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話の字

 朝の潮の匂いは、火の入った味噌の匂いに触れると、少しだけ甘くなる。 甘い匂いは、胸の奥の角を丸くする。 丸くなると、昨日の踏切の「カン、カン」も、少し遠くへ座る。

 幹夫は首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。

 ――いき。

 息をひとつ入れると、胸の真ん中が「ここ」に戻る。

 縁側の外で、子どもの足音が弾んだ。

 たたた。

 戸の外から声。

「みきぼー! これ、見て!」

 昨日の子だ。 踏切で目をきらきらさせていた子。 今日は、手に何かを抱えている。

 母が戸口へ行って、生活の声で言った。

「正夫か。朝っぱらから元気だに」

 正夫。 名前があると、声が刺さらない気がする。

 正夫は胸の前に、丸い缶を二つ抱えていた。 鰯の缶か、何かの空き缶。 薄い鉄が光って、朝の光をひっかける。

「これさ、糸電話できるだら!」

 糸電話。 糸。 線。 話。 いままでの字が、いっぺんに胸の中へ来て、幹夫の胸がぽん、と鳴った。

 鳴ったから、息。

 ――いき。

 母が缶を見て、眉をちょっと上げた。

「釘、要るら?」

 釘。 針。 尖いもの。 尖いものは、父の肩を上げる日がある。

 幹夫は反射みたいに縁側のほうを見た。 父は縁側に座っていた。 目は遠くへ行っていない。 でも、缶の光に一瞬だけ眉の間が寄った。

 寄ったのが見えたから、幹夫は袋を押さえて息を入れた。

 ――いき。

 父が、ぽつりと言った。

「……糸、あるか」

 その声は、刃じゃなかった。 “やる”の声だった。

 母が答える。

「縫い箱にある。……でも、穴、開けるとき、音、出すなよ」

 音。 家の合言葉。

 父は「うん」と短く返して、立ち上がった。 立ち上がり方が急がない。 急がないと、朝が刺さらない。

 縫い箱の横に、古い布が一枚敷かれた。 布の上なら、缶を置いても「がん」と鳴りにくい。

 母が糸巻きを出した。 白い糸。 昨日の糸巻きと同じ匂い。

 父は釘を持つ前に、缶を布の上に置いた。 置く。 投げない。 落とさない。 置くと、尖さが尖さのまま暴れない。

 正夫が口をとがらせて言った。

「釘、どんって叩けば穴あくじゃん」

 どん。 その音が、幹夫の胸の奥で小さく跳ねた。 跳ねたから、息。

 ――いき。

 母が正夫の頭を、軽くこつん、と撫でた。

「どんは、今日は無しだに。……少しずつ、だに」

 少しずつ。 家の太い道。

 父は釘の先を、缶の底の真ん中にそっと当てた。 当てて、止まる。 止まって、少し。

 その「少し」に、幹夫は息を入れた。

 ――いき。

 父は、金槌みたいなものを使わなかった。 手のひらで、釘の頭をじわっと押した。 押しながら、缶を布の上で支える。 支えると、音が眠る。

 きゅ。

 金属が、布の上で小さく擦れるだけ。

 正夫が目を丸くした。

「……音、ちっちゃい」

 父が、ちょっとだけ口の端を上げた。 笑いきれないのに、笑いの形。

「……小さいほうが……通る」

 通る。 糸が通る。 息が通る。 間が通る。

 穴がひとつ、あいた。 もうひとつも、同じように。 父は最後まで、音を大きくしなかった。

 糸を通す。 通して、結ぶ。 固く縛らない。 ほどける余地を残す。

 幹夫の胸の奥が、すとん、と座った。

 ――いき。

 糸がぴん、と張られる前に、父は少したわみを残した。 たわみがあると、切れにくい。 切れにくいと、怖さが減る。

 正夫が缶を一つ掴んで、幹夫へ差し出した。

「ほら! みきぼー、持って!」

 幹夫は両手で受け取った。 缶は軽いのに、冷たい。 冷たいと、今ここが分かる。

 父がもう一つを持った。 父の手つきは、置く手つき。 缶を握りつぶさない手つき。

「……離れろ」

 父が言った。 離れる。 離れると糸が張る。 張ると音が通る。 でも張りすぎない。

 正夫が走り出しそうになって、母に目で止められた。

「走るな。……糸が泣く」

 糸が泣く。 その言い方が、幹夫は好きだった。 泣かせないための暮らしの言葉。

 庭の端と端。 糸が一本、細く光る。 光るのに、刺さらない。 刺さらないのは、たわみがあるからだ。

 正夫が、缶に口を近づけて叫びそうになって――母が低く言った。

「叫ぶな。……話せ」

 話せ。 その言葉が、畳の目の上に座るみたいに落ちた。

 正夫が小さく言った。

「……みきぼー、聞こえる?」

 幹夫は缶を耳に当てた。 耳に当てると、金属がひんやりする。 ひんやりは、今ここを強くする。

 缶の底の向こうから、正夫の声が来た。

 (みきぼー、きこえる?)

 糸を伝って、声がまっすぐ来る。 空気の中を飛ぶより、少しだけ安心の来方。

 幹夫の胸がぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 幹夫は缶に口を近づけて、小さく言った。

「……きこえる」

 言った自分の声が、糸を通って向こうへ行くと思うと、少し怖い。 怖いのに、嬉しい。 嬉しいと走りそうになるから、息を入れてから、もう一言。

 ――いき。「……正夫、すごい」

 向こうから、正夫の笑い声が来た。 笑い声は小さいのに、胸の奥をくすぐる。

 父が、缶を口元へ持っていった。 父はしばらく止まった。 止まって、少し。 その「少し」に、幹夫は息を入れた。

 ――いき。

 父が、缶に向かって小さく言った。

「……みき坊」

 糸の向こうから、自分の名前が来た。

 (……みきぼう)

 声が、耳の中へまっすぐ座った。 まっすぐなのに、刺さらない。 刺さらないのは、父が叫んでいないからだ。 置くみたいに言っているからだ。

 幹夫の喉の奥が熱くなった。 熱いと走りそうだから、息。

 ――いき。

「……うん」

 父は返事を急がず、缶の中へもう一つ置いた。

「……ここだ」

 (……ここだ)

 父の“ここだ”が、糸を通って来る。 それだけで、幹夫の胸の奥の警報が、少し丸くなる気がした。

 正夫がふざけて、缶に息を「ぶう」と入れた。 糸の向こうで、音が少し割れる。

 父の肩が、ふっと上がりかけて――止まった。 止まれた肩。 父は、缶を耳に当てたまま言った。

「……今のは……息だ」

 息。 名前がついた。 名前がつくと、音は音のままでいられる。

 母が、庭の真ん中で小さく言った。

「聞いたら、話せ。……話したら、戻れ」

 戻れ。 道の言葉。

 正夫が、少しだけ真面目な声で言った。

「……おじさん、すげぇ」

 父はすぐ返事をしなかった。 でも、黙りは怖い黙りじゃなかった。 黙りの中に、糸が一本通っている。

 父が缶へ、小さく置くように言った。

「……すげぇのは……音、ちいさくしたことだ」

 正夫が、向こうで「うん」と頷く気配がした。 気配も、糸を伝う。

 幹夫は缶を胸に抱えた。 冷たい缶。 冷たいのに、胸の中は少しあたたかい。

 ――いき。

 夕方。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆を置く。 継ぎ目は今日も痛くない。

「幹夫。……今日はこれだに」

 母がゆっくり書いた。

 話

 幹夫は、その字を見た瞬間、糸電話の一本の糸を思い出した。 声が、線を渡った。 渡って、戻った。 戻っても、刺さらなかった。

 母は左側を指でなぞった。

「こっちは言だに。言葉」

 言葉。 置ける言葉。 刺さらない言葉。

 次に右側をなぞった。 舌の形。

「こっちは舌だに。……口の中の、ぺらっとしたやつ」

 舌。 舌は、味も見る。 熱いとき、痛い。 でも、噛まなきゃ飯はうまくならない。

 母は息をひとつ入れてから、低く言った。

「話すってのはな……言葉を、舌で外へ出して置く字だに。叫ぶのとは違う。置くんだに」

 置く。 今日の父の「みき坊」。 置いた声だった。

 母は続けた。

「それとな、話すには“聞く”が要る。耳が門の中に座ってないと、舌だけ出ても刺さる」

 刺さる。 舌は、刃にもなる。 だから、間。 だから、息。

 父が新聞紙の「話」を見て、ぽつりと言った。

「……糸があると……話しやすいな」

 糸。 線。 たわみのある線。

 母は否定しなかった。 低く言った。

「うん。……糸電話みたいに、線があると、言葉が迷子になりにくい。家の中も、同じだに」

 家の中の線。 縫い箱の下の紙。 綴じた冊子。 毎日の「いき」。 それが線で、糸で、話になる。

 幹夫は鉛筆を握った。 言を書く。 舌を書く。

 一回目の「話」は、舌が尖って見えて、胸がきゅっとした。 尖ると刺さりそうで怖い。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「尖ったらな……間を入れりゃええ。舌の先を急がせん。……息、入れてから書く」

 息。 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。

 ――いき。

 二回目の「話」は、少し丸い顔になった。 丸いと、刺さらない。

 父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 母が父を見て頷いた。 頷きは許しになる。 許しがあると、手が伸びる。

 父の「話」は、言の線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 舌の最後の払いを書いたとき、父は一度だけ息を止めて――止めたあと、ふっと吐いた。

「……話すと……息が出るな」

 母は「うん」とだけ返した。 折り目のある「うん」。

「うん。……息が出たら、戻れるだに」

 母は「話」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、缶の口みたいに見えた。

 夜。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、今日のページに震える字で書いた。

 > いとでんわ > はなせた > みきぼう > ここだ > いき

 “いき”は、丸く書いてある。 丸いと、刺さらない。

 父がぽつりと言った。

「……みき坊。……今日、俺……声、届いたか」

 届いたか。 確かめる問い。 怖さを、言葉にした問い。

 幹夫は返事を急がなかった。 急ぐと、言葉が尖るときがある。 だから、間。

 ――いき。

「……届いた。……耳に、まっすぐ来た」

 父は、ふっと息を吐いた。 軽くも重くもない、「ここまで」の息。

「……まっすぐは……怖い日もあるのに……今日は、怖くなかった」

 今日は。 日がある。 無理をしない言い方。

 母の低い声が、暗い中で落ちた。

「置いた声は、刺さらんだに。……話は、置くこと」

 祖母が淡々と言う。

「置けりゃ飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」

 また明日。 続きの言葉。

 幹夫は首の袋を押さえて、口の中で小さく言った。

 ――いき。

 寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。

(とうちゃんへ も)

 中に書く。

きょういとでんわせん が あってこえ が まっすぐ きたとうちゃんみきぼう って いってここだ って いったぼく の みみ に すわったいき

 最後に、小さく「話」。 丸をひとつ。 缶の口の丸。

 紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは缶の冷たさの名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。

 翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、三つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

はなす はことば をした で そとへ おくきかずに だすと ささるま と いきうん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

みきぼうきのういと が あった からはなせたみきぼう が きけたすこしここ に もどれた

 その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。

 三枚目。 文字じゃなく――白い糸が、短く巻かれている。 端っこが、引けばほどける。 ほどけたら、また巻ける。 糸のそばに、父の震える字で小さく、

はなし

 と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。

 幹夫はその糸を掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 話す。 置く。 聞く。 間を入れる。 線を一本、たわませて通す。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、糸の小さな“はなし”は届いた。 届いた一本の線を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、刺さらない声の置き方を、そっと増やしていった。

 
 
 

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