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許の字

 朝の台所は、味噌の匂いがいちばん先に起きていた。 湯気は白くて、白いのに刺さらない。 白い湯気は、胸の奥の角をそっと丸くする。

 幹夫は縁側のふちに座って、首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。

 ――いき。

 袋の口の蝶結びは、きのうより少しだけほどよく揺れていた。 ほどよい、って、たぶん“許されてる”揺れ方だ。 ぎゅっと縮んでない。 抜けないのに、息が通る。

 台所から、母の声が落ちた。

「みき、汁運ぶかい? 熱いでな、ゆっくりだに」

 運ぶ。 運ぶって言葉は、胸の中でちょっとだけ背伸びする。 背伸びすると、うれしい。 うれしいと、走りそうになる。 走る前に、息。

 ――いき。

「……うん。……ゆっくり」

 母は椀を両手で持って、いったん置き布の上に置いた。 置いてから、幹夫の手のひらの位置を確かめる。

「ここ、受け皿にして。掴まん。……置く手だに」

 置く手。 受ける手。

 幹夫は椀を持ち上げる前に、指の腹でふちをそっと触った。 熱い。 熱いときは、急がない。 急ぐと、胸も手も暴れる。

 ――いき。

 母が小さく言った。

「息、入れてから」

 幹夫は息をひとつ入れて、椀を持ち上げた。 ふらり。 ふらり、としたのは、椀じゃなく幹夫の心だった。

 そのとき、縁側の端で父が薪を動かしていて――木の擦れる音がひとつ鳴った。

 ぎ、……。

 小さい音。 でも、朝の小さい音は、胸に届きやすい。

 父の肩が、ふっと上がりかける。 上がりかけて――止まる。 止まった「間」に、幹夫の胸は勝手に鳴った。

 ぽん。

 鳴ったから、息。

 ――いき。

 幹夫の足が、畳の目をひとつだけ踏み外した。 踏み外した、と気づいた瞬間、体は戻ろうとする。 戻ろうとすると、椀も揺れる。

 揺れて――

 かん。

 椀が、ちゃぶ台の脚に軽く当たった。 割れる音じゃない。 でも、割れそうな音。

 幹夫は息を止めたくなって、でも止めない。

 ――いき。

 母が、声を尖らせずに言った。

「置け。……いったん、置け」

 幹夫は椀を、置き布の上へ戻した。 とん。 小さい音。 小さい音は眠る。

 父の肩が、またふっと上がりかけて――止まった。 止まった「間」に、父が自分で息を吐いた。

 ふう……。

 父が口の中で小さく言った。

「……椀の音だ」

 名前を置く。 置けると、音は音のままで座る。

 母が椀を確かめて、ふちを指でなぞった。 なぞった指が、途中で止まる。

「……欠けた」

 欠けた。 その一言で、幹夫の胸がきゅっと縮んだ。 縮むと、息が細くなる。 細くなる前に、息。

 ――いき。

 欠けたのは、ほんの小さな欠け。 でも、今は物が少ない。 少ないのに欠けると、胸が痛い。

 幹夫は喉の奥が熱くなって、目の奥も熱くなった。 熱いと走りそうだから、息を入れてから言った。

 ――いき。

「……ごめんなさい」

 母は頷いた。 怒る頷きじゃない。 受ける頷き。

「うん。……言えた。えらいだに」

 父が欠けた椀を見て、しばらく黙った。 黙るのは、怒りを溜める黙りじゃなくて――息を探す黙りだった。

 父は懐から、丸い角の札を出した。 畳の上へ直接置かず、置き布の端へそっと置く。

 とん。

 小さい音。 小さい音は眠る。

「……ま」

 父は欠けた椀に手を伸ばす前に、いちど息を吐いた。

 ふう……。

 それから、椀をいきなり掴まずに、両手で受けるように持った。 欠けたところを、指の腹で確かめる。 確かめると、怖さが形になる。 形になると、手が荒れない。

 父が、低く言った。

「……怪我、したか」

 幹夫は首を振った。 首を振る前に、息。

 ――いき。

「……してない」

 父の肩が、すとん、と落ちた。 落ちると、部屋が少し広くなる。

「……よかった」

 よかった、が先に出た。 欠けたことより先に、幹夫が無事なことが出た。

 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 父は、欠けたところをもう一度見て、それから幹夫を見た。 見る目が遠くへ行かない。 今ここで見る目。

「……みき坊。……許す」

 許す。 その二文字が、畳にすとん、と座った。 座ると、胸の縮みがほどけていく。

 母が、ぶつけない声で続けた。

「欠けたぶん、役目変えりゃええだに。汁椀じゃなくて……塩の皿にするとか。終いにせん」

 終いにせん。 続く。 続ける道が見えると、涙が引っ込む。

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「欠けたら舐めるな。刺さる。……包め。削れ。使え」

 包め。削れ。使え。 祖母の言葉は、太い道。

 父は欠けた椀を置き布の上に置き、欠けた破片を探した。 破片は小さい。 小さいのに、角がある。

 父は破片を素手で持たず、布で包んだ。 包むと、刺さらない。

 幹夫は息をひとつ入れて、ぽつりと言った。

 ――いき。

「……許すって……切らない?」

 父が少し間を置いて、ふっと息を吐いた。

 ふう……。

「……切らない。……ゆるめる」

 ゆるめる。 解の夜の“ほどく”と、同じ匂い。

 学校の教室は、チョークの粉の匂いがした。 乾いた匂い。 乾いた匂いは、心を少しだけ尖らせる日がある。

 先生が黒板に字を書いた。

 

 きゅっ、きゅっ。

 先生が言った。

「今日は“許す”の許。許可の許。……怒りを持ったまま引っぱらずに、“ここまで”って言葉で区切る字だ」

 ここまで。 昨日の“昼まで”の匂い。 量を決める約束の匂い。

 先生が続ける。

「許すのは甘やかすのと違う。間違いを終いにして、次を始めることだ」

 次を始める。 続く。 結ぶ。 解く。 全部が、一本の糸になって胸の中で座った。

 幹夫は鉛筆を握った。 白い継ぎ目。 でも今日は、その白さが怖くない。 白さは“直した印”だから。

 ――いき。

 許、と書く。 言の形が先に来ると、言葉が先に座る。 その下の形が、どこか“昼”の匂いを持っている。

 幹夫は思った。 朝、父が言った「許す」は―― 椀を直すためじゃなく、幹夫の胸を直すための言葉だったんだ。

 正夫が横から小声で言った。

「みきぼー、許すって、むずかしい?」

 幹夫はすぐ答えそうになって、いちど息を入れた。

 ――いき。

「……むずかしい。……でも、端っこ探すと……できる」

 正夫が首を傾げる。

「端っこ?」

 幹夫は小さく頷いた。

「……怒りの端っこ。……ここまで、って言う端っこ」

 正夫は、ぽん、と机を叩きそうになって、叩かずに笑った。

「それ、いい! ここまでって言えると、続くんだ!」

 夕方。 家に帰ると、欠けた椀がちゃぶ台の端で、布に包まれて座っていた。 布の中は見えない。 見えないのに、そこにあるのが分かる。 分かると、胸が落ち着く。

 父が縁側の端で、小さな石をこすっていた。 浜で拾った、丸い石。 丸い石で、欠けた破片の角を削っている。

 しゃり、しゃり。

 削る音は小さい。 小さい音は眠る。

 父の肩が、音でふっと上がりかけて――止まる。 止まった「間」に、父が自分で息を吐いた。

 ふう……。

「……削る音だ」

 名前を置く。 置けると、音は音のままで座る。

 幹夫は袋を押さえて、息。

 ――いき。

 父は破片の角を削って、指でなぞって確かめた。 刺さらない角。 刺さらない角は、許された角だ。

 父がぽつりと言った。

「……欠けても……刺さらんようにできる」

 母が台所から、ぶつけない声で言う。

「人も同じだに。……欠けたとこを責めると刺さる。丸くすると、続く」

 祖母が淡々と言う。

「続けば飯がうまい。……刺さると腹が荒れる」

 父は削った破片を布で包み、欠けた椀のそばへ置いた。 置いてから、幹夫を見た。

「……みき坊。……朝、びっくりしたか」

 幹夫は正直に頷いた。 頷く前に、息。

 ――いき。

「……した。……割れたって思った」

 父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。

 ふう……。

「……俺も、びっくりした。……でも、ま、した」

 ま、した。 父が自分の口で言えるようになった“ま”。

 幹夫の胸が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

「……父ちゃん、許した」

 父は、ほんの少しだけ笑った。 笑いは刃じゃない。

「……許した。……怒り、引っぱらん」

 引っぱらん。 それは、今日の家の決まりみたいに聞こえた。

 夜。 飯の匂いが家の奥へ落ち着いたころ。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆。 白い継ぎ目は、今日もそこにある。 でも痛くない。

「幹夫。……今日はこれだに」

 母がゆっくり書いた。

 許

 幹夫はその字を見た瞬間、欠けた椀の音と、父の「許す」と、先生の「ここまで」が一緒に浮かんだ。

 母は左側を指でなぞった。

「こっちは言だに。……ことば」

 言葉。置く言葉。返す言葉。謝る言葉。許す言葉。

 母は右側をなぞった。

「こっちは午(うま)だに。……昼の字。いちばん明るいとこ」

 昼。 昼まで。 ここまで。 明るいとこで区切る。

 母は息をひとつ入れてから、低く言った。

「許すってのはな……言葉で“ここまで”って区切って、明るいほうへ返す字だに。怒りをずっと持つと暗くなる。暗いと、刺さる。……だから、言って終いにする。終いにしたら、次ができる」

 次。 続。 結。 解。

 母は続けた。

「許すって、忘れるんじゃない。……欠けたのは欠けたまま。けど刺さらんように丸くする。役目を変える。……みきの椀も、塩皿になって続く」

 父が新聞紙の「許」を見て、ぽつりと言った。

「……俺、許すの……下手だった」

 母は否定しない。 低く言った。

「うん。……下手でもええ。今日、言えた。『怪我したか』が先に出た。……それが許すの入口だに」

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「許せりゃ飯がうまい。……許せんと腹が荒れる。荒れりゃ手が切る」

 切る。 切らないための許し。

 父が小さく息を吐いた。

 ふう……。

「……切らんで……ゆるめる」

 ゆるめる。 “許”の音が、家の中でやさしく座った。

 幹夫は鉛筆を握った。 許を書く。

 一回目の「許」は、言が細くて、字が少し怖い顔になった。 怖い顔は、許すのが“我慢”みたいに見える。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「怖いときはな……言を太らせりゃええ。言葉に温度を入れる。……息、入れてから」

 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。

 ――いき。

 二回目の「許」は、言が少し座って、午も明るい顔になった。 明るいと、許せる字になる。

 父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 父の「許」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 最後の点を置く前に、父は一度止まって――息を吐いた。

 ふう……。

 吐いてから、点を置いた。

「……点、置くと……怒りが“ここまで”で止まるな」

 母が小さく頷いた。

「うん。……止まれりゃ、続く。続けば、また結べるだに」

 母は「許」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、削って丸くした破片の角みたいに見えた。

 夜更け。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、今日のページに震える字で書いた。

あさちゃわんかん って なったおれかた うごいたでもま していき してけが ない って きけた許す って いえた欠けた とこまるく する許ことば でここまでいき

 父がぽつりと言った。

「……みき坊。……許すの、こわい日もある」

 幹夫は頷く前に息を入れた。

 ――いき。

「……うん。……でも、言うと……暗くならない」

 父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。

 ふう……。

「……暗くならんの……好きだ」

 母の低い声が、暗い中で落ちた。

「好きって言えりゃ、許したってことだに。……心、ゆるんだだに」

 祖母が淡々と言う。

「ゆるめりゃ飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」

 また明日。 許せる明日。

 幹夫は袋を押さえて、口の中で小さく言った。

 ――いき。

 寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。

(とうちゃんへ も)

 中に書く。

ゆるす(許)ってことば でここまで って きめる じ なんだねきょうちゃわんかけたごめんなさい いえたとうちゃんけが あるか きいたゆるす って いったぼくあったかかったいき

 最後に、小さく「許」。 丸をひとつ。 “ここまで”の丸。

 紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは「かん」の音の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。

 翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、三つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

許 はことば でここまで って きめるくらく ならん よう にま を いれるうん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

みきぼうきのうかん って なってびく したでもま して息 して許す って いえた許 って じすこしおれ の むねゆるむありがとう

 その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。

 三枚目。 文字じゃなく――欠けた椀の小さな破片。 角が削って丸い。刺さらない。 薄い布で包んであって、包みの端に、父の震える字で小さく、

ここまで

 と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。

 幹夫はその包みを掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 許す。 言葉で“ここまで”と区切って、暗くなる前にゆるめる。 欠けたことは消えない。 でも刺さらない形にして、続けられる。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、欠けた椀より先に届いた父の「怪我したか」と「許す」は届いた。 届いた“明るいここまで”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、刺さらない許し方を、そっと胸の中に座らせていった。


 
 
 

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