話の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月8日
- 読了時間: 9分

朝の潮の匂いは、火の入った味噌の匂いに触れると、少しだけ甘くなる。 甘い匂いは、胸の奥の角を丸くする。 丸くなると、昨日の踏切の「カン、カン」も、少し遠くへ座る。
幹夫は首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。
――いき。
息をひとつ入れると、胸の真ん中が「ここ」に戻る。
縁側の外で、子どもの足音が弾んだ。
たたた。
戸の外から声。
「みきぼー! これ、見て!」
昨日の子だ。 踏切で目をきらきらさせていた子。 今日は、手に何かを抱えている。
母が戸口へ行って、生活の声で言った。
「正夫か。朝っぱらから元気だに」
正夫。 名前があると、声が刺さらない気がする。
正夫は胸の前に、丸い缶を二つ抱えていた。 鰯の缶か、何かの空き缶。 薄い鉄が光って、朝の光をひっかける。
「これさ、糸電話できるだら!」
糸電話。 糸。 線。 話。 いままでの字が、いっぺんに胸の中へ来て、幹夫の胸がぽん、と鳴った。
鳴ったから、息。
――いき。
母が缶を見て、眉をちょっと上げた。
「釘、要るら?」
釘。 針。 尖いもの。 尖いものは、父の肩を上げる日がある。
幹夫は反射みたいに縁側のほうを見た。 父は縁側に座っていた。 目は遠くへ行っていない。 でも、缶の光に一瞬だけ眉の間が寄った。
寄ったのが見えたから、幹夫は袋を押さえて息を入れた。
――いき。
父が、ぽつりと言った。
「……糸、あるか」
その声は、刃じゃなかった。 “やる”の声だった。
母が答える。
「縫い箱にある。……でも、穴、開けるとき、音、出すなよ」
音。 家の合言葉。
父は「うん」と短く返して、立ち上がった。 立ち上がり方が急がない。 急がないと、朝が刺さらない。
縫い箱の横に、古い布が一枚敷かれた。 布の上なら、缶を置いても「がん」と鳴りにくい。
母が糸巻きを出した。 白い糸。 昨日の糸巻きと同じ匂い。
父は釘を持つ前に、缶を布の上に置いた。 置く。 投げない。 落とさない。 置くと、尖さが尖さのまま暴れない。
正夫が口をとがらせて言った。
「釘、どんって叩けば穴あくじゃん」
どん。 その音が、幹夫の胸の奥で小さく跳ねた。 跳ねたから、息。
――いき。
母が正夫の頭を、軽くこつん、と撫でた。
「どんは、今日は無しだに。……少しずつ、だに」
少しずつ。 家の太い道。
父は釘の先を、缶の底の真ん中にそっと当てた。 当てて、止まる。 止まって、少し。
その「少し」に、幹夫は息を入れた。
――いき。
父は、金槌みたいなものを使わなかった。 手のひらで、釘の頭をじわっと押した。 押しながら、缶を布の上で支える。 支えると、音が眠る。
きゅ。
金属が、布の上で小さく擦れるだけ。
正夫が目を丸くした。
「……音、ちっちゃい」
父が、ちょっとだけ口の端を上げた。 笑いきれないのに、笑いの形。
「……小さいほうが……通る」
通る。 糸が通る。 息が通る。 間が通る。
穴がひとつ、あいた。 もうひとつも、同じように。 父は最後まで、音を大きくしなかった。
糸を通す。 通して、結ぶ。 固く縛らない。 ほどける余地を残す。
幹夫の胸の奥が、すとん、と座った。
――いき。
糸がぴん、と張られる前に、父は少したわみを残した。 たわみがあると、切れにくい。 切れにくいと、怖さが減る。
正夫が缶を一つ掴んで、幹夫へ差し出した。
「ほら! みきぼー、持って!」
幹夫は両手で受け取った。 缶は軽いのに、冷たい。 冷たいと、今ここが分かる。
父がもう一つを持った。 父の手つきは、置く手つき。 缶を握りつぶさない手つき。
「……離れろ」
父が言った。 離れる。 離れると糸が張る。 張ると音が通る。 でも張りすぎない。
正夫が走り出しそうになって、母に目で止められた。
「走るな。……糸が泣く」
糸が泣く。 その言い方が、幹夫は好きだった。 泣かせないための暮らしの言葉。
庭の端と端。 糸が一本、細く光る。 光るのに、刺さらない。 刺さらないのは、たわみがあるからだ。
正夫が、缶に口を近づけて叫びそうになって――母が低く言った。
「叫ぶな。……話せ」
話せ。 その言葉が、畳の目の上に座るみたいに落ちた。
正夫が小さく言った。
「……みきぼー、聞こえる?」
幹夫は缶を耳に当てた。 耳に当てると、金属がひんやりする。 ひんやりは、今ここを強くする。
缶の底の向こうから、正夫の声が来た。
(みきぼー、きこえる?)
糸を伝って、声がまっすぐ来る。 空気の中を飛ぶより、少しだけ安心の来方。
幹夫の胸がぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
幹夫は缶に口を近づけて、小さく言った。
「……きこえる」
言った自分の声が、糸を通って向こうへ行くと思うと、少し怖い。 怖いのに、嬉しい。 嬉しいと走りそうになるから、息を入れてから、もう一言。
――いき。「……正夫、すごい」
向こうから、正夫の笑い声が来た。 笑い声は小さいのに、胸の奥をくすぐる。
父が、缶を口元へ持っていった。 父はしばらく止まった。 止まって、少し。 その「少し」に、幹夫は息を入れた。
――いき。
父が、缶に向かって小さく言った。
「……みき坊」
糸の向こうから、自分の名前が来た。
(……みきぼう)
声が、耳の中へまっすぐ座った。 まっすぐなのに、刺さらない。 刺さらないのは、父が叫んでいないからだ。 置くみたいに言っているからだ。
幹夫の喉の奥が熱くなった。 熱いと走りそうだから、息。
――いき。
「……うん」
父は返事を急がず、缶の中へもう一つ置いた。
「……ここだ」
(……ここだ)
父の“ここだ”が、糸を通って来る。 それだけで、幹夫の胸の奥の警報が、少し丸くなる気がした。
正夫がふざけて、缶に息を「ぶう」と入れた。 糸の向こうで、音が少し割れる。
父の肩が、ふっと上がりかけて――止まった。 止まれた肩。 父は、缶を耳に当てたまま言った。
「……今のは……息だ」
息。 名前がついた。 名前がつくと、音は音のままでいられる。
母が、庭の真ん中で小さく言った。
「聞いたら、話せ。……話したら、戻れ」
戻れ。 道の言葉。
正夫が、少しだけ真面目な声で言った。
「……おじさん、すげぇ」
父はすぐ返事をしなかった。 でも、黙りは怖い黙りじゃなかった。 黙りの中に、糸が一本通っている。
父が缶へ、小さく置くように言った。
「……すげぇのは……音、ちいさくしたことだ」
正夫が、向こうで「うん」と頷く気配がした。 気配も、糸を伝う。
幹夫は缶を胸に抱えた。 冷たい缶。 冷たいのに、胸の中は少しあたたかい。
――いき。
夕方。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆を置く。 継ぎ目は今日も痛くない。
「幹夫。……今日はこれだに」
母がゆっくり書いた。
話
幹夫は、その字を見た瞬間、糸電話の一本の糸を思い出した。 声が、線を渡った。 渡って、戻った。 戻っても、刺さらなかった。
母は左側を指でなぞった。
「こっちは言だに。言葉」
言葉。 置ける言葉。 刺さらない言葉。
次に右側をなぞった。 舌の形。
「こっちは舌だに。……口の中の、ぺらっとしたやつ」
舌。 舌は、味も見る。 熱いとき、痛い。 でも、噛まなきゃ飯はうまくならない。
母は息をひとつ入れてから、低く言った。
「話すってのはな……言葉を、舌で外へ出して置く字だに。叫ぶのとは違う。置くんだに」
置く。 今日の父の「みき坊」。 置いた声だった。
母は続けた。
「それとな、話すには“聞く”が要る。耳が門の中に座ってないと、舌だけ出ても刺さる」
刺さる。 舌は、刃にもなる。 だから、間。 だから、息。
父が新聞紙の「話」を見て、ぽつりと言った。
「……糸があると……話しやすいな」
糸。 線。 たわみのある線。
母は否定しなかった。 低く言った。
「うん。……糸電話みたいに、線があると、言葉が迷子になりにくい。家の中も、同じだに」
家の中の線。 縫い箱の下の紙。 綴じた冊子。 毎日の「いき」。 それが線で、糸で、話になる。
幹夫は鉛筆を握った。 言を書く。 舌を書く。
一回目の「話」は、舌が尖って見えて、胸がきゅっとした。 尖ると刺さりそうで怖い。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「尖ったらな……間を入れりゃええ。舌の先を急がせん。……息、入れてから書く」
息。 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。
――いき。
二回目の「話」は、少し丸い顔になった。 丸いと、刺さらない。
父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。
「……俺も、書く」
母が父を見て頷いた。 頷きは許しになる。 許しがあると、手が伸びる。
父の「話」は、言の線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 舌の最後の払いを書いたとき、父は一度だけ息を止めて――止めたあと、ふっと吐いた。
「……話すと……息が出るな」
母は「うん」とだけ返した。 折り目のある「うん」。
「うん。……息が出たら、戻れるだに」
母は「話」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、缶の口みたいに見えた。
夜。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、今日のページに震える字で書いた。
> いとでんわ > はなせた > みきぼう > ここだ > いき
“いき”は、丸く書いてある。 丸いと、刺さらない。
父がぽつりと言った。
「……みき坊。……今日、俺……声、届いたか」
届いたか。 確かめる問い。 怖さを、言葉にした問い。
幹夫は返事を急がなかった。 急ぐと、言葉が尖るときがある。 だから、間。
――いき。
「……届いた。……耳に、まっすぐ来た」
父は、ふっと息を吐いた。 軽くも重くもない、「ここまで」の息。
「……まっすぐは……怖い日もあるのに……今日は、怖くなかった」
今日は。 日がある。 無理をしない言い方。
母の低い声が、暗い中で落ちた。
「置いた声は、刺さらんだに。……話は、置くこと」
祖母が淡々と言う。
「置けりゃ飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」
また明日。 続きの言葉。
幹夫は首の袋を押さえて、口の中で小さく言った。
――いき。
寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。
(とうちゃんへ も)
中に書く。
きょういとでんわせん が あってこえ が まっすぐ きたとうちゃんみきぼう って いってここだ って いったぼく の みみ に すわったいき
最後に、小さく「話」。 丸をひとつ。 缶の口の丸。
紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは缶の冷たさの名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。
翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、三つ重なっていた。
一枚目、母の字。
はなす はことば をした で そとへ おくきかずに だすと ささるま と いきうん
最後に、小さな丸。
二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。
みきぼうきのういと が あった からはなせたみきぼう が きけたすこしここ に もどれた
その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。
三枚目。 文字じゃなく――白い糸が、短く巻かれている。 端っこが、引けばほどける。 ほどけたら、また巻ける。 糸のそばに、父の震える字で小さく、
はなし
と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。
幹夫はその糸を掌にのせて、息をひとつ入れた。
――いき。
話す。 置く。 聞く。 間を入れる。 線を一本、たわませて通す。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、糸の小さな“はなし”は届いた。 届いた一本の線を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、刺さらない声の置き方を、そっと増やしていった。




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