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認の字

 清水へ行く朝、母は紙を三度そろえた。 そろえて、角を指でなでて、またそろえる。角が揃うと、胸の中のものが少しだけ揃う――そうやって母は、声の代わりに手を動かす。

 控え帳。 受領証。 配達済。 報告。 写真屋の預り票。 確認、と書かれた紙。

 紙は薄いのに、重ねると重くなる。 重くなると、落としたくなくなる。 落としたくないから、母は紐で結んだ。細い紐を、ほどけないように二回巻いて、結び目を小さく固く作った。

 祖母は台所で握り飯を包みながら、淡々と言った。

「今日は“窓口”で長う待たされるら。水、持ってけ」

 水筒の蓋が、きゅ、と鳴った。 その音が、胸に頼もしかった。紙は乾く。喉も乾く。乾くと声が刃になる。刃になる前に、水は息を作る。

 幹夫は内ポケットの鉛筆を確かめて、次に、上着のポケットの石を握った。 浜で拾った丸い石。冷たい。重い。 重いのに、痛くない。 角がないから、重さは支えになる。

 戸口の外で、足音が止まった。 空っぽの袖の男が立っていた。帽子を手に持って、笑おうとして、笑いきれない顔。

「行くか」

 男の声は低い。命令しない低さ。 母は小さく頷いた。

「……頼む」

 頼む、が言える母の口が、幹夫には少しだけ眩しかった。 眩しいのに、光みたいに刺さらない。刺さらないのは、頼むの前にちゃんと息を入れていたからだ。

 汽車の中は、いつもより混んでいた。 人の背中が多いと、空気が薄くなる。薄くなるのに、誰も大声を出さない。大声を出さないのに、胸の音はうるさい。

 母は風呂敷包みを膝の上で押さえた。 押さえる指が、ときどき強くなる。強くなるたび、幹夫は石を握り直した。握り直すと、冷たさが戻ってくる。冷たさが戻ると、息も戻る。

 男は窓の外を見ていた。 窓の外の海は、今日は遠い青だった。 遠い青は、迎えの汽笛の低さを思い出させる。思い出すと、胸の奥がきゅっとなる。

 駅に着くころ、母がぽつりと言った。

「……“確認”って書いてあったな」

 幹夫は頷いた。 確認。確かめる。石の字が入っている。 石の字が入っていると、少しだけ持てる気がするのが不思議だった。

「確かめるって、怖いね」

 幹夫が小さく言うと、母は窓を見ないまま、うん、と短く返した。 その「うん」は、縫い箱の下の「うん」みたいだった。声の形なのに、折り目の匂いがした。

 清水の役場は、前に来たときより人が多かった。 紙の匂いが濃い。紙が長くここにいる匂い。 机の上の紙の山は崩れない。崩れないのが、かえって怖い。

 窓口の前に並ぶ背中は、みんな少し丸くて固い。 丸いのは、崩れないため。 固いのは、待つため。

 母は列の最後に並んだ。 男は母の少し後ろに立ち、幹夫は母の袖の近くにいた。 袖が近いと、息ができる。袖が遠いと、間が長くなる。

 壁に貼られた紙に、幹夫の目が止まった。 大きく、太い字。

 本人確認

 確認。 そして、本人。 本、という字は幹夫にも少し分かる。木の根っこがある字。根っこがあると、本物の匂いがする。

 列が少し進んだ。 進むたび、母の喉がほんの少し動く。 喉の動きは、声の前の動きだ。声にしないぶん、体が先に動く。

 ようやく窓口が近づいたとき、母は風呂敷包みを開いて、紐で結んだ紙束を取り出した。 取り出す手が丁寧すぎて、幹夫の胸がきゅっとした。丁寧すぎると、壊れそうに見える。

 順番が来た。 窓口の向こうの男は、目が疲れている目をしていた。疲れているのに、紙だけは正確に見る目。

「……照会の件ですね」

 男はそう言って、母の差し出した紙束を受け取った。 指が紙の端を揃える。 揃える動きが、母と同じだった。紙の世界の人は、みんな角で呼吸する。

 男は紙をめくり、めくり、止まった。 止まったところで、鉛筆を取り、何かを書き足した。 書き足す音は、針の音より太い。太いのに、小さい音。

「……写真の写し、受領。はい」

 男が言った。 受領。 受け取った、という意味だと幹夫はもう知っている。残す言葉。

 男は次の紙を見て、少し眉を動かした。

「ええと……該当者の可能性がある、と報告がありまして」

 可能性。 その音が、母の肩を一瞬だけ上げた。上がって、すぐ落ちた。 上がるのは期待。落ちるのは怖さ。 期待と怖さは、同じ袋に入っている。

「ただ……“本人”かどうか、もうひとつ確認が必要です」

 男は淡々と言った。淡々と言うほど、言葉は刃になりにくい。 でも刃になりにくいだけで、痛くないわけじゃない。

「何を……」

 母の声が少しだけ掠れた。掠れるのは、息が足りないからだ。

 男は紙の一行を指で叩いた。

「身体的特徴。痣、傷、ほくろ。あと、声――方言の癖。家族の呼び方。そういうものを照らし合わせます」

 照らし合わせる。 昨日書いた「照」の字が、胸の奥で小さく火を灯した。 見えるようにする光。 見えるようにすると、見たくないものも見える。 でも見えないままだと、迷子になる。

 母はしばらく黙って、父の写真の目を思い出しているみたいだった。 思い出す目は、遠い。 遠いのに、逃げない。

「……傷は」

 母がやっと言った。

「……覚えとらん」

 覚えとらん、の言い方が、責める言い方じゃなく、自分をほどかない言い方だった。 無理に言うと嘘が混ざる。母は嘘の混ざりを嫌う。

 男は頷いた。 頷き方が、仕事の頷きだった。けれど、その中に少しだけ人の頷きも混ざっていた。

「分かる範囲でいいです。……家の古い帳面や、近所の方の証言があると助かります」

 証言。 男の空っぽの袖が、少しだけ揺れた。 揺れるのに、男の声は低く落ち着いている。

「俺、知っとる」

 男が言った。 急がせない声。 母は男を見て、小さく頷いた。頷きが返事になる。

 窓口の男は、紙をもう一枚出して差し出した。

「こちらに記入を。……“認”と書いて、署名してください」

 認。 幹夫の目が、その字を拾った。 門じゃない。石でもない。 見たことのない形なのに、なぜか胸の奥がきゅっとした。

 母が紙を受け取る手が、ほんの少し震えた。 震えは寒さじゃない。 書くことで決まってしまう震えだ。

 母は机の端で、鉛筆を握った。 書き始める前に、息をひとつ入れた。 まず、いき。

 書く。 止まる。 また書く。 母の字はまっすぐなのに、その日は少しだけ硬かった。硬いのは、折れないための硬さだ。

 男も、横で自分の名前を書いた。 片手の字。 片手なのに、字は崩れなかった。 崩れない字は、痛みの上に乗っている字だ。

 幹夫はその紙の端を見ていた。 端だけ見ていても、胸の奥が熱くなる。 熱いのに、声は出ない。 出るのは、息だけ。

 役場を出ると、空がやけに明るかった。 明るいと影が濃くなる。 濃い影は、くっついて歩く。

 母の影は、地面の上で少し長かった。 男の影も長い。空っぽの袖の影が、風で揺れる。 揺れる影は、ちょっとだけ泣きそうな形に見えた。

 幹夫は歩きながら、母の袖をしっかり掴んだ。 掴むと、間が短くなる。 間が短いと、息ができる。

「母ちゃん」

 幹夫が言うと、母は「なに」と返した。 返し方が柔らかい。 柔らかいと、言葉が門の中で刃にならない。

「認って……なに」

 母は少しだけ空を見た。 空を見る目は、答えの代わりに広さを持ってくる目。

「……認める、の認だに」

 母はそう言って、歩きながら指で空に字を書いた。 左に、言。 右に、忍。

「言う、の言と……忍ぶ、の忍」

 忍。 上に刃みたいな線。下に心。 心の上に刃がある字だと幹夫は思った。思っただけで喉が熱い。

「心が痛くても、言う。……それが、認める」

 母の声は低かった。倒れない低さ。 倒れないのに、そこにちゃんと痛みが入っているのが分かった。 痛みが入っているのに刃にならないのは、母が息を入れているからだ。

 幹夫はポケットの石を握った。 丸い石。 痛い角を、時間で丸めた形。

 ――認めるのも、丸く持てるだろうか。 幹夫はそんなことを思ってしまった。

 帰りの汽車。 母は控え帳を開き、今日渡された紙の控えを挟んだ。 挟むと、紙は飛ばない顔になる。 飛ばない顔が増えるほど、母の肩がほんの少しずつ落ちる。

 男は窓の外を見ながら、ぽつりと言った。

「……あいつ、左の眉のとこ、傷あった」

 母の指が止まった。 止まって、喉がほんの少し動いた。 でも母はすぐに頷かなかった。頷く前に、息をひとつ入れた。

「……どんな」

「細い線だ。笑うと、そこだけちょっと上がる」

 男はそう言って、自分の眉の上を指でなぞった。 なぞり方が丁寧だった。 丁寧に触るのは、覚えている証拠だ。

 母は目を伏せた。 伏せた目は、折り畳んだ声の形をしていた。 それから小さく言った。

「……そうだったかもしれん」

 かもしれん。 その言葉が、幹夫には救いだった。断言しないことは、嘘を混ぜないことだ。 嘘を混ぜないと、紙の上の線が折れにくい。

 幹夫は帳面を出し、揺れる車内でひらがなで書いた。

 > みぎ じゃなくて > ひだり まゆ > きず

 そして小さく、今日聞いた字を、形だけ置こうとしてみた。 言。 忍。 認。

 うまく書けない。 うまく書けないのに、字の中の心の上の刃が、胸の奥に残った。

 家へ戻ると、祖母が戸口で待っていた。 母は控え帳を見せて言った。

「また、照らし合わせるって」

 祖母は「ほう」と頷いて、鍋のふたを閉めた。 生活の音が、家を家に戻す。 戻る音があると、胸の奥の警報は尖らない。

 夜、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名は「おかあちゃんへ」。 中に、今日のことを入れる。

 > にん って > こころのうえに はがある みたい > でも いし で まるく もつ

 最後に、ぎこちない「認」を小さく書いて、丸をひとつ描いた。 刃が飛ばないように置く丸。 息の場所を作る丸。

 紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは恥ずかしさと、言葉を外へ出したあとの軽さ。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は丸い。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今日、清水の窓口で「認」の紙が残った。 心の上の刃を、紙の中へいったん預けて――幹夫は丸い石を握りながら、また次の「まだ」へゆっくり歩き出していた。

 
 
 

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