。読めるな」

 教室が声を出す。

「みず!」

 声が集まると、胸が忙しくなる。 幹夫は机の端に指を置いて、“ここ”を作った。

 ――いき。

 先生が言った。

「水はな、流れる。止めると澱(おり)が溜まる。溜まると濁る。――だから、水は“道”が要る」

 先生は黒板の字を指でなぞった。

「真ん中の一本が川だ。両脇のはねは、しずくだ。――しずくが落ちて、川になって、また広がる。水の字は、動いてる」

 動いてる字。 字なのに、走る。 走るのに、刺さらない。 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。

 ――いき。

 先生が続けた。

「それからな、水ってのは“水に流す”って言うだろ。怒りや悔しさを、胸に溜めるな。溜めたら濁る。――息をして、間を置いて、流せ」

 息。 間。 流す。 今朝の水路。 父の「ふう」。 幹夫の「ま」。 全部が一緒に浮かんだ。

 休み時間、正夫が小声で言った。

「みきぼー、今日の字、朝の仕事じゃん。水、流した?」

 幹夫はすぐ言わず、息を入れてから答えた。

 ――いき。

「……水路。……止まって……葉っぱ、受けて……流れた」

 正夫が目を丸くする。

「止まってた水が走ると、気持ちいいよな!」

 幹夫は小さく頷いた。 頷く前に、息。

 ――いき。

「……胸も……走ると……いい」

 夕方。 家の中に煮物の匂いが戻ってきたころ、母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆。 白い継ぎ目。 でも痛くない。

「幹夫。……今日はこれだに」

 母がゆっくり書いた。

 水

 幹夫はその字を見た瞬間、朝の水路の“すう……”が胸に戻ってきた。 戻ってくると、胸がぽん、と鳴る。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 母は字の真ん中を指でなぞった。

「ここ、川だに。……一本。……まっすぐ、でも止まらん」

 母は左右をなぞった。

「こっちは、しずくだに。……しずくがあると、川が生きる」

 父が縁側の端で、ま札を撫でてぽつりと言った。

「……俺、溜める癖がある。……溜めると、濁る」

 母は否定しない。 低く言う。

「うん。……溜まるのは、悪さじゃないだに。溜まったら、流せばいい。――流すのは、捨てるんじゃない。道をつけることだに」

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「道がありゃ水もうまい。……うまけりゃ飯もうまい」

 父が小さく息を吐いた。

 ふう……。

「……今朝……肩、上がった。……でも、みき坊の『ま』で……止まった。……水、暴れんかった」

 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 幹夫は鉛筆を握った。 水を書く。

 一回目の「水」は、はねが強くて、字が跳ねて、落ち着かなかった。 跳ねると、水が跳ねる。 跳ねると、刺さる日がある。

「ええ」

 母が言った。 転んでもいい「ええ」。

「跳ねそうならな……点を小さく置け。水は走るけど、怒らん。……息、入れてから」

 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。

 ――いき。

 二回目の「水」は、真ん中の川が座って、しずくがしずくらしく落ちた。 落ちるのに、刺さらない。 落ちて、流れる。

 父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 父の「水」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 最後のはねの前で、父は一度止まって――息を吐いた。

 ふう……。

 吐いてから、はねを置いた。

「……はねる前に……止まれるな」

 母が小さく頷いた。

「うん。……止まれりゃ、水も刺さらん」

 夜更け。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、震える字で書いた。

けさ たなか の みずみち とまったはっぱ うけて ながしたにごり でた でも ながれた水 って じ かわ と しずくおれ の むね も たまるたまったら いき して ま して ながすみきぼう「ま」 たすかったいき

 父がぽつりと言った。

「……みき坊。……流すのも……こわい日がある」

 幹夫は頷く前に息を入れた。

 ――いき。

「……うん。……でも……道があれば……刺さらない」

 父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。

 ふう……。

「……道、って……好きだ」

 母の低い声が、暗い中で落ちた。

「好きって言えりゃ、水が座るだに。……水は、掴めん。けど、受けられる。受けて、流せる」

 祖母が淡々と言う。

「受けて流せりゃ、また明日だ」

 また明日。 流れて続く明日。

 幹夫は竹の筒を掌で押さえて、口の中で小さく言った。

 ――いき。

 翌朝。 まちばこのふたは、畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、二つと、ひとつ。

 一枚目、田中さんの字。

みず きたなえ しずかありがとうみず の おと すき

 最後に、小さな丸。

 二枚目、母の字。

水 は たまったら ながせにごり は おちた しるしいき して ま を いれろ うん

 最後に、丸。

 三つ目は、紙じゃなく――小さな竹の筒。 昨日のと同じ大きさ。 中に、澄んだ水が少し。 筒の横に、田中さんの字で小さく、

すう

 と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。

 幹夫は筒を掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 水。 しずくが落ちて、川になって、道を見つけて、また広がる。 止まると濁る。 でも、濁りは落ちたしるし。 落ちたら、流せば澄む。 蒲原に、サイレンは届かなかった。 けれど今日、止まっていた水が走り出す前に、父の息と、幹夫の「ま」は届いた。 届いた“止まる間”が、濁りを全部にせず――水の字みたいに、胸の中へ道をつけていった。

 
 
 

コメント


Instagram​​

Microsoft、Azure、Microsoft 365、Entra は米国 Microsoft Corporation の商標または登録商標です。
本ページは一般的な情報提供を目的とし、個別案件は状況に応じて整理手順が異なります。

※本ページに登場するイラストはイメージです。
Microsoft および Azure 公式キャラクターではありません。

Microsoft, Azure, and Microsoft 365 are trademarks of Microsoft Corporation.
We are an independent service provider.

​所在地:静岡市

©2024 山崎行政書士事務所。Wix.com で作成されました。

bottom of page