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返の字


 朝の台所は、だしの匂いでいっぱいだった。 薄いのに、芯がある匂い。 匂いは音じゃないのに、胸の奥をそっと叩く。

 母が鍋のふちを箸で軽く叩いて、味を見る。

 とん。

 小さい音。 小さい音は眠る。

 幹夫は縁側のふちに座って、首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。

 ――いき。

 便りの箱の横の貝殻の受け皿には、昨日の麻紐の蝶結びの切れ端が、丸く座っていた。 丸いものが座っていると、心も座る。

 母が言った。

「おきぬさんの干し魚、ええ匂いだに。……汁にしたら、返し(かえし)になる」

 返し。 その言葉で、幹夫の胸の奥がぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 縁側の奥で、父の手が止まった。 父は網の糸をほどいていたのに、糸が途中で止まる。 止まるときは、胸が先に動くことがある。

 父がぽつりと言った。

「……返し、って……もらった分、返すってことか」

 母は否定しない声で頷いた。

「うん。……でもな、同じ形で返さんでええ。汁にして、家の匂いにして返すだに。返すのは物だけじゃない。言葉も、顔も」

 言葉。 父が昨日、言い損ねた「ありがとう」。

 父の肩がふっと上がりかけて――止まった。 止まった「間」に、幹夫は袋を押さえて息を入れた。

 ――いき。

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「返しは、はじめと終いを固めるもんだに。……返さにゃ抜ける」

 抜ける。 糸も、心も。 抜けるのは怖い。だから、息。

 ――いき。

 母は縫い箱をちゃぶ台に置いた。 縫い箱は畳の目ひとつぶんずれる箱。 ずれは小さい。小さいのに、家の合図になる。

 父の作業着の袖口が、少しだけほつれていた。 ほつれは小さい。 小さいほつれは、見ないふりすると大きくなる。

 母は針を出す前に、いったん置き布の上へ置いた。 置く。 置いてから持つ。 順番があると、手が荒れない。

 父がぽつりと言った。

「……針、置くんだな」

 母は頷く。

「うん。……刺さらんためだに」

 母は糸を通して、ほつれの端から縫い始めた。 行って、戻る。 行って、戻る。

 ちく。 すっ。

 音が小さい。 小さい音は、続きやすい。

 最後に、母は少しだけ縫い目を“戻した”。

 ちく。 ちく。

「……返し縫い、だに」

 返し縫い。 戻る縫い。 戻ると、抜けない。

 母が幹夫に見せた。

「ここ、戻して縫うと、終いが抜けん。……返すって、こういうこともあるだに。戻って、固める」

 戻って固める。 父の肩が、ほんの少しだけ落ちた。

 父がぽつり。

「……戻る、か」

 幹夫は袋を押さえて、胸の中で言った。

 ――いき。

 昼前。 母は汁を小さな鍋に移して、布で包んだ。 布は、昨日から“守り”の布になっている。

 父はその包みを見て、手を伸ばしそうになって――止めた。 止めて、懐に指を入れる。 ま札の角を撫でる。

 ふう……。

 父がぽつりと言った。

「……俺が、持ってく」

 “俺が”。 外へ向く“俺”が、少しずつ座るようになってきた。

 母が急がせない声で言う。

「うん。……持ってけ。置いて渡せ。言葉も、置いてこい」

 父は、包みをいきなり掴まない。 いったん置き布の上へ置いてから、両手で受けるように持った。 受ける手。 掴む手じゃない手。

 幹夫も一緒に行くことになった。 父の横に立つと、父の肩の動きが分かる。 分かると、先に息を入れられる。

 ――いき。

 戸を出る前、父はま札を懐に入れ直して、ぽつりと言った。

「……言う。……今日は言う」

 幹夫の胸がぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 道は潮と砂と、どこか鉄の匂いが混ざっていた。 蒲原の道は、混ざる匂いでできている。 混ざるけれど、ちゃんと分かれる。

 おきぬさんの家の前で、父の足が止まった。 止まって、少し。 その少しに、幹夫は息を入れた。

 ――いき。

 父が包みをいったん地面に置きそうになって、途中で止めた。 地面は硬い。 硬い場所に置くと、音が立つ。

 父は懐から、折り畳んだ小さな布――“会うときの布”を出して、戸口の前にそっと敷いた。 布の上なら、音が眠る。

 父は包みを布の上に置いた。

 とん。

 音が小さい。 小さいと、胸が走らない。

 父が戸を叩く。

 とん、とん。

 戸が開いて、おきぬさんが顔を出した。 今日は猫は見えない。 家の中の匂いだけがふっと漏れてくる。

「あら、兄さん。みき坊も。……どうしただに」

 父の肩がふっと上がりかけて――止まった。 止まった「間」に、父は自分で息を吐いた。

 ふう……。

 父は包みを見て、それから、おきぬさんの目を見た。 目を見るのは、勇気がいる。 でも、見ると“今”に戻れる。

 父が、短く言った。

「……これ。……だしにした」

 おきぬさんが目を丸くして、それから笑った。 笑いは刃じゃない。

「ええー! そんな……」

 父は、そこで言葉が途切れそうになって、懐の中のま札を指で撫でた。 撫でて、間を作る。 間に、息。

 ――いき。

 父が、置くように言った。

「……ありがとう」

 小さい声。 でも、ちゃんと“外へ”出た声。

 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 おきぬさんの顔が、ふっとゆるんだ。 ゆるむと、眉の間のしわがほどける。

「……こちらこそだに。こないだも今朝も……助かった」

 父は包みを持ち上げず、布の上に置いたまま、少しだけ前へ押し出した。 押しつけない。 “どうぞ”の距離。

 母が後ろから、ぶつけない声で言った。

「受け取ってくれりゃええだに。……おきぬさんの気持ち、うちは受けたで」

 受けた。 受けると、返せる。 返せると、続く。

 おきぬさんは包みを受け取って、胸の前でいちど止めた。 止めるのは、重さを確かめる止め方。 それから、低く言った。

「……返しって、こういうことだねぇ」

 父がぽつりと言った。

「……返し縫い、みてぇだ」

 おきぬさんは一瞬きょとんとして、すぐ笑った。

「縫いものの人の言い方だに」

 笑いが落ちると、空気が丸くなる。 丸い空気は刺さらない。

 帰り際、おきぬさんが小さく言った。

「兄さん……ありがとう、って言ってくれて……なんか、ほっとした」

 ほっとした。 その言葉が、父の胸へ戻ってくる。 戻ってくると、返しになる。

 父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。

 ふう……。

「……俺も……ほっとした」

 “俺も”。 父の言葉が、ちゃんと返ってきた。

 幹夫は袋を押さえて、胸の中で言う。

 ――いき。

 帰り道、父は何も言わずに歩いた。 何も言わないのに、背中が少しだけ軽い。 軽い背中は、息が通っている背中だ。

 やがて父がぽつりと言った。

「……ありがとう、って……短いな」

 幹夫は頷く前に息を入れた。

 ――いき。

「……短いけど、届いた」

 父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。

 ふう……。

「……返ってきた、感じがする」

 返ってきた。 言葉が、胸へ戻る。 戻ると、潰れない。

 母が横で低く言った。

「言ったら返ってくるだに。……返しってのは、戻る道を作ることだに」

 祖母が家で待っていて、玄関先で淡々と言った。

「返したら飯がうまい。……さ、食え」

 飯。 太い道。 幹夫の胸の奥が、すとん、と座った。

 夜。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆。 継ぎ目は今日も痛くない。

「幹夫。……今日はこれだに」

 母がゆっくり書いた。

 返

 幹夫はその字を見た瞬間、戸口に敷いた布と、父の「ありがとう」と、おきぬさんの「ほっとした」が一緒に浮かんだ。 返すのは、投げ返すことじゃない。 戻る道を作ること。

 母は左側を指でなぞった。

「こっちは反(はん)だに。……反る、って字。いったん、曲がって戻る感じ」

 曲がって戻る。 まっすぐじゃない戻り方。 それでも戻れる戻り方。

 母は右側をなぞった。

「こっちはしんにょうだに。……道。歩く道」

 道。 行く道。 戻る道。 同じ道を戻れるのは、怖くない日がある。

 母は息をひとつ入れてから、低く言った。

「返すってのはな……道を通って、戻す字だに。返事も、返礼も、返すも。……戻って、固める。返し縫いと同じだに」

 返し縫い。 戻って固める。 ほどけないように。 でも、締めつけすぎないように。

 父が新聞紙の「返」を見て、ぽつりと言った。

「……しんにょう、書くと……帰る足みてぇだな」

 母が頷く。

「うん。……帰れるって思える道があれば、胸が走らん」

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「走らんで返せりゃ上等だに。……返すなら飯も返せ。うまかったら、また返せる」

 幹夫は鉛筆を握った。 返を書く。

 一回目の「返」は、しんにょうが細くて、道が息苦しい顔になった。 息苦しい道は、戻りにくい。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「道が細いときはな……しんにょうを太らせりゃええ。戻る道を広くする。……返すのは、広さだに。息、入れてから」

 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。

 ――いき。

 二回目の「返」は、道が少し広くなって、字が座った顔になった。 座ると、戻れる字になる。

 父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 父の「返」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 しんにょうの最後の点を置く前に、父は一度止まって――息を吐いた。

 ふう……。

 吐いてから、点を置いた。

「……点、置くと……戻ってきた足跡みてぇだな」

 母が小さく頷いた。

「うん。……足跡があれば、次も帰れるだに」

 母は「返」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、返事の消印の丸みたいに見えた。

 夜。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、今日のページに震える字で書いた。

おきぬ さんだしかえし もって いったありがとういえたほっと した って いわれたおれ も ほっと した返みちもどれるいき

 父がぽつりと言った。

「……みき坊。……返すの、こわい日もある」

 幹夫は頷く前に息を入れた。

 ――いき。

「……うん。……でも、道があれば戻れる」

 父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。

 ふう……。

「……道、広げたいな」

 母の低い声が、暗い中で落ちた。

「広げりゃええ。……布、箱、皿、ま札。道具は道だに」

 祖母が淡々と言う。

「道がありゃ飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」

 また明日。 返せる明日。

 幹夫は袋を押さえて、口の中で小さく言った。

 ――いき。

 寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。

(とうちゃんへ も)

 中に書く。

かえす ってみち を とおってもどす じ なんだねきょうだし もって いったとうちゃんありがとう いえたおきぬ さんほっと した って いったことばかえって きたいき

 最後に、小さく「返」。 丸をひとつ。 足跡の丸。

 紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは戸口で止まった父の“間”の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。

 翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、三つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

返 はみち を もどるかえし は ぬけん ように することば も かえすうん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

みきぼうきのうありがとういえたこわかった けどま して息 していえた返 って じすこしみち が ある

 その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。

 三枚目。 文字じゃなく――母が袖口を縫った糸の切れ端。 小さな“返し縫い”の結び目がついていて、抜けないように戻ってある。刺さらない結び。 そのそばに、父の震える字で小さく、

かえし

 と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。

 幹夫はその糸を掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 返す。 投げ返さない。 道を通って戻す。 戻って固める。 言葉も、匂いも、ほっとする顔も――返しになる。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、「ありがとう」が戻ってきた道の足跡は届いた。 届いた“戻れる”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、胸の中の道を、そっと広げていった。

 
 
 

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