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綴の字

 縫い箱は、朝の畳の上で、いつもより少し重たそうに見えた。 重たいのに、動かされない重たさじゃない。 ただ、たくさんの「続き」を抱えている重たさだった。

 母が掃き出しの前を拭こうとして、縫い箱を少し脇へ寄せた。 そのとき――

 さらり。

 箱の下から、紙が一枚すべった。 紙は薄い。薄いのに、落ちるときの音が、ちゃんとある。

 幹夫の胸の奥が、きゅっと鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 落ちた紙には、丸い字があった。

 > みきぼう > きのう > へんじ できた > すこし > かるい

 父の字。 震えているのに、折れていない字。

 幹夫は急いで拾おうとして、指が紙の端をつまみ損ねた。 端が、ふわっと揺れる。 揺れると、どこかへ逃げそうで――

 ――いき。

 その瞬間、縁側から父の声が落ちた。

「……落ちたか」

 落ちたか。 責める声じゃない。 “ここにある”を確かめる声だった。

 父は立ち上がらず、縁側の板に手を置いたまま、ぽつりと言った。

「……紙、集めるか」

 集める。 その言葉が、畳の目の上に静かに座った。 集める、は片づけるじゃない。 捨てるじゃない。 “なくさない”のほうの言葉だ。

 母が台所の境目から、声を急がせないまま言った。

「箱の下、もういっぱいだに。……綴じたほうがええ」

 綴じる。 聞いたことはあるのに、幹夫の胸の中では、まだ形ができていない言葉。

 祖母が鍋の向こうで淡々と混ぜる。

「綴じりゃ飛ばん。飛ばんもんは守りだに」

 守り。 父が作った鳴らない袋。 ほどける結び目。 たわむ線。 今日の守りは、紙の守りになりそうだった。

 母が縫い箱の蓋を開けると、糸の匂いがふわっと出た。 針は布の上に乗せられて、ちり、と鳴りかけ――母の指がすぐ押さえて、音を眠らせた。

 父の肩が、ふっと上がりかけて――止まる。 止まった「間」に、幹夫は息を入れた。

 ――いき。

 母は紙を一枚ずつ、箱の横へ並べていった。 父の字。 母の字。 幹夫の、まだ幼いひらがな。 「いき」だけ書いてある日もある。 丸だけの紙もある。 舟の包み紙。 みかんの皮。 糸巻き。 竹の筒。

 並ぶと、家の中の時間が、目に見える形になる。 形になると、胸の奥が落ち着く。

 父が、並んだ紙を見て、しばらく黙った。 黙っているのに、遠くへ行かない黙り方。 今ここで、見ている黙り方。

「……こんな、あったか」

 父がぽつりと言った。 “あった”の言い方が、少し驚いているのに、嬉しい驚きだった。

 母は紙の端を揃えながら、低く言った。

「毎日、少しずつだに。……少しずつで、こんだけになる」

 少しずつ。 その言葉が、紙の山の上にそっと乗った。

 幹夫は、自分の紙を一枚見つけた。 そこには、丸い文字でこう書いてある。

 > とうちゃんへ > いき

 それだけ。 それだけなのに、喉の奥が熱くなった。 熱くなりすぎると走りそうだから、息。

 ――いき。

 父が、紙の山の横に置かれた糸巻きを見て、ぽつりと言った。

「……綴じるの、俺……やる」

 やる。 その未来の言葉に、幹夫の胸の奥がぽん、と鳴った。 鳴るのに、叫ばない。叫ばない鳴り方は、続きの鳴り方だ。

 母は驚いた顔をしそうになって、しなかった。 驚きを刃にしない顔で、短く言った。

「ええよ。……音、出さんように、布敷け」

 父は頷いて、縁側の端から古い手拭いを一枚持ってきた。 それを畳に敷いて、その上に紙を揃えて置いた。 置く。 投げない。 落とさない。

 父は針を、いきなり持たなかった。 針を布の上にいちど“置いて”から、指でそっと押さえた。 置けると、尖さが尖さのまま暴れない。

 父が、口の中で息を整える。

 ――いき。

「……穴、あけるだけだ。……縫うのと同じだな」

 針が紙に触れる。 ぷす、という音はほとんどしない。 しないように、父が布で受けているからだ。

 点。 点。 点。

 紙の端に、小さな穴が三つ並んだ。 点が並ぶと、線の入口になる。

 父は糸を通した。 通して、戻す。 戻して、また通す。 ぎゅっとしない。 きつくしない。 たわみを残す。

 祖母が鍋の向こうで淡々と言った。

「きつい綴じは、首が苦しい。……息入るぶん残せ」

 息入るぶん。 母の「余地」と同じ匂い。

 父は、最後の結び目を蝶結びみたいに小さく作った。 引けばほどける。 でも勝手にはほどけない。 この家の“上等”の形。

 できた束は、手のひらに乗るくらいの小さな冊子になった。 紙の端が揃って、落ち着いた顔をしている。 落ち着いたものは、胸も落ち着かせる。

 父が冊子をそっと持ち上げて、幹夫へ渡した。 渡す手が、置く手だった。

「……落ちん」

 父がぽつりと言った。 落ちん。 それだけで、幹夫の胸があたたかくなる。

 幹夫は両手で受け取った。 紙の重さは軽いのに、胸の中ではちゃんと重い。 重いのに痛くない。 痛くない重さは、守りの重さだ。

 ――いき。

「……とうちゃん、ありがとう」

 父は少し照れたみたいに鼻の下を擦った。

「……礼じゃねぇ。……継いだだけだ」

 継いだだけ。 でも、“継いだ”はすごい。 幹夫はそれを言葉にできなくて、息だけ入れた。

 ――いき。

 夕方。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆は、今朝父が直した継ぎ目のまま、ちゃんと一本の顔をしている。 継ぎ目が痛くないと、字も痛くない気がする。

「幹夫。……今日はこれだに」

 母がゆっくり書いた。

 綴

 幹夫は、その字を見た瞬間、手の中の小さな冊子を思い出した。 穴。 糸。 点々。 そして、ひとつになった束。

 母は左側を指でなぞった。

「こっちは糸だに。……結の糸。縫の糸。線の糸。継の糸」

 糸。 この家の続きの匂い。

 次に右側をなぞった。 小さな形が重なって、点がいくつも並んでいるみたいな部分。

「こっちはな……点が重なる形だに。点がつづいて、線になって……綴りになる」

 点が、線に。 線が、束に。 束が、“ここにある”になる。

 母は少し間を置いて、息をひとつ入れた。

「綴るってのはな……言葉や紙を、点々でつないで、なくさない形にすることだに」

 なくさない形。 幹夫の胸の奥が、すとん、と座った。

 母は続けた。

「文章も綴るって言うだに。……言葉を一個ずつ置いて、続けて、話にする」

 話にする。 父が少しずつ言葉を置いてきたこと。 母がそれを急がせず受けてきたこと。 幹夫が「いき」を入れてきたこと。 全部が“綴る”になっていた。

 父が新聞紙の「綴」を見て、ぽつりと言った。

「……俺、綴られてたのか」

 綴られてた。 自分が、誰かの糸でつながれていた。 その言い方が、幹夫の胸をそっと撫でた。

 母は否定しない。 息をひとつ入れて、低く言った。

「うん。……綴られて、ほどけても、また結べるだに」

 ほどけても。 また結べる。 “余地”がある言葉は、刺さらない。

 幹夫は鉛筆を握った。 糸を書いて、点々のほうを書く。

 一回目の「綴」は、点々が揃いすぎて、硬い顔になった。 硬いと、ぎゅっと縛りそうで胸がきゅっとする。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「揃えすぎると固くなる。……少しズレてもええ。ズレたら、たわみになる」

 たわみ。 線の字の匂いが、ここへ戻ってきた。

 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。

 ――いき。

 二回目の「綴」は、少しだけ柔らかい顔になった。 柔らかいと、字が落ちない。

 父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 母が父を見て頷いた。 頷きは許しになる。 許しがあると、手が伸びる。

 父の「綴」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 点々の最後が少し尖った。 尖るのに刺さらない。 刺さらないのは、その尖りが“つなぐ”ほうへ向いているからだ。

 父は書き終えて、ふっと息を吐いた。

「……綴るって……俺、好きだな」

 好き。 父の口から出る「好き」は、まだ少ない。 少ないのに、落とさない好きだった。

 母は「綴」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、綴じ穴の点々みたいに見えた。

 夜。 布団に入る前、父が小さな冊子を手に取って、表紙みたいに一枚目にしていた新聞紙に、鉛筆で震える字を書いた。

 > みきぼうの つづり

 “つづり”。 綴る、の名まえ。

 父はそれを書き終えると、少し間を置いて、ぽつりと言った。

「……これ、俺の守りでもあるな」

 守り。 幹夫は首の袋を押さえて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

「……うん。……ぼくのも」

 父は少し笑った。 笑いきれないのに、笑いの形。

「……じゃあ、落とすなよ。……ほどけても、戻せ」

 ほどけても、戻せ。 それは“怖いな”が来たときの合図みたいだった。

 母の低い声が、暗い中で落ちた。

「綴ったら、飛ばん。……飛ばんのは、眠れるだに」

 父の息が、ふっと落ちていった。 落ちていく息は、布団の奥へ戻っていく息だった。

 翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、三つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

 > つづる は > てんてん を つないで > なくさない かたち にする > かたく せん > いき > うん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

 > みきぼう > きのう > つづじた > おちついた > すこし > こわさ が とおくなった

 その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。

 三枚目。 文字じゃなく――小さな冊子そのもの。 糸で綴じた背のところが、きつくない。 引けばほどける余地がある。 表紙の端が、父の手で少し丸く削られている。 刺さらない端。 端に、小さく鉛筆で、

 > つづり

 と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。

 幹夫は冊子を胸に当てて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 点々は、線になる。 線は、束になる。 束は、守りになる。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、綴じた小さな束は届いた。 届いた“なくさない形”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、家の中の続きの点々を、そっと次のページへ渡していった。

 
 
 

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