許の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月7日
- 読了時間: 7分

届出を出してから、家の空気は少しだけ薄いまま、毎日を続けていた。 続ける、というのは、何も変わらないふりをすることじゃない。鍋を焦がさないように、針を折らないように、畳の目を踏み外さないように――胸の中の波をこぼさない工夫を、ただ繰り返すことだ。
母は朝、控え帳の端の棒を一本増やした。 増やしてから、棒の列を指でなぞって、いちどだけ息を入れた。 まず、いき。
祖母は味噌を溶きながら、淡々と言った。
「届出出したら、次ぁ“許可”だら。紙が紙を呼ぶ」
紙が紙を呼ぶ。 その言い方が、怖いのにどこか頼もしかった。紙は薄いのに、呼び合うと道になる。道ができると、迷子になりにくい。
幹夫は上着のポケットの石を握った。 丸い石。冷たい。重い。 重いのに、痛くない。 角がない重さは、胸の走りを少しだけ遅くしてくれる。
昼近く、日が畳へまっすぐ落ちて、影が短くなったころ、鈴が鳴った。
ちりん。
細い音。 細いのに、胸の奥を先に叩く音。
幹夫は立ち上がりかけて、止まった。 止まれるのが、今日は少し偉かった。 速の字のときに母が言った――落とさない、ってこと。胸だけ走って束を落としたら、紙も言葉も散ってしまう。
母が立った。 立ち方が、ほんの少し遅い。 遅いのは迷いじゃない。迷いがあるのに、逃げない遅さだ。
戸が開く。 外の光がいちど畳の影を揺らす。 紙の擦れる音がして、白い封筒が母の手に渡る。
清水。役場。
母の喉が、ほんの少し動いた。 その動きを幹夫は見てしまう。 見てしまうと、見なかったことにできない。 見なかったことにできないと、胸の中の警報が尖りそうになる。
母は封筒をちゃぶ台に置かなかった。 控え帳の横へ、そっと置いた。落とさない置き方。飛ばさない置き方。 紙を紙のままにしておく置き方。
祖母が台所から聞いた。
「来たか」
母はすぐに答えず、封筒の口に指を入れた。 ぱき。 固い封筒が「決める」音を出す。
母は中の紙を取り出し、目を走らせた。 走って、止まって、また走って――止まったところで、息をひとつ入れた。
まず、いき。
母の口が、小さく動いた。
「……許可……」
許可。 その二文字が畳の上に落ちた瞬間、幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったのに、叫ばない。叫ばない鳴り方だった。
母は続けて読んだ。 声に出さずに。 でも幹夫には、母の目が追っている行の途中で、指先がほんの少し震えるのが見えた。
「……引渡し……日……」
ひきわたし。 音が硬い。硬いのに、戻る匂いがする。 渡す、は手が離れる言葉。 引き渡す、は戻ってくる言葉にも聞こえる。矛盾みたいに。
母は紙の端を押さえたまま、低く言った。
「……“許可”が出た。引き受け、認めるって」
認める。 認の字。心の上の刃。 でも今日は、その刃の先が少し丸く見えた。許可、という言葉が、刃に布を巻いたみたいに。
祖母は鍋のふたを閉めて、座敷へ顔を出した。
「ほいで、いつだい」
母は紙の一行を指で押さえて、淡々と言った。
「……明後日。午の刻」
午。 その音に、幹夫は胸の中の「時」を思い出した。日と寺で時。 午は、昼の真ん中の字だと、どこかで聞いた気がする。
母は紙を丁寧に折り、控え帳の間に挟んだ。 挟むと、紙は飛ばない顔になる。 飛ばない顔が増えたのに、母の肩は落ちきらなかった。落ちる前の高さのまま、固く止まっている。
幹夫は、怖さと嬉しさが同じ袋に入っているのを、また感じた。
しばらく、家の中で言葉が少なくなった。 少ないのに、音は増える。 針の音。湯の音。布をたたむ音。戸を静かに閉める音。
母は押し入れの奥から、古い包みを出してきた。 父のものだった布。潮の匂いが薄く残っている。 匂いは古いのに、胸の奥をいちばん新しく触る匂いだった。
母はその布を広げ、破れを確かめ、針を通した。 入って、出る。 戻って、進む。 返し縫いの戻りは、ほどけないための戻りだ。
幹夫はその横で、何もできずに座っていた。 できることは、息を入れることだけ。 でも息だけでも、逃げずにそこにいることになる。
母がぽつりと言った。
「幹夫……一緒に行くか」
行く。清水。白い面会室。あの目。あの声。 「みき坊」。 届いた呼び方の熱さが、また胸に来る。
幹夫は頷きかけて、止まった。 止まるのは、怖いから。 でも止まっても、逃げてはいない。
「……行きたい。けど……こわい」
言ってしまった瞬間、喉の奥が熱くなった。 怖い、と言うのは恥ずかしい。 でも母が「怖いって言っていい」と言ってくれた日があった。だから言えた。
母は針を止めて、幹夫を見た。 見方が、見届ける見方だった。
「うん」
母は短く頷いた。
「怖いの、ふつうだに」
ふつう。 その言葉が、幹夫の胸の角を少し丸くした。怖いのは自分だけじゃない。母も同じ袋を持っている。
母は続けた。
「……嬉しいのも、ふつう」
嬉しい、が出た瞬間、幹夫は胸がきゅっとした。 嬉しいと言っていいのか分からなかったからだ。 嬉しいと言ったら、サイレンが届かなかった夜を裏切るみたいで怖い。 でも嬉しいを閉じ込めると、息が足りなくなって刃が立つ。
母は、ふっと息を吐いて言った。
「許していい」
許していい。 誰を、ではなく――自分を、という言い方だった。
「母ちゃん、許すって……なに」
幹夫が聞くと、母は新聞紙の裏を引き寄せた。 真っ白じゃない白。 この白の上なら、言葉が転んでも大丈夫な気がする。
母は竹を継いだ鉛筆を取って、ゆっくり書いた。
許
幹夫は目をこらした。 左に、言。 右に、午。
「左は、言う、の言」
母の指がなぞる。 言の形は、証の字でも、認の字でも見てきた。 言は、紙の世界の骨みたいだ。
「右は、午。昼の字だに。……時間の“午”」
午。 母がさっき言った、午の刻。 字が、今日と明後日を糸で繋いだ気がした。
「許すってのはな」
母は言って、少しだけ間を置いた。 間の中に、息を入れた。
「言葉を……ほどく、ってこともある」
ほどく。 束をほどくのは怖い。散るから。 でもほどかないと、息が入らない場所がある。 母は、ほどくと散る怖さと、ほどかないと刃になる怖さの両方を知っている声だった。
「いい、って言う。……自分にも、相手にも」
いい、って言う。 その「いい」は、放り出す「いい」じゃない。 抱えたまま、少し力をゆるめる「いい」だった。
幹夫は鉛筆を握った。 竹の継ぎ目が掌に当たる。硬い。 硬さがあると、走りそうな胸を少し押さえられる。
言を書いて、午を書く。 一回目の「許」は、言が大きくて、午が小さくなった。 小さい午は、昼が来なさそうで怖い顔をした。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「許はな、きれいに書く字じゃない。……息が入る字だで」
息が入る字。 その言い方が、幹夫の胸にすとんと落ちた。
二回目を書いた。 言と午が少しだけ揃って、字が落ち着いた。 落ち着くと、力をゆるめられる気がした。
母は「許」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 消す丸じゃない。受け取る丸でもない。 ただ、「ここまで」の丸。
夕方、空っぽの袖の男が戸口に来た。 母が紙を見せると、男は短く頷いた。
「午の刻か」
男は言って、少しだけ口の端を噛んだ。
「……許可が出たってのは、でけぇな」
でけぇ、という言葉が、男の口から出ると、紙が少しだけ生活の言葉になる。 生活の言葉になると、息ができる。
祖母は鍋をかき回しながら、淡々と言った。
「許可が出ても、腹ぁ決めるのはこれからだに」
これから。 明後日。 午の刻。
母は男と祖母に、短く言った。
「行く。三人で」
三人で。 その言葉が、幹夫の胸を少しだけ軽くした。 軽いのに飛ばない軽さだった。間が短くなるからだ。
夜。 幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名は「おかあちゃんへ」。 中に、今日のいちばん言いたいことを入れた。
> うれしいって おもって いい? > こわいって いって いい? > どっちも ゆるして いい?
最後に、小さく書いた。
許
そして丸をひとつ。 胸の力を少しだけゆるめる丸。息の場所を作る丸。
紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは恥ずかしさと、明後日の熱の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。
翌朝、縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、母の字だった。
> うれしい も > こわい も > どっちも ほんと > ゆるす は > こころを ゆるめて > いき を いれる こと > うん
最後に、小さな丸。
幹夫は紙を胸に当てた。 紙が体温を吸って、少しだけしなる。 しなる音が、返事の音に聞こえた。
許すのは、忘れることじゃない。 許すのは、力をゆるめて息を入れて、持てる形にすること。 石が丸くなるみたいに。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今日、「許可」という二文字は届いた。 届いた二文字を胸の奥でそっと転がしながら、幹夫は明後日の“午の刻”へ向けて、息の間をひとつ、静かに作っていた。




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