top of page

縫の字

 首から下げた布の袋は、朝の支度の間じゅう、幹夫の胸の真ん中で小さく揺れていた。 揺れているのに、鳴らない。 鳴らないのに、重い。 重いのに痛くない。

 ――いき。

 息をひとつ入れると、袋はきちんと座った。

 だけど、今日は紐の結び目が、いつもより少しだけ頼りなく見えた。 蝶結びの輪が、朝の手の動きに擦れて、ちょん、と傾く。 傾くと、ほどけてしまいそうな気がする。 ほどけたら、石が落ちる。 落ちたら、音が鳴る。

 音が鳴る、と思っただけで、胸の奥がきゅっとなる。 きゅっとなったから、石じゃないほうの手を握って――

 ――いき。

 幹夫が結び目を指先で押さえたとき、縁側から父の声が落ちた。

「……ほどけそうか」

 ほどけそう。 その言葉は、怖さの名前をつける言葉だった。 名前がつくと、少しだけ持てる形になる。

「……うん。ちょっと」

 声にすると、胸のきゅっが少し丸くなる。

 父は立ち上がらなかった。 立ち上がらないで、縁側の板に指を置いて、ぽつりと言った。

「……縫うか」

 縫う。 その音が、畳の目の上に静かに座った。 縫う、は“結ぶ”と似ているのに、どこか違う。 結び目は外にある。 縫い目は中にある。

 母が台所の境目から、声を急がせないまま言った。

「縫っておけば、ほどけんだに。……でも、きつくしすぎるなよ」

 きつくしすぎるなよ。 ほどける余地。 余地があると、息が入る。

 祖母が鍋の向こうで淡々と言った。

「縫い目は、ほどけにくい。結び目は、ほどけやすい。……両方あると上等だに」

 両方。 守りが増える言い方だった。

 母の縫い箱は、畳の上に置かれると、少しだけ木の匂いを立てた。 蓋を開けると、糸の匂い。 布の匂い。 小さな金物の匂い。

 針が、かすかに触れ合って、ちり、と鳴りかけた。

 その瞬間、父の肩がふっと上がる。 上がって止まる。 止まった「間」に、幹夫は息を入れた。

 ――いき。

 母は、すぐに針を指で押さえて、音を止めた。 止め方が丁寧すぎない。 丁寧すぎないと、生活の手つきになる。

「音、出さんでええ。……布、敷く」

 母は小さな布切れを一枚取り出して、針山の下に敷いた。 敷くと、針の音は眠る。 眠ると、父の肩が少し落ちる。

 父は黙って、それを見ていた。 見ている目は遠くない。 遠くない目は、今ここにいる目だ。

 母が糸を引き出して、指で撚りを整えた。 糸は細い。 細いのに、切れないようにする手つきがある。

「幹夫、袋、外して」

 幹夫は袋を外して、掌に乗せた。 石の重さが、布越しにちゃんと分かる。 分かると、胸が落ち着く。

 父が袋を受け取った。 受け取り方が、投げない。 落とさない。 置くみたいに受け取る。

「……ここ、縫う」

 父は袋の口の折り目を見て、そこへ指先をそっと当てた。 当てるだけで、押しつけない。 押しつけないのに、逃げない。

 母が針に糸を通した。 糸通しの小さな金具が、きら、と光った。 光は丸い。 丸い光は刺さらない。

 父は針を見た。 針の先は、やっぱり尖っている。 尖っているものを見ると、胸の奥がひゅっと狭くなる日がある。

 ひゅっとしたから、幹夫は息を入れた。

 ――いき。

 父は、針を握らなかった。 いちど、針の先を布の上に置いて、指でそっと押さえた。 “置く”。 昨日の合言葉の置き方だった。

「……針は、刺すもんじゃねぇな」

 父がぽつりと言った。

 母が低く返す。

「うん。……つなぐもんだに」

 つなぐ。 その言葉が、糸の細さに似ていた。 細いのに、ちゃんと渡る。

 父は、針を持った。 持つ指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

 針先が布に触れる。 ぷす、とは鳴らない。 鳴らない刺さり方。 刺さるのに、布は声を上げない。

 父は針を通した。 通して、糸を引く。 引くとき、ぎゅっとしない。 ぎゅっとしないで、すーっと戻す。

 行って、戻る。 針が行って、糸が戻る。 それを見ているだけで、幹夫の胸の奥が少し丸くなる。

 父の息が、ふっと落ちた。

「……縫うの、歩くのに似てるな」

 止まって、少し。 行って、戻って、少し。 それが道になる。

 幹夫は、袋の中の石を指で押さえた。 押さえると、石は鳴らない。 鳴らないと、息が入る。

 ――いき。

 父は二針、三針と進めた。 縫い目が小さく並ぶ。 並ぶと、布の縁が落ち着く。 落ち着くと、心も少し落ち着く。

 そのとき、父の指がほんのわずかに揺れて、針先が指の腹に触れた。

 ちく。

 痛いほどじゃない。 でも、赤い点がひとつ浮いた。

 幹夫の胸が、ひゅっとなる。 ひゅっとなったから、息。

 ――いき。

「父ちゃん……」

 父はすぐに手を引かなかった。 引かないで、針を布の上に置いて、布で指をそっと押さえた。 押さえると、赤い点は丸く隠れる。

「……大丈夫だに。……点だ」

 “点”。 その言い方が、祖母みたいに暮らしの言い方で、幹夫の胸が少しだけほどけた。

 母は慌てなかった。 慌てないで、小さな布切れを取り、父の指に巻いた。

「尖いもんは、点で済ませりゃええ。……広げん」

 広げん。 続きを持ち込まん。 許の字の匂いがした。

 父は、布巻きの指で、また針を持った。 持てた。 持てたことが、幹夫の胸をあたためた。

 縫い終わると、袋の口は少しだけしっかりした。 しっかりしているのに、きつくない。 きつくないしっかりは、息の入るしっかりだ。

 父が、糸を切る前に、結び目を作った。 固く縛らない。 ほどける余地を残して、ちいさく留める。

「……引けば、ほどける。……でも勝手にはほどけん」

 昨日の結びと同じ言葉。 同じ言葉は、家の中の道を太くする。

 父は袋を幹夫の掌に戻した。 戻す手が、置く手だった。

 幹夫は首に下げた。 胸の真ん中に布が当たる。 当たって、鳴らない。 鳴らないのに、重い。 重いのに痛くない。

 ――いき。

 息を入れると、縫い目が胸の中でも整う気がした。

 祖母が鍋の向こうから淡々と言った。

「縫い目があると、ほどけても戻れる。……腹も同じだに」

 母が笑いそうになって、笑わないで、低く言う。

「幹夫、父ちゃんに言っとけ」

 幹夫は喉の奥が熱くなって、でも熱さを走らせないように、息をひとつ入れてから言った。

 ――いき。「……ありがとう。……縫ってくれて」

 父は少し間を置いて、ぽつりと言った。

「……うん。……逢えた気がする」

 逢えた。 その言葉が、糸の匂いと一緒に胸の奥へ入った。 入ったのに、刺さらない。

 夕方。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆を置く。 継ぎ目の硬さが、今日も頼もしい。

「幹夫。……今日はこれだに」

 母がゆっくり書いた。

 縫

 幹夫は、字を見ただけで、縫い箱の匂いが戻ってきた。 糸。 針。 父の指の赤い点。 赤い点なのに、怖くない点。

 母は左側を指でなぞった。

「こっちは糸だに。……結のときの糸」

 次に右側をなぞった。

「こっちは……逢(あう)だに。会う、よりちょっと深い。……偶然じゃなく、ちゃんと会う」

 ちゃんと会う。 幹夫は、父の目が遠くなくなってきたことを思い出した。

 母は少し間を置いて、息をひとつ入れた。

「縫うってのはな……糸で逢う字だに。布と布が、針の行き来で逢う。人も、少しずつ逢い直す」

 逢い直す。 言葉が胸の奥で、ゆっくり結び目を作った。 固くしない結び目。 ほどける余地のある結び目。

 父が新聞紙の「縫」を見て、ぽつりと言った。

「……逢う、って……怖ぇ日もある」

 母は否定しなかった。 息をひとつ入れて、低く言った。

「うん。……だから糸が要る。細くでええ。切れそうなら、二本にする」

 二本。 三本。 支える数を増やす言い方。

 父はしばらく「縫」を見て、それから小さく言った。

「……縫うと、戻れる道が見えるな。……針が行っても、糸が戻る」

 戻る。 返。 渡。 結。 守。 全部が、縫い目の中に入っていた。

 幹夫は鉛筆を握った。 糸を書いて、逢を書く。 一回目の「縫」は、逢が大きくなりすぎて、糸が細くなった。 逢いたいが先に走って、支えが弱い字。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「逢が大きくなったらな……糸を太らせりゃええ。糸があると、逢っても落ちん」

 落ちん。 落ちないは、守りの言葉。

 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。

 ――いき。

 二回目の「縫」は、糸が少し太って、字が落ち着いた。 落ち着くと、字が“逢える顔”になる。

 父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が、布巻きの上で少しだけ震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 母が父を見て頷いた。 頷きは許しになる。 許しがあると、手が伸びる。

 父の「縫」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 糸の最後が少し尖った。 尖るのに刺さらない。 刺さらないのは、その尖りが“つなぐ”ほうへ向いているからだ。

 父は書き終えて、ふっと息を吐いた。

「……縫、って字……逢うのを、糸が支えてるな」

 母は「うん」とだけ返した。 縫い箱の下の「うん」みたいな、折り目のある「うん」。

 母は「縫」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、縫い目の小さな点々みたいに見えた。

 夜。 布団に入る前、父が幹夫の首の袋を見て、ぽつりと言った。

「……きつくないか」

 きつくないか。 それは結びのときと同じ、守りの問いだった。

 幹夫は指を入れて確かめた。 指が一本入る。 一本入ると、苦しくない。

 ――いき。

「……だいじょうぶ。……縫い目も、だいじょうぶ」

 父は少し間を置いて、ぽつりと言った。

「……今日は、俺の指、点で済んだ。……広がらんかった」

 広がらんかった。 それは、痛さも怖さも、続きにしない言い方だった。

 母の低い声が、暗い中で落ちた。

「縫い目は点だに。点を並べると線になる。……線が道になる」

 父の息が、ふっと落ちていった。 落ちていく息は、布団の奥へ戻っていく息だった。

 幹夫は、袋の上から石を押さえ、口の中で小さく言った。

 ――いき。

 寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。

(とうちゃんへ も)

 中に書く。

ぬう っていと で あう って こと なんだねきょうふくろ を ぬってくれていし が おちないおと も ならないとうちゃんの ゆび の あかい てんこわく ならなかったいき

 最後に、小さく「縫」。 丸をひとつ。 点の丸。

 紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは針の尖さの名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。

 翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、三つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

ぬう はいと で あうてん を ならべるおと も こころ もすこし ずついきうん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

みきぼうきのうふくろ ぬえたて が ふるえてもてん で よかったすこしあえた

 その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。

 三枚目。 文字じゃなく――小さな糸巻き。 紙を細く切って巻いた即席の糸巻きに、白い糸が少し巻かれている。 端っこが、短く垂れていて、引けばほどける。 ほどけたら、また巻ける。 糸巻きの隅に、父の震える字で小さく、

いと

 と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。

 幹夫は糸巻きを掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 縫う。 糸で逢う。 点を並べる。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、袋の縫い目の点々は届いた。 届いた“点”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、逢い直すための細い糸を、胸の中にそっと通していった。

 
 
 

最新記事

すべて表示
自動是正は「何を自動にするか」で9割決まる

〜情シス向け:Azure運用の“自動是正対象”をA〜Dで分類して、事故らないルールに落とす〜 ※本記事は一般的な情報提供であり、個別案件の法的助言ではありません。※当事務所(行政書士)は、規程・台帳・運用設計・証跡整備など「ガバナンスの型づくり」を中心に支援します(個別紛争・訴訟等は弁護士領域です)。 1. 情シスの現実:自動化は“正しく怖がらないと”事故装置になる Azureの自動是正(Azur

 
 
 

コメント


Instagram​​

Microsoft、Azure、Microsoft 365、Entra は米国 Microsoft Corporation の商標または登録商標です。
本ページは一般的な情報提供を目的とし、個別案件は状況に応じて整理手順が異なります。

※本ページに登場するイラストはイメージです。
Microsoft および Azure 公式キャラクターではありません。

Microsoft, Azure, and Microsoft 365 are trademarks of Microsoft Corporation.
We are an independent service provider.

​所在地:静岡市

©2024 山崎行政書士事務所。Wix.com で作成されました。

bottom of page