認の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月6日
- 読了時間: 8分

清水へ行く朝、母は紙を三度そろえた。 そろえて、角を指でなでて、またそろえる。角が揃うと、胸の中のものが少しだけ揃う――そうやって母は、声の代わりに手を動かす。
控え帳。 受領証。 配達済。 報告。 写真屋の預り票。 確認、と書かれた紙。
紙は薄いのに、重ねると重くなる。 重くなると、落としたくなくなる。 落としたくないから、母は紐で結んだ。細い紐を、ほどけないように二回巻いて、結び目を小さく固く作った。
祖母は台所で握り飯を包みながら、淡々と言った。
「今日は“窓口”で長う待たされるら。水、持ってけ」
水筒の蓋が、きゅ、と鳴った。 その音が、胸に頼もしかった。紙は乾く。喉も乾く。乾くと声が刃になる。刃になる前に、水は息を作る。
幹夫は内ポケットの鉛筆を確かめて、次に、上着のポケットの石を握った。 浜で拾った丸い石。冷たい。重い。 重いのに、痛くない。 角がないから、重さは支えになる。
戸口の外で、足音が止まった。 空っぽの袖の男が立っていた。帽子を手に持って、笑おうとして、笑いきれない顔。
「行くか」
男の声は低い。命令しない低さ。 母は小さく頷いた。
「……頼む」
頼む、が言える母の口が、幹夫には少しだけ眩しかった。 眩しいのに、光みたいに刺さらない。刺さらないのは、頼むの前にちゃんと息を入れていたからだ。
汽車の中は、いつもより混んでいた。 人の背中が多いと、空気が薄くなる。薄くなるのに、誰も大声を出さない。大声を出さないのに、胸の音はうるさい。
母は風呂敷包みを膝の上で押さえた。 押さえる指が、ときどき強くなる。強くなるたび、幹夫は石を握り直した。握り直すと、冷たさが戻ってくる。冷たさが戻ると、息も戻る。
男は窓の外を見ていた。 窓の外の海は、今日は遠い青だった。 遠い青は、迎えの汽笛の低さを思い出させる。思い出すと、胸の奥がきゅっとなる。
駅に着くころ、母がぽつりと言った。
「……“確認”って書いてあったな」
幹夫は頷いた。 確認。確かめる。石の字が入っている。 石の字が入っていると、少しだけ持てる気がするのが不思議だった。
「確かめるって、怖いね」
幹夫が小さく言うと、母は窓を見ないまま、うん、と短く返した。 その「うん」は、縫い箱の下の「うん」みたいだった。声の形なのに、折り目の匂いがした。
清水の役場は、前に来たときより人が多かった。 紙の匂いが濃い。紙が長くここにいる匂い。 机の上の紙の山は崩れない。崩れないのが、かえって怖い。
窓口の前に並ぶ背中は、みんな少し丸くて固い。 丸いのは、崩れないため。 固いのは、待つため。
母は列の最後に並んだ。 男は母の少し後ろに立ち、幹夫は母の袖の近くにいた。 袖が近いと、息ができる。袖が遠いと、間が長くなる。
壁に貼られた紙に、幹夫の目が止まった。 大きく、太い字。
本人確認。
確認。 そして、本人。 本、という字は幹夫にも少し分かる。木の根っこがある字。根っこがあると、本物の匂いがする。
列が少し進んだ。 進むたび、母の喉がほんの少し動く。 喉の動きは、声の前の動きだ。声にしないぶん、体が先に動く。
ようやく窓口が近づいたとき、母は風呂敷包みを開いて、紐で結んだ紙束を取り出した。 取り出す手が丁寧すぎて、幹夫の胸がきゅっとした。丁寧すぎると、壊れそうに見える。
順番が来た。 窓口の向こうの男は、目が疲れている目をしていた。疲れているのに、紙だけは正確に見る目。
「……照会の件ですね」
男はそう言って、母の差し出した紙束を受け取った。 指が紙の端を揃える。 揃える動きが、母と同じだった。紙の世界の人は、みんな角で呼吸する。
男は紙をめくり、めくり、止まった。 止まったところで、鉛筆を取り、何かを書き足した。 書き足す音は、針の音より太い。太いのに、小さい音。
「……写真の写し、受領。はい」
男が言った。 受領。 受け取った、という意味だと幹夫はもう知っている。残す言葉。
男は次の紙を見て、少し眉を動かした。
「ええと……該当者の可能性がある、と報告がありまして」
可能性。 その音が、母の肩を一瞬だけ上げた。上がって、すぐ落ちた。 上がるのは期待。落ちるのは怖さ。 期待と怖さは、同じ袋に入っている。
「ただ……“本人”かどうか、もうひとつ確認が必要です」
男は淡々と言った。淡々と言うほど、言葉は刃になりにくい。 でも刃になりにくいだけで、痛くないわけじゃない。
「何を……」
母の声が少しだけ掠れた。掠れるのは、息が足りないからだ。
男は紙の一行を指で叩いた。
「身体的特徴。痣、傷、ほくろ。あと、声――方言の癖。家族の呼び方。そういうものを照らし合わせます」
照らし合わせる。 昨日書いた「照」の字が、胸の奥で小さく火を灯した。 見えるようにする光。 見えるようにすると、見たくないものも見える。 でも見えないままだと、迷子になる。
母はしばらく黙って、父の写真の目を思い出しているみたいだった。 思い出す目は、遠い。 遠いのに、逃げない。
「……傷は」
母がやっと言った。
「……覚えとらん」
覚えとらん、の言い方が、責める言い方じゃなく、自分をほどかない言い方だった。 無理に言うと嘘が混ざる。母は嘘の混ざりを嫌う。
男は頷いた。 頷き方が、仕事の頷きだった。けれど、その中に少しだけ人の頷きも混ざっていた。
「分かる範囲でいいです。……家の古い帳面や、近所の方の証言があると助かります」
証言。 男の空っぽの袖が、少しだけ揺れた。 揺れるのに、男の声は低く落ち着いている。
「俺、知っとる」
男が言った。 急がせない声。 母は男を見て、小さく頷いた。頷きが返事になる。
窓口の男は、紙をもう一枚出して差し出した。
「こちらに記入を。……“認”と書いて、署名してください」
認。 幹夫の目が、その字を拾った。 門じゃない。石でもない。 見たことのない形なのに、なぜか胸の奥がきゅっとした。
母が紙を受け取る手が、ほんの少し震えた。 震えは寒さじゃない。 書くことで決まってしまう震えだ。
母は机の端で、鉛筆を握った。 書き始める前に、息をひとつ入れた。 まず、いき。
書く。 止まる。 また書く。 母の字はまっすぐなのに、その日は少しだけ硬かった。硬いのは、折れないための硬さだ。
男も、横で自分の名前を書いた。 片手の字。 片手なのに、字は崩れなかった。 崩れない字は、痛みの上に乗っている字だ。
幹夫はその紙の端を見ていた。 端だけ見ていても、胸の奥が熱くなる。 熱いのに、声は出ない。 出るのは、息だけ。
役場を出ると、空がやけに明るかった。 明るいと影が濃くなる。 濃い影は、くっついて歩く。
母の影は、地面の上で少し長かった。 男の影も長い。空っぽの袖の影が、風で揺れる。 揺れる影は、ちょっとだけ泣きそうな形に見えた。
幹夫は歩きながら、母の袖をしっかり掴んだ。 掴むと、間が短くなる。 間が短いと、息ができる。
「母ちゃん」
幹夫が言うと、母は「なに」と返した。 返し方が柔らかい。 柔らかいと、言葉が門の中で刃にならない。
「認って……なに」
母は少しだけ空を見た。 空を見る目は、答えの代わりに広さを持ってくる目。
「……認める、の認だに」
母はそう言って、歩きながら指で空に字を書いた。 左に、言。 右に、忍。
「言う、の言と……忍ぶ、の忍」
忍。 上に刃みたいな線。下に心。 心の上に刃がある字だと幹夫は思った。思っただけで喉が熱い。
「心が痛くても、言う。……それが、認める」
母の声は低かった。倒れない低さ。 倒れないのに、そこにちゃんと痛みが入っているのが分かった。 痛みが入っているのに刃にならないのは、母が息を入れているからだ。
幹夫はポケットの石を握った。 丸い石。 痛い角を、時間で丸めた形。
――認めるのも、丸く持てるだろうか。 幹夫はそんなことを思ってしまった。
帰りの汽車。 母は控え帳を開き、今日渡された紙の控えを挟んだ。 挟むと、紙は飛ばない顔になる。 飛ばない顔が増えるほど、母の肩がほんの少しずつ落ちる。
男は窓の外を見ながら、ぽつりと言った。
「……あいつ、左の眉のとこ、傷あった」
母の指が止まった。 止まって、喉がほんの少し動いた。 でも母はすぐに頷かなかった。頷く前に、息をひとつ入れた。
「……どんな」
「細い線だ。笑うと、そこだけちょっと上がる」
男はそう言って、自分の眉の上を指でなぞった。 なぞり方が丁寧だった。 丁寧に触るのは、覚えている証拠だ。
母は目を伏せた。 伏せた目は、折り畳んだ声の形をしていた。 それから小さく言った。
「……そうだったかもしれん」
かもしれん。 その言葉が、幹夫には救いだった。断言しないことは、嘘を混ぜないことだ。 嘘を混ぜないと、紙の上の線が折れにくい。
幹夫は帳面を出し、揺れる車内でひらがなで書いた。
> みぎ じゃなくて > ひだり まゆ > きず
そして小さく、今日聞いた字を、形だけ置こうとしてみた。 言。 忍。 認。
うまく書けない。 うまく書けないのに、字の中の心の上の刃が、胸の奥に残った。
家へ戻ると、祖母が戸口で待っていた。 母は控え帳を見せて言った。
「また、照らし合わせるって」
祖母は「ほう」と頷いて、鍋のふたを閉めた。 生活の音が、家を家に戻す。 戻る音があると、胸の奥の警報は尖らない。
夜、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名は「おかあちゃんへ」。 中に、今日のことを入れる。
> にん って > こころのうえに はがある みたい > でも いし で まるく もつ
最後に、ぎこちない「認」を小さく書いて、丸をひとつ描いた。 刃が飛ばないように置く丸。 息の場所を作る丸。
紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは恥ずかしさと、言葉を外へ出したあとの軽さ。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は丸い。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今日、清水の窓口で「認」の紙が残った。 心の上の刃を、紙の中へいったん預けて――幹夫は丸い石を握りながら、また次の「まだ」へゆっくり歩き出していた。




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