清の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月26日
- 読了時間: 9分

朝の手水鉢(ちょうずばち)は、まだ雨の冷たさを抱えていた。 石の縁に、夜の水が細く残っている。 残った水は、音まで湿らせる。 さらさら、の前の、ぬるり。
幹夫は縁側のふちに座って、首の布の袋を掌で押さえた。 中には、小さな白い小石。 昨日、川で拾って、家の水で洗った。 洗ったのに、まだ少しだけ砂の匂いがする。 白いのに、白くなりきってない。 白くなる途中の白。
――いき。
息を入れると、目が“途中”を見ていられる。 急がない目。 急がない目は、濁りを怖がらない。
「まちばこ」のふたが、ほんの少しだけ浮いていた。 浮いているのは、誰かの困りごとが入った印。 困りごとは、言う前に角が立つから、箱で丸くする。
母がふたを開ける。 中には、小さな紙。 角が丸く折ってある。 丸い角は刺さらない。 刺さらないと、手が取れる。
母の目が、紙の文字を追って、そこで止まった。
ちょうず の みず ぬめるきよく したい みてもらえますか きたむら
ぬめる。 ぬめるは、濁りより先に来る。 ぬめるは、見えないのに、手に分かる。 分かると、怖さが胸に来る。
幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったのは、北村さんの“きよくしたい”が届いた音。
鳴ったから、息。
――いき。
父が土間から顔を出した。 紙を受け取る前に、いったん膝の上の布に置く。 置くと、手が急がない。 父は指の腹で端を撫でる。 撫でると、紙が暴れない。 暴れないと、言葉も刺さらない。
父の目が「ちょうず」「きよく」で止まる。 止まると、肩がふっと上がりかける。
上がりかけて――止まった。
止まった「間」に、父は懐に触れて、丸い角のま札を撫でた。 撫でると、肩が上がりきらない。
ふう……。
「……行くか」
短い。 短いのに、“水の道”が入っている。
母が頷いた。
「うん。……雨のあとだに。ぬめりは放っとくと増える。増える前に、落としゃええ」
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「清いのは、こすることだけじゃねえ。……澄むまで待つことだ。……待てんと、濁りは座らん」
澄む。 幹夫の胸の中で、その言葉が静かにひろがった。 澄むは、急がない字の匂いがする。
父が納屋から竹の柄のたわしと、布切れと、小さな柄杓(ひしゃく)を出してきた。 たわしは乾いた匂いがする。 乾いた匂いは、手を少し固くする日がある。 固いと、こすりすぎる。 こすりすぎると、石も人も痛い。
「……みき坊。……おまえは、柄杓の置き場所。……置け。……掴むな。受ける手だ」
受ける手。 受ける手は、ぬめりを怒らせない手。
幹夫は頷く前に息を入れた。
――いき。
「……うん」
神社へ向かう道は、雨の匂いがまだ低く残っていた。 土の匂い。 葉の匂い。 海のほうからは塩の匂いが薄く来る。 蒲原は、山と海のあいだの“間”で息をしている。
手水舎(ちょうずや)の屋根の下に入ると、空気がひやりとした。 石の鉢の水面に、薄い緑が張っている。 緑は、光を食べて増える。 縁に落ち葉が一枚、貼りついている。 貼りつきは、放っておくと“当たり前”になる。
北村のおばさんが、手を胸の前で擦りながら立っていた。 擦る手は、言葉より先に困りを出す。
「おはようだに……朝からすまんね。……子どもが手を洗って、ぬるってして……」
ぬるって。 その音だけで、指が勝手に引っこむ。 引っこむ前に、息。
――いき。
父はすぐ「ええよ」と切らなかった。 まず、水を見る。 緑の薄さ。 石の黒さ。 雨のあとで流れが弱いこと。 見ると、困りが形になる。 形になると、手が荒れない。
父の肩が、ふっと上がりかける。 上がりかけて――止まる。
止まった「間」に、父が口の中で言った。
「……ぬめりだ」
名前を置く。 置けると、怖さが全部にならない。
ふう……。
父は、いきなりたわしを当てない。 まず、柄杓で水をすくって、鉢の内側へ静かに流す。 流すと、薄い緑がゆらりと動く。 ゆらりは、怖いゆらりじゃない。 落ちる前のゆらり。
「……水、動かしゃええ。……動くと、座ってたもんが剥がれる」
幹夫は、柄杓を“置く場所”に置いた。 置くと、柄杓が暴れない。 暴れないと、手も急がない。
――いき。
父が布で縁を拭く。 きゅ。 きゅ。
石の音は小さい。 小さいのに、耳の奥の硬いところを起こしやすい。 父の肩が、ふっと上がりかけた。 上がりかけて――止まる。
止まった「間」に、幹夫は小さく言った。
「……ま」
父が、ふう、と吐いた。
ふう……。
「……ま、だな」
父はたわしを当てる。 でも、強くこすらない。 撫でるみたいに、ゆっくり。 ぬめりが、するりと剥がれて、水に溶ける。 溶けると、一瞬、水が曇る。 曇りは、悪い曇りじゃない。 “落ちた”曇り。
北村のおばさんが、心配そうに言った。
「……あれ……濁ったに。もっと悪くなった?」
濁り。 濁りは、落ちる途中の色。 途中は、怖く見える。
父はすぐ「違う」と切らない。 一度、手を止める。 止めると、言葉が座る場所ができる。
「……今の濁りは、落ちた濁りだ。……水、流せば……澄む」
澄む。 祖母の言う“待つ”。 待てると、濁りは全部にならない。
父は鉢の栓を少し緩めて、水を流した。 さら……。 さら……。
流れができると、濁りは道を見つけて外へ出る。 外へ出ると、水面が少しずつ明るくなる。
幹夫の胸が、ぽん、と鳴った。 鳴ったのは、“出ていく濁り”が見えた音。 見えると、胸が落ち着く。
――いき。
しばらくすると、水が透けて、石の底が見えた。 見える底。 見える底は、怖くない。 水が光を拾って、青みたいに見えた。 空の色を抱えた水。
北村のおばさんの肩が、すとん、と落ちた。
「……清い」
清い。 その二文字が、手水舎の空気を少しだけ軽くした。
父はすぐ「当たり前だ」と返さず、まず頷いた。 頷いてから、言葉を置いた。
「……うん。……こすって終わりじゃない。……流れて、澄んで、清い」
“流れて、澄んで”。 それは水だけじゃない言い方。
幹夫は、袋の白い小石を掌で押さえた。 川で洗った石。 洗うだけじゃ、砂の匂いが残る。 でも、何度か流すと、匂いが薄くなる。 薄くなると、白が白になる。
――いき。
学校の教室は、チョークの粉の匂いがした。 乾いた匂い。 乾いた匂いは、字の角を立てやすい。 角は刺さることがある。
先生が黒板に、大きく字を書いた。
清
きゅっ、きゅっ。
「今日は“きよい”の清。読めるな」
教室が声を出す。
「きよい!」
声が集まると、胸が忙しくなる。 幹夫は机の端に指を置いて、“ここ”を作った。
――いき。
先生が左を指でなぞった。
「左は水だ。さんずいだ。――水がある」
先生は右をなぞった。
「右は“青”だ。青いってのは、空の色でもある。水が澄むと、空を映して青く見える」
幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 さっきの手水の水。 底が見えて、空が入って、青く見えた。
――いき。
先生は机の上に、瓶を二つ置いた。 一つは、泥の混じった水。 もう一つは、澄んだ水。
「どっちが清い?」
教室が言う。
「澄んだほう!」
先生は泥の瓶を、ぐるぐる振った。 泥が舞って、全部が茶色になる。
「ほら。急ぐと、ずっと濁る。――でも、ここで止めて待つと」
先生は瓶を置いた。 置く。 置くと、泥が少しずつ沈む。 沈むと、上が透けてくる。
「な。清いってのは、ただ洗うことじゃない。落ちたものが沈んで、上が澄むことだ。――心も同じ。怒りをかき回すと濁る。止めて、息を入れて、沈ませる。そうすると清くなる」
止めて。 息。 沈ませる。 幹夫の胸の中で、朝の父の“ふう……”が重なった。 父の肩が上がりかけて止まった“間”。 あれは、胸の濁りを沈ませる“間”。
――いき。
休み時間、正夫が小声で言った。
「みきぼー、今日の字、好きだろ。おまえ、息で澄ませるもんな」
幹夫はすぐ答えず、息を入れてから言った。
――いき。
「……今朝……手水の水……濁ったけど……流したら……青くなった」
正夫が目を丸くする。
「濁ったのに、青くなるって不思議だな!」
幹夫は、小さく頷いた。 頷く前に、息。
――いき。
「……落ちた濁りは……悪くない」
夕方。 家の中に煮物の匂いが戻ってきたころ、母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆。 白い継ぎ目。 でも痛くない。
「幹夫。……今日はこれだに」
母がゆっくり書いた。
清
幹夫はその字を見た瞬間、手水の青い水と、先生の瓶の沈む泥と、父の“ふう……”が一緒に浮かんだ。
母が左をなぞった。
「ここ、水だに。……水がある」
母が右をなぞった。
「こっち、青だに。……青は空だに。澄むと空が入る。――だから清い」
父が縁側の端で、ま札を撫でてぽつりと言った。
「……俺の胸……濁る日がある」
母は否定しない。 低く言う。
「うん。……濁るのは、悪さじゃないだに。落ちる途中だに。……かき回さずに、止めて、息して、沈ませりゃええ」
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「清いのは、きれい事じゃねえ。……落ちたもんが、ちゃんと沈んでるってことだ」
父が小さく息を吐いた。
ふう……。
「……今朝……水、いったん濁った。……でも、流したら……澄んだ。……あれ、よかった」
幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
幹夫は鉛筆を握った。 清を書く。
一回目の「清」は、水の点が強くて、字が跳ねて、落ち着かなかった。 跳ねる字は、濁りをかき回す。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「急ぎそうならな……点を小さく置け。清いは、静かだに。……息、入れてから」
幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。
――いき。
二回目の「清」は、水が静かに座って、青が青く見えた。 見えると、字が澄む。
父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。
「……俺も、書く」
父の「清」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 最後の横線の前で、父は一度止まって――息を吐いた。
ふう……。
吐いてから、線を置いた。
「……止まると……青が入るな」
母が小さく頷いた。
「うん。……止まれりゃ、空が映るだに」
夜更け。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、震える字で書いた。
きょう ちょうず ぬめり きよく したいったん にごったでも ながしたら すんだ清 って じ みず と あおあお は そらそら が はいる と こころ も すむいき
父がぽつりと言った。
「……みき坊。……清くいるのも……こわい日がある」
幹夫は頷く前に息を入れた。
――いき。
「……うん。……でも……止まれたら……澄む」
父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。
ふう……。
「……澄む、って……好きだ」
母の低い声が、暗い中で落ちた。
「好きって言えりゃ、清が座るだに。……清いってのは、無理に白くすることじゃない。青が入る余地を残すことだに」
祖母が淡々と言う。
「余地がありゃ飯がうまい。……うまけりゃ、また明日だ」
また明日。 澄んで続く明日。
幹夫は袋の白い小石を掌にのせて、息をひとつ入れた。
――いき。
翌朝。 まちばこのふたは、畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、二つ。
一枚目、北村さんの字。
ちょうず の みず つめたいて が こわくないきよい って こういうことだらありがとう
最後に、小さな丸。
二枚目、母の字。
清 は みず に あお が はいるにごり は おちた しるしとめて いき して しずめろ うん
最後に、丸。
幹夫は小石を、今朝の井戸水でそっと流した。 流す。 流すと、砂の匂いが薄くなる。 薄くなると、白が白になる。 白の中に、空の青が少し入る気がした。
――いき。
清い。 洗って終わりじゃない。 落ちた濁りが沈んで、上が澄んで、空の青が入る。 蒲原に、サイレンは届かなかった。 けれど今日、手水の水が青くなる前に、父の「ふう」と、幹夫の「いき」は届いた。 届いた“止まる間”が、胸の濁りをかき回さずに沈ませて――清の字みたいに、青の余地をそっと残していった。




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