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返の字


 朝の「まちばこ」は、今日は少しふくらんでいた。 空っぽの箱が、何かを抱えている。 抱えていると、家の中の空気も、ひとつ息を入れやすくなる。

 幹夫は縁側のふちに座って、首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。

 ――いき。

 母が台所の境目から、湯気の匂いを連れて言った。

「みき、まちばこ、見てみ」

 幹夫は箱のふたを、いきなり開けなかった。 ふたの端を、指の腹でそっと触ってから、少しだけ持ち上げる。 “門”みたいに、ちょうどよく開ける。

 中にあったのは、回覧板。 きのう清水屋に置いてきたはずの板が、戻ってきている。

 戻ってきた板は、少しだけ匂いが増えていた。 味噌の匂い。 干物の匂い。 人の手をいくつか通った匂い。

 匂いは、届いた匂いでもある。

 ――いき。

 回覧板の上に、紙が一枚、折って挟んであった。 折り方が、少し硬い。 硬い折り方は、急いだ折り方だ。

 紙には、短い字が書いてある。

組長さんへ返却 (最後 蒲原の平田)

 返却。 返す。 返す、は、怒られる匂いが少し混ざる日がある。

 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったのは、責任の音。 責任の音は、走りやすい。

 走る前に、息。

 ――いき。

 父が縁側の端から顔を出した。 父の目が、紙の「返却」で止まる。 止まると、肩がふっと上がりかける。

 上がりかけて――止まった。

 止まった「間」に、父は懐へ触れて、丸い角の札を撫でた。

 ふう……。

「……最後、うちか」

 母が頷く。

「そうだに。……だから“返す”番だに。組長んとこへ、板を戻す」

 戻す。 戻すは、線を戻るみたいだ。 戻る線は、守り。

 幹夫は、回覧板を見て言った。 言う前に、胸の中でいちど置く。

 ――いき。

「……ぼく、返しに行く」

 言ってしまってから、喉の奥が熱くなった。 熱いのは、組長という言葉の影があるから。 組長は、声が大きい。 声が大きい人は、胸が走る日がある。

 父の肩が、ふっと上がりかけて――止まる。 止まった「間」に、父が自分で息を吐いた。

 ふう……。

「……よし。……でも、言葉、用意しとけ」

 母が、ぶつけない声で言う。

「うん。……返すって、怖がることじゃない。届いたのを、次へ戻すだけだに。……ほら、これ」

 母は紙切れを一枚出した。 小さな封筒の形。 角が丸く折ってある。

 そこに、母の字で短く書いてある。

遅くなってすみません回覧板、返却いたします

 “すみません”。 謝る言葉は、刺さらないように短く置くといい。

 幹夫は、声に出さずにその文を目でなぞった。 なぞると、言葉が胸で座る。

 ――いき。

 父がぽつりと言った。

「……返すのは……怒り返すんじゃない。……言葉返すんだ」

 言葉返す。 それは、返事の匂いだ。

 母が回覧板を、いきなり手渡ししない。 置き布の上に、そっと置いてから、幹夫の手の位置を確かめる。

「掴まんで、受ける手だに。……角、刺さらんように」

 幹夫は板の端を、指の腹でそっと受けた。 重い。 でもこれは、“戻るための重さ”。

 ――いき。

「いってきます」

「いってらっしゃい。……線、守れ。ここまで、忘れんでよ」

 母の声は、線だった。

 組長の家は、道の角を二つ曲がったところ。 海の匂いが少し薄くなって、木と土の匂いが濃くなる場所。

 幹夫は回覧板を胸の前で受けるように持った。 受けると、歩き方が自然とゆっくりになる。 ゆっくりは、落とさない速度。

 ――いき。

 途中、拍子木の音が遠くで鳴った。

 カン、カン。

 木の乾いた音。 乾いた音は、胸の奥を起こしやすい。

 幹夫は足を止めた。 止めた「間」に、音の“あいだ”を探す。

 カン、……カン。

 ……のところに、息。

 ――いき。

 音が音のままで、道に落ちた。 走らないで済んだ。

 組長の戸口が見えた。 戸口の前の砂利が、少し硬そうに光っている。 硬い光は、胸を硬くしやすい。

 幹夫は、戸を叩く前に、回覧板をいったん足元の平たい石の上に置いた。 置いて、手を空にする。 空の手は、丁寧になる。

 ――いき。

 とん、とん。

 中から、足音。 戸が少し開いて、組長の奥さんが顔を出した。

「あら、みき坊。どうした」

 “どうした”は、責めじゃない。 ただの門。

 幹夫は回覧板を持ち上げ、戸口の板の上へそっと置いた。

 とん。

 小さい音。 小さい音は眠る。

 それから、母の紙の言葉を、胸の中で一度置いて、口に出した。

 ――いき。

「……遅くなってすみません。……回覧板、返却します」

 自分の声が、少し震えた。 震えは、怖さの残り。 残りは、悪いことじゃない。 残りがあると、丁寧になる。

 奥さんが回覧板の上の紙を見て、頷いた。

「ええだに。夜は真っ暗だったでな。朝でええ。……ちゃんと返ってきたのが大事だで」

 返ってきたのが大事。 その言葉が、幹夫の胸の奥をほどいた。

 ――いき。

 奥さんが奥へ声をかけた。

「お父さん、回覧、返ってきたよ」

 返ってきた。 戻る線の言葉。

 組長が出てきた。 声が大きい人。 でも今日は、声が先に来なかった。 先に、目が来た。

「……おう」

 組長は回覧板を見て、幹夫の顔も見た。 しばらく黙って――それから言った。

「最後まで回ったか。……よし」

 よし。 結の“吉”みたいに、胸が少し明るくなる。

 組長は、幹夫に向かって言った。

「みき坊、よう持ってきたな。……返すの、えらい」

 えらい。 その“えらい”は、押しつけじゃなく、置いてくれる“えらい”だった。

 幹夫の喉の奥が熱くなった。 熱いのは、安心の熱。 走らないように、息。

 ――いき。

「……はい」

 組長が最後に、ふっと息を吐いた。

 ふう……。

「……気ぃつけて帰れ。線、守れ」

 線。 ここまで。 守りの言葉が、組長の口から出たのが少し意外で、幹夫の胸がぽん、と鳴った。

 ――いき。

 幹夫は頭を下げて、戸口を離れた。 離れるとき、背中が軽い。 返した重さが、ちゃんと手から離れた。

 学校の教室は、チョークの粉の匂いがした。 乾いた匂い。 乾いた匂いは、声を急がせる日がある。

 先生が黒板に、大きく字を書いた。

 

 きゅっ、きゅっ。

「今日は“かえす”の返。返事の返。返す。返る。読めるな」

 教室が声を出す。

「かえす!」

「かえる!」

 いろんな声。 いろんな読み。 声が混ざると、胸が忙しくなる。

 幹夫は机の端を指で触って、“ここ”を作った。

 ――いき。

 先生が言った。

「返すってのは、取り返すことだけじゃない。借りたものを返す。受け取った言葉に返事をする。相手に“届いた”って返す。――返すってのは、道を戻すことだ」

 道を戻す。 さっきの組長の家からの帰り道が、胸に浮かんだ。

 先生は黒板の字を指でとん、と叩いた。

「右に“反”があるだろ。ひっくり返す、向きを変える。左の“しんにょう”は道だ。道で向きを変えて戻る字。だから返だ」

 向きを変える。 胸の向きを変える。 走りそうな胸を、止めるほうへ。

 先生が続けた。

「それからな、返事は大事だ。呼ばれたら返す。返さないと、相手の声が宙ぶらりんになる。宙ぶらりんは、胸が落ち着かん」

 宙ぶらりん。 宙ぶらりんは、怖い。

 先生が名簿を開いた。

「出席を取る。呼ばれたら、返事をしろ。急がなくていい。――間を取ってもいい。だが、返せ」

 間を取ってもいい。 先生が言った。 幹夫の胸が、ぽん、と鳴った。

 ――いき。

「正夫」

「はい!」

 正夫の返事は、走る返事。 でも元気な走り。 みんなの胸が笑う。

「幹夫」

 呼ばれた瞬間、幹夫の胸が一瞬だけ上がった。 上がると、声が出にくい。 出にくいときは、門を作る。

 ――いき。

 息を入れて、言葉を置く。

「……はい」

 小さい返事。 小さいのに、座っている返事。

 先生が頷いた。

「いい。返した。返せたら、十分だ」

 十分。 その言葉が、幹夫の胸の奥をあたためた。

 後ろの席の正夫が、小声で言った。

「みきぼー、返事、やさしいな」

 やさしい。 やさしいは、刺さらない言葉。

 幹夫は少し照れて、息を入れてから小さく言った。

 ――いき。

「……ま、した」

 正夫がにっと笑った。

「返す前のま!」

 帰り道、踏切が鳴った。

 カン、カン、カン。

 幹夫は鐘の“あいだ”を見つけて、息を入れる。

 カン、……(いき)……カン、……(いき)……

 返すのは声だけじゃない。 息も、返せる。 音に飲まれそうなとき、息を返すと、胸が戻る。

 ――いき。

 家が見えてくると、軒下の貝殻の糸が揺れていた。

 ちい。 ちい。

 眠った音。 眠った音は、守りの音。

 家に入ると、母が台所の境目から言った。

「返せたかい」

 幹夫はすぐ答えず、まちばこの前でいちど止まった。 止まって、息。

 ――いき。

「……返した。……組長、よし、って言った」

 母が小さく頷く。

「それなら返せただに。……返すって、終いじゃない。次を動かすだに」

 次を動かす。 続く匂い。

 父が縁側から顔を出した。 父の目が、幹夫の顔に落ちる。 今ここで見る目。

「……怒鳴られんかったか」

 父の声が、ほんの少しだけ心配の匂いを持っていた。 幹夫は心配を受け取って、返す前に息を入れた。

 ――いき。

「……怒鳴られなかった。……線、守れって言った」

 父の肩が、ふっと上がりかけて――止まる。 止まった「間」に、父が自分で息を吐いた。

 ふう……。

「……線、守れ、か」

 父は、ほんの少しだけ笑った。 笑いは刃じゃない。

「……返すって……怖いだけじゃないな」

 母が、ぶつけない声で言う。

「怖いときもあるだに。……でも返すと、胸が宙ぶらりんにならん。返事も同じだに」

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「返せりゃ腹が荒れん。……返さんと溜まって刺さる」

 溜まって刺さる。 刺さらないために、返す。 返すって、ほどくみたいだ。

 夜。 飯の匂いが家の奥へ落ち着いたころ。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆。 白い継ぎ目は、今日もそこにある。 でも痛くない。

「幹夫。……今日はこれだに」

 母がゆっくり書いた。

 返

 幹夫はその字を見た瞬間、組長の「よし」と、先生の「返せ」と、自分の小さい「はい」が一緒に浮かんだ。

 母は右側を指でなぞった。

「ここ、反だに。……向きを変える、って感じ」

 向きを変える。 走る向きから、戻る向きへ。

 母は左の道をなぞった。

「こっちはしんにょうだに。……道。歩く道」

 道。 線。 戻る道。

 母は息をひとつ入れてから、低く言った。

「返すってのはな……道で向きを変えて、戻す字だに。借りたもんを返すのも、呼ばれた声に返事するのも、届いたって相手に返すのも。……返すと、宙ぶらりんが座る。座ると、胸が落ち着く」

 父がま札を指で撫でて、ぽつりと言った。

「……俺、返すって……怒り返すことばっかだった」

 母は否定しない。 低く言った。

「うん。……でも今日は返しただに。『心配』を溜めんで聞いた。『怒鳴られたか』って。……それも返すだに。言葉で返す。息で返す」

 祖母が淡々と言う。

「返すのは手だけじゃねぇ。耳も返せ。……聞いたら返せ。返事しろ」

 返事。 返事は、聞の続き。

 父が小さく息を吐いた。

 ふう……。

「……返す言葉……増やしたいな。……ありがとう、とか」

 ありがとう。 その言葉が出ると、家の中が少し明るい。

 幹夫の胸が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 幹夫は鉛筆を握った。 返を書く。

 一回目の「返」は、道が細くて、字が急いだ顔になった。 急いだ返し方は、ぶつかる返し方。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「急いだらな……道を太らせりゃええ。戻る道に余地を作る。……息、入れてから」

 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。

 ――いき。

 二回目の「返」は、道が座って、反も落ち着いた。 落ち着くと、戻れる字になる。

 父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 父の「返」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 最後の点を置く前に、父は一度止まって――息を吐いた。

 ふう……。

 吐いてから、点を置いた。

「……点、置くと……返ってきた、って感じするな」

 母が小さく頷いた。

「うん。……返ってきたら、また明日ができるだに」

 夜更け。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、震える字で書いた。

まちばこかいらんかえって きたみきぼうくみちょう にかえしたおれ「どなられんかったか」 ってきいてそれ がすこしことば を かえすって こと だ と おもった返みち でむき を かえてもどすいき

 父がぽつりと言った。

「……みき坊。……返すの、こわい日もある」

 幹夫は頷く前に息を入れた。

 ――いき。

「……うん。……でも、ま、してから返すと……刺さらない」

 父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。

 ふう……。

「……刺さらない返し方……好きだ」

 母の低い声が、暗い中で落ちた。

「好きって言えりゃ返せたってことだに。……返すと、胸が座る」

 祖母が淡々と言う。

「座れりゃ飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」

 また明日。 返して続く明日。

 幹夫は袋を押さえて、口の中で小さく言った。

 ――いき。

 翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、三つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

返 はみち でむき を かえてもどす返事 も おなじま を いれろうん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

みきぼうきのうかいらんかえした なおれしんぱい をどならず にことば で かえせた返 って じすこしおれ の むねもどるありがとう

 その下に、丸がひとつ。

 三枚目。 文字じゃなく――小さな紙片。 「はい」とだけ、幹夫の字で書いてある。 その横に、父の震える字で小さく、

いい へんじ

 と添えてある。 丸がひとつ。

 幹夫はその紙を掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 返す。 道で向きを変えて戻す。 怒り返すんじゃなく、言葉を返す。 呼ばれた声に、返事を返す。 心配も、溜めずに返す。

 蒲原に、サイレンは届かなかった。 けれど今日、回覧板が返ってきて、返された「よし」と、小さな「はい」が胸に届いた。 届いたものを落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、刺さらない返し方を、そっと胸の中に座らせていった。

 
 
 

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