海の字
- 山崎行政書士事務所
- 3月28日
- 読了時間: 8分

朝の海は、まだ青を決めていなかった。 黒と灰のあいだで、波だけが小さく息をしている。 寄せて、返して。 寄せて、返して。 その“間”に、塩の匂いが座っていた。
幹夫は縁側のふちに座って、首の布の袋を掌で押さえた。 袋の中には、小さな貝。 浜で拾った、白い貝。 角が波で丸くなっていて、刺さらない。 刺さらないのに、耳を近づけると、遠い音が入っている気がする。
――いき。
息を入れると、胸の中にも寄せて返す場所ができる。 溜めない場所。 溜まりそうなものが、すう、と抜ける場所。
「まちばこ」のふたが、ほんの少しだけ浮いていた。 浮いているのは、誰かの困りが入った印。 困りは、言う前に角が立つから、箱で丸くする。
母がふたを開ける。 中には、小さな紙。 角が丸く折ってある。 丸い角は刺さらない。 刺さらないと、手が取れる。
母の目が、紙の文字を追って、そこで止まった。
うみ の ふね の なわすれて こわいあさ しお で もってかれそうよかったら みてください さとう
縄がこわい。 縄そのものがこわいんじゃない。――切れるのがこわい。 切れると、舟が離れる。 離れると、海が持っていく。 持っていく音は、胸に刺さることがある。
幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったのは、佐藤さんの“こわい”が胸に届いた音。
鳴ったから、息。
――いき。
父が土間から顔を出した。 紙を読む前に、いったん膝の上の布に置いてから、指の腹で端を撫でる。 撫でると、紙が暴れない。 暴れないと、言葉も暴れない。
父の目が「うみ」「なわ」で止まる。 止まると、肩がふっと上がりかける。
上がりかけて――止まった。
止まった「間」に、父は懐へ触れて、丸い角のま札を撫でた。 撫でると、肩が上がりきらない。
ふう……。
「……行くか」
短い。 短いのに、“潮の道”が入っている。
母が頷いた。
「うん。……潮は毎日、来るだに。来るもんに、縄は合わせにゃ」
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「海は、引っぱるな。……引っぱると切れる。……余地が肝だ」
余地。 幹夫の得意な“ま”。 結び目の中の、刺さらない空き。
父が納屋から麻縄の端切れと、古い布と、木の楔を出してきた。 麻縄は乾いた匂いがする。 乾いた匂いは、手を少し固くする日がある。 固い手は、締めすぎる。 締めすぎると、海は怒る。
「……みき坊。……結び目のそば、押さえろ。……掴むな。……受ける手だ」
受ける手。 受ける手は、潮の上下を邪魔しない手。
幹夫は頷く前に息を入れた。
――いき。
「……うん」
浜へ下る道は、朝の潮の匂いが濃かった。 塩の匂い。 昆布の匂い。 濡れた網の匂い。 匂いが集まると、海が“ここにいる”って分かる。
舟溜まりには、佐藤のおじさんが立っていた。 頬が少しこわばっている。 こわばりは、声より先に顔に出る。
「おはようだに……朝からすまん。……この縄がな……」
おじさんが指さすもやい綱。 擦れたところが白くなって、毛羽が立っている。 毛羽は刺さる毛羽。 綱の先の杭に、潮がこつ、こつ、と小さく当たる。
幹夫の胸がぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
父はいきなり「ええよ」と切らなかった。 まず、綱を見る。 擦れの白。 繊維の細さ。 潮の高さ。 舟の揺れ。 見ると、怖さが形になる。 形になると、手が荒れない。
父の肩がふっと上がりかける。 上がりかけて――止まる。
止まった「間」に、父が口の中で言った。
「……擦れだ」
名前を置く。 置けると、怖さが全部にならない。
ふう……。
父は綱をいきなり引っぱらない。 指の腹で撫でて、どこがいちばん痛んでいるか探す。 探すと、切れる“前”が見える。 見えると、怖さが小さくなる。
「……ここ、潮のとき当たる。……舟が上下して……ここが噛む」
噛む。 木も縄も、噛むと痛い。 痛いと切れる。
佐藤のおじさんが声を小さくした。
「……潮で、引っぱられて……こわくてな。……夜、音がすると、舟が持ってかれるみてえで」
夜の音。 海の音は大きいのに、夜はもっと胸へ来る。
父はすぐ慰めない。 慰めは押しこむと刺さる。 父は一度、綱の張りを手で確かめてから言った。
「……舟は、上がる。……下がる。……だから縄は、少し遊びが要る」
遊び。 遊びは怠けじゃなく、切れないための余地。
「……みき坊。……ここ、押さえろ。……結び目の“ま”を見るんだ」
幹夫は結び目の近くを、受ける手でそっと押さえた。 押さえると、綱が暴れない。 暴れないと、海の力が一点に刺さらない。
――いき。
父が擦れたところを少し切り落とし、新しい縄を継いだ。 結ぶとき、ぎゅっと締めきらない。 少し締めて、少し戻す。 結び目の中に、ちいさな“ま”。
舟が、すう、と浮いた。 潮が、すう、と入った。 海の息と、舟の息が合う。
父の肩がふっと上がりかける。 潮が一段、上がって、綱が張りそうになる。
上がりかけて――止まる。
止まった「間」に、幹夫は小さく言った。
「……ま」
父が、ふう、と吐いた。
ふう……。
「……ま」
父も言えた。 言えると、張りが張りのままで座る。 座ったまま、切れない。
綱が鳴る。 ぎゅ……、じゃなくて、こつ、こつ。 丸い音。 丸い音は刺さらない。
佐藤のおじさんの肩が、すとん、と落ちた。
「……座った……」
座った。 それは舟のことでも、胸のことでもある言い方。
父はすぐ「たいしたことない」と返さず、まず頷いた。 頷いてから、言葉を置いた。
「……うん。……海に合わせた。……引っぱるんじゃなくて、合わせる」
佐藤のおじさんが恐る恐る言った。
「……うち、礼も何も……」
父が先に言った。 尖らせず、短く。
「……ええ。……切れんのが、いちばんだ」
押しつけない“ええ”。 受け取れる“ええ”。
幹夫も息をひとつ入れてから言った。
――いき。
「……よかったら、で……いい」
佐藤のおじさんの目が少し柔らかくなった。 柔らかい目は、受け取る目。
「……ありがとな。……海、毎日来るだに。……毎日、怖がってた」
毎日。 毎日来る。 海の字の右側が、胸で小さく光った気がした。
――いき。
学校の教室は、チョークの粉の匂いがした。 乾いた匂い。 乾いた匂いは、線の角を立てやすい。 角は刺さることがある。
先生が黒板に、大きく字を書いた。
海
きゅっ、きゅっ。
「今日は“うみ”の海。読めるな」
教室が声を出す。
「うみ!」
声が集まると、胸が忙しくなる。 幹夫は机の端に指を置いて、“ここ”を作った。
――いき。
先生が左を指でなぞった。
「左は水だ。さんずいだ。――水がある」
先生が右を指でなぞった。
「右は“毎”の形だな。これは音を借りてるところでもある。――毎日、って字だろ。海はな、毎日のように波が来る。潮が来る。そういう覚え方もできる」
覚え方。 “毎日来る水”。 今朝の潮。 舟の上下。 結び目の余地。
先生は声を少し落として言った。
「海は大きい。大きいけど、乱暴に引っぱると切れるものがある。縄も、心も。――だから、海には“合わせる”。間を残して、息を入れて」
息。 間。 合わせる。 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。
――いき。
休み時間、正夫が小声で言った。
「みきぼー、今日の字、朝の仕事じゃん。海、行った?」
幹夫はすぐ答えず、息を入れてから言った。
――いき。
「……舟の縄。……潮で……切れそうで……父ちゃんと……ま、残した」
正夫が目を丸くする。
「ま、残すって、海にも効くんだな!」
幹夫は小さく頷いた。 頷く前に、息。
――いき。
「……海は……毎日来るで……毎日、ま が要る」
夕方。 家の中に煮物の匂いが戻ってきたころ、母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆。 白い継ぎ目。 でも痛くない。
「幹夫。……今日はこれだに」
母がゆっくり書いた。
海
幹夫はその字を見た瞬間、朝の潮の“すう……”と、綱のこつ、こつと、先生の“毎日”が一緒に浮かんだ。 浮かぶと胸がぽん、と鳴る。 鳴ったから、息。
――いき。
母が左をなぞった。
「ここ、水だに。……水がある」
母が右をなぞった。
「こっち、毎の形だに。……毎日、ってのは続くこと。――海は続く水だに」
父が縁側の端で、ま札を撫でてぽつりと言った。
「……海、怖い日がある。……でも、合わせると……怖さが座る」
母は否定しない。 低く言う。
「うん。……合わせりゃええだに。引っぱらん。押しこまん。余地を残す。……海も人も、余地がないと切れる」
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「海は腹を洗う。……溜めるな。……寄せて返して、出せ」
父が小さく息を吐いた。
ふう……。
「……今日、綱の結び目に……まを入れた。……あれで、舟が怒らんかった。……俺の胸も、怒らんかった」
幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
幹夫は鉛筆を握った。 海を書く。
一回目の「海」は、さんずいの点が跳ねて、字が忙しい顔になった。 忙しい顔は刺さる。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「忙しそうならな……点を小さく置け。海は大きいけど、怒らん。……息、入れてから」
幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。
――いき。
二回目の「海」は、水が座って、毎が“続く”に見えた。 見えると、字が海になる。 寄せて返す字になる。
父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。
「……俺も、書く」
父の「海」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 最後の払いの前で、父は一度止まって――息を吐いた。
ふう……。
吐いてから、払いを置いた。
「……毎、って……続くんだな。……海も……俺も」
母が小さく頷いた。
「うん。……続けりゃ、明日だに」
夜更け。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、震える字で書いた。
けさ さとう の ふね の なわ すれて こわいしお で もってかれそうすこし きって ついでむすびめ に ま を のこした海 って じ みず と まいまい にち くる しおおれ の むね も まい にちいき して ま して あわせるいき
父がぽつりと言った。
「……みき坊。……海は……でかい。……だから、こわい日がある」
幹夫は頷く前に息を入れた。
――いき。
「……うん。……でも……ま があると……刺さらない」
父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。
ふう……。
「……ま、って……好きだ」
母の低い声が、暗い中で落ちた。
「好きって言えりゃ、海が座るだに。……海は、寄せて返して、続く。続くから、明日が来る」
祖母が淡々と言う。
「明日が来りゃ飯がうまい。……うまけりゃ、また明日だ」
また明日。 毎日来る海。 毎日座る息。
翌朝。 まちばこのふたは、畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、二つと、ひとつ。
一枚目、佐藤さんの字。
よる かぜ ふいたふね こつ こつ いったもってかれんこわくないありがとう
最後に、小さな丸。
二枚目、母の字。
海 は まい にち くるくる もの に あわせろむすびめ に ま を のこせ うん
最後に、丸。
三つ目は、紙じゃなく――小さな貝。 幹夫の袋の白い貝より、少しだけ青い筋が入っている。 角が丸く、刺さらない。 貝の横に、佐藤さんの字で小さく、
まいにち
と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。
幹夫はその貝を掌にのせて、息をひとつ入れた。
――いき。
海。 毎日来る水。 寄せて、返して、続く水。 蒲原に、サイレンは届かなかった。 けれど海の音は毎日届く。 その大きな音の“間”に、父の「ふう」と、幹夫の「ま」は届いた。 届いた少しの余地が、綱も胸も切らせなかった。
幹夫は貝を袋へ戻し、丸い音を胸の中で転がして――今日も、海の字みたいに、寄せて返す息を、そっと座らせていった。




コメント