聞の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月18日
- 読了時間: 11分

戸の外で、紙の角がこすれる音がした。 こすれる音は小さい。 小さいのに、家の中の空気を一枚だけめくる。
――いき。
「回覧(かいらん)だに」
母の声が、台所の境目から落ちた。 落ちた声は尖らない。尖らないと、朝が暴れない。
父が戸を少し開けて、薄い板みたいな回覧板を受け取った。 受け取る前に、いったん置き布の上へ置く。 置いてから、端をそっとつまむ。 掴まない。掴まないと、胸も紙も荒れない。
とん。
小さい音。 小さい音は眠る。
幹夫は縁側のふちで、首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。
――いき。
父が回覧板の紙をめくる。
さら。
紙の音。 乾いた音。 乾いた音は、胸の奥の硬いところを起こしやすい日がある。
父の肩が、ふっと上がりかけた。 上がりかけて――止まる。
止まった「間」に、幹夫の胸は勝手に鳴った。
ぽん。
鳴ったから、息。
――いき。
父の目が、紙の一行で止まった。
今夜 警戒 灯火管制合図 拍子木 半鐘 (各組)
灯火管制。 警戒。 合図。
言葉が並ぶと、紙が少し重く見える。
父は紙を置き布の上にそっと戻して、懐へ手を入れた。 丸い角の札に触れる。 触れて、息を吐いた。
ふう……。
「……今夜、か」
父の声は低い。 低いのに、揺れている。
母が、ぶつけない声で言う。
「今夜だに。……清水のほうは鳴るかもしれんけど、こっちは届かん。届かんぶん、合図は拍子木だに」
届かん。 届かない音がある。 届かないのに、言葉だけ届くことがある。
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「届かんでも腹は鳴る。……鳴らすな。落ち着け」
父が小さく笑いそうになって、笑わないまま息を吐いた。
ふう……。
幹夫は、父の肩の止まり方を見た。 止まっているけれど、逃げていない。 逃げていないのが、うれしい。 うれしいと走りそうになるから、息。
――いき。
でも、父の目はまだ紙の上に残っている。 紙の上の「警戒」に、父の胸も残っているみたいだ。
幹夫は言いたいことがあった。 言いたいのに、言い方が分からない。 分からないときは、まず「聞く」から始めればいい、と昨日母が言った気がする。
幹夫は、いきなり「こわい?」とは言わなかった。 その言葉は刃になる日がある。 だから、門を作ってから。
――いき。
「……父ちゃん。……聞いて、いい?」
聞いていい。 聞く、は、耳だけじゃなく、許しをもらう言い方。
父の目が、幹夫へ落ちた。 遠くへ行かない目。今ここで落ちる目。
父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。
ふう……。
「……いい」
その「いい」が、幹夫の胸の中で、すとん、と座った。
――いき。
幹夫は続けた。 急がず、置く。
「……今夜……いや?」
父はすぐ答えなかった。 答えないのは、逃げじゃない。 息を探す間。
ふう……。
「……いや、って言うより……音が……来ると……胸が走る」
胸が走る。 父が自分の胸のことを言った。 それだけで、幹夫の喉の奥が熱くなった。
熱いと走りそうだから、息。
――いき。
父が、懐の札を指で撫でて続ける。
「……走ると……聞こえん。……何の音か、分からん」
分からん。 分からんと、全部が怖くなる。
幹夫は、踏切の鐘のことを思い出した。 カンのあいだ。 音の中の静か。
「……聞こえんとき……あいだ、探す?」
父の眉が、少しだけ上がって、それから戻った。 戻る眉は、柔らかい。
父は、ほんの少しだけ笑った。
「……探す。……おまえ、あいだ、見つけるの上手だな」
上手。 父の上手は、続けさせる上手。
幹夫の胸が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
母が、湯気の向こうで頷く。
「聞いてよかっただに。……聞かんと、胸が勝手に結ぶでな」
勝手に結ぶ。 誤解の結び目。
祖母が淡々と言う。
「聞け。……聞けりゃ飯がうまい。聞けんと腹が荒れる」
父は回覧板をたたまないで、置き布の上に置いたまま言った。
「……みき坊。……聞いてくれて……助かった」
助かった。 その言葉が、幹夫の胸をあたためた。
――いき。
学校の教室は、チョークの粉の匂いがした。 乾いた匂い。 乾いた匂いは、字の角を立てやすい。
先生が黒板に、大きく字を書いた。
聞
きゅっ、きゅっ。
「今日は“きく”の聞。聞く。聞こえる。……同じようで違う。読めるな」
教室が声を出す。
「きく!」
声が集まると、胸が忙しくなる。 幹夫は机の端を指で触って、“ここ”を作った。
――いき。
先生が言った。
「聞こえるってのは勝手に入ってくる。聞くってのは、自分で耳を向ける。自分で、門を開ける」
門。 間の字の門。 朝の回覧板の“許し”の門。
先生は黒板の字を指でとん、と叩く。
「ほら、聞は門の中に耳だ。門の外は世界だ。門の中は自分だ。門を全部開けたら、うるさくて潰れる。全部閉めたら、何も届かない。ちょうどいい開け方で、耳を置く。これが聞くだ」
ちょうどいい開け方。 ほどよい結び目。 戻れる線。 間の光。
先生が少し声を落として続けた。
「あともう一つ。今の世の中は“聞いた話”が飛ぶ。噂だ。噂をそのまま胸に入れるな。聞いたら、確かめろ。聞き分けろ」
噂。 サイレンの噂。 届かない音の噂。
幹夫の胸が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
休み時間、廊下のほうで、上級生が小声で言っていた。
「清水じゃ昨夜、サイレン鳴ったってよ」
「港のほう、赤かったらしい」
らしい。 らしい、は、ほんとと違う匂い。
幹夫は、その言葉が胸に入りそうになって、足を止めた。 止めた「間」に、息。
――いき。
先生の言葉が胸にあった。
聞いたら、確かめろ。門を全部開けるな。
幹夫は、噂を追いかけなかった。 追いかけると、噂が噂のまま増える。
代わりに、正夫のほうを見た。 正夫は目を丸くしている。 丸い目は、胸が忙しい目だ。
「みきぼー、サイレン、ほんとかな……」
幹夫は、すぐ答えない。 答える前に、耳を向ける。 正夫の声の中の“こわい”を聞く。
――いき。
「……わかんない。……聞いたってだけ。……確かめる」
正夫が、ふう、と息を吐いた。
「確かめる、って……いいな」
いい。 その“いい”が、幹夫の胸の中で座った。
帰り道、潮と砂と鉄の匂いが混ざっていた。 蒲原の道は、混ざる匂いでできている。 混ざるけれど、ちゃんと分かれる。
踏切が鳴った。
カン、カン、カン。
でも今日は、鐘の中の“……のところ”が先に見えた。 見えると、息が入る。
カン、……(いき)……カン、……(いき)……
正夫が横で言った。
「間、だ!」
幹夫は小さく頷いた。 頷く前に、息。
――いき。
家が見えてくると、軒下の貝殻の糸が風で揺れていた。
ちい。 ちい。
眠った音。 眠った音は、守りの音。
幹夫は、ふと浜へ寄りたくなった。 寄りたい、は、胸の道。 でも勝手に寄ると、約束が刺さる。
だから、門を作る。
――いき。
幹夫は家の戸口で言った。
「……母ちゃん。……浜、寄っていい? ……貝、拾って……聞くやつ」
聞くやつ。 貝殻を耳に当てると、海が入ってくるやつ。
母が、ぶつけない声で言った。
「ええだに。……でも、ここまでだに。日が落ちる前。線、守れ」
線。 ここまで。 守り。
幹夫は頷いて、息。
――いき。
「……うん」
浜の風は、家の風より少しだけ塩が濃い。 濃い匂いは、胸の奥を洗う匂い。
ざあ。 ざあ。
波はいつも同じじゃない。 同じじゃないのに、戻ってくる。 戻ってくる音は、安心に似ている。
幹夫は丸い貝を拾った。 巻貝。 口が小さい。 小さい口は、門みたいだ。
貝を耳に当てる。 耳の中が、少し暗くなる。 暗くなると、音がよく見える。
――いき。
ざあ……。
貝の中で、海が鳴った。 ほんとの海の音じゃない。 でも、海みたいな音。 遠いのに、近い音。
幹夫は思った。 聞くって、こういうことかもしれない。 門の中に耳を置いて、外を全部入れないで、必要なものだけ受ける。
貝をもう一度耳に当てて、息を入れた。
――いき。
そのとき、遠くのほうで、拍子木の音がした。
カン、カン。
木の乾いた音。 今夜の合図の音かもしれない。 早い。 早いと胸が走りそうになる。
でも幹夫は、貝を耳から外して、音の“間”を探した。
カン、……カン。
……のところ。 そこに、息。
――いき。
走らないで、音を聞けた。 聞けたとき、胸の中の石が少しだけ軽くなった気がした。
貝を布で包む。 包むと刺さらない。 刺さらないと、家へ持って帰れる。
夕方。 家の中が少し暗くなるころ、父が軒下の貝殻の糸を見ていた。 貝殻が揺れて、ちい、と鳴る。 守りの音。
幹夫が貝を差し出す。 いきなり渡さない。 置き布の上に、そっと置く。
とん。
小さい音。 小さい音は眠る。
「……これ。……聞ける」
父が貝を受ける前に、いちど息を吐いた。
ふう……。
「……貝、か」
父は貝を耳に当てた。 耳が、門の中に座る。
ざあ……。
父の目が、ほんの少しだけやわらかくなった。 やわらかい目は、今ここにいる目だ。
「……海の音だな」
父が言った。 名前を置く。 置けると、音は音のままで座る。
母が台所から言う。
「聞こえるだに。……貝は門だに。耳だけ入れて、海を入れる」
祖母が淡々と言う。
「門は閉めるな。……閉めると腹が荒れる。開けすぎるな。……開けすぎると刺さる」
父が小さく息を吐いた。
ふう……。
「……今夜の拍子木も……これみたいに聞けたらいいな」
幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
「……父ちゃん。……聞いて、いい?」
父が幹夫を見る。 今ここで見る目。
「……いい」
幹夫は言った。 急がず、置く。
「……今夜……こわくなったら……ぼく、いる」
父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。
ふう……。
「……いる、って……聞こえると……助かるな」
“聞こえると助かる”。 耳だけじゃない聞こえる。 胸に届く聞こえる。
夜。 飯の匂いが家の奥へ落ち着いたころ。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆。 白い継ぎ目は、今日もそこにある。 でも痛くない。
「幹夫。……今日はこれだに」
母がゆっくり書いた。
聞
幹夫はその字を見た瞬間、回覧板の紙の音と、先生の黒板と、貝の中の海が一緒に浮かんだ。
母は外側を指でなぞった。
「ここ、門だに。……境目。ここまで」
門。 線。 守。 間。
母は中を指でなぞった。
「ここ、耳だに。……受けるところ」
受ける。 置く手。 聞く耳。
母は息をひとつ入れてから、低く言った。
「聞くってのはな……門(境目)の中に耳を置いて、入れ方を選ぶ字だに。全部入れると潰れる。全部閉めると届かん。……“ちょうどいい開け方”が、ま。間。息」
父がま札を指で撫でて、ぽつりと言った。
「……今日、回覧で……門、閉めそうになった」
母が頷く。
「うん。……でも、みきが『聞いていい?』って門を作った。だから耳が座っただに」
祖母が淡々と言う。
「聞けりゃ飯がうまい。……聞かんと腹が荒れる」
母が続けた。
「それとな、聞くってのは“相手を許す”ってことでもあるだに。相手の声が入る分だけ、余地を作る。……聞いてもらえると、人は座れる」
父が小さく息を吐いた。
ふう……。
「……俺、聞いてもらえるの……好きだ」
好き。 父の好きが出ると、家の中が少し明るい。
幹夫の胸が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
幹夫は鉛筆を握った。 聞を書く。
一回目の「聞」は、門が細くて、耳が窮屈で、字が息苦しい顔になった。 息苦しいと、聞くが“侵入”に見える。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「息苦しいときはな……門を広げりゃええ。耳の居場所を作る。……息、入れてから」
幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。
――いき。
二回目の「聞」は、門が少し広くなって、耳が座った。 座ると、聞ける字になる。
父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。
「……俺も、書く」
父の「聞」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 最後の点を置く前に、父は一度止まって――息を吐いた。
ふう……。
吐いてから、点を置いた。
「……点、置くと……耳が門の中に座るな」
母が小さく頷いた。
「うん。……座れば、聞ける。聞けりゃ、夜も短くなるだに」
夜更け。 外で拍子木が鳴った。
カン、カン。
木の乾いた音。 でも、幹夫はその“……のところ”を探して、息を入れた。
――いき。
父も、ふう、と息を吐いた。
ふう……。
「……聞けた。……今日は、聞けた」
聞けた。 それは勝ち負けじゃなく、守りの言葉。
父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、震える字で書いた。
かいらんけいかいむね 走りそう に なったでもみきぼう「きいて いい?」 っていったそれがたすかった聞もん の なか の みみいれかた を えらぶこんやかん の あいだきけたいき
父がぽつりと言った。
「……みき坊。……聞くの、こわい日もある」
幹夫は頷く前に息を入れた。
――いき。
「……うん。……でも、門、作れば……聞ける」
父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。
ふう……。
「……門……好きだな。……閉めなくていい門」
母の低い声が、暗い中で落ちた。
「閉めんでええだに。……耳だけ座らせりゃええ」
祖母が淡々と言う。
「座れりゃ飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」
また明日。 聞ける明日。
幹夫は袋を押さえて、口の中で小さく言った。
――いき。
翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、三つ重なっていた。
一枚目、母の字。
聞 はもん(ここまで) の なか にみみ を すわらせるいれかた を えらぶうん
最後に、小さな丸。
二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。
みきぼうきのう「きいて いい?」 がたすかった聞 って じすこしおれ の むねひらくありがとう
その下に、丸がひとつ。
三枚目。 文字じゃなく――小さな巻貝。 薄い布で包んであって、刺さらない。 包みの端に、父の震える字で小さく、
うみ
と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。
幹夫はその包みを掌にのせて、息をひとつ入れた。
――いき。
聞く。 門を全部開けない。 でも閉め切らない。 耳を座らせて、入れ方を選ぶ。 聞いていい、って門を作ると、胸は刺さらない。
蒲原に、サイレンは届かなかった。 けれど今日、貝の中で鳴る小さな海と、父の「聞けた」は届いた。 届いた音を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、刺さらない聞き方を、そっと胸の中に座らせていった。




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