間の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月18日
- 読了時間: 8分

踏切の向こうから、音が先に来た。
カン、カン、カン。
金属の音。 乾いた音。 乾いた音は、胸の奥の硬いところを起こしやすい。
幹夫は首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。
――いき。
父と並んで、踏切の手前で止まる。 止まると、音が近くなる。 近くなると、肩が上がりやすい。
父の肩が、ふっと上がりかけた。 上がりかけて――止まる。 止まった「間」に、父の指が懐へ行って、丸い角の札に触れた。
ふう……。
「……踏切の鐘だ」
父が口の中で言った。 名前を置く。 置けると、音は音のままで座る。
でも鐘は、座らない。 カン、カン、カン。 小刻みに、ずっと続く。
幹夫の胸がぽん、と鳴って、鳴ったまま忙しくなりそうだったから、息を入れた。
――いき。
そのとき、幹夫は気づいた。
鐘と鐘のあいだに、ほんのちょっと―― 音がないところがある。
カン、……カン、……カン。
……のところ。 そこだけ、耳が休める。
幹夫は小さく言った。
「……父ちゃん。……ここ」
父が一瞬だけ幹夫を見る。 見る目が遠くへ行かない。 今ここで、見る目。
「……どこだ」
幹夫は、言葉を急がないで、胸の中で一度置いてから言った。
――いき。
「……鳴ってないところ。……ちょっとだけ……静か」
父の耳が、鐘じゃなく“静か”のほうへ傾いたみたいだった。 傾くと、肩が少し落ちる。
ふう……。
「……あいだ、か」
父がぽつりと言った。 あいだ。 その音が、幹夫の胸の中で丸く転がった。
踏切の棒が下り切る。 棒は門みたいだ。 門が閉じると、向こうへ行けない。 行けないときは、待つしかない。
でも今日は、ただ待たない。 鐘の“あいだ”を探して待つ。
カン、……(息)……カン、……(息)……
幹夫はその間に、息を入れた。 父も、まねをしたみたいに、ふう、と吐いた。
ふう……。
音はまだ続く。 でも音の中に、逃げ道ができた。
――いき。
遠くから、電車の腹の音が来る。
ごお……。
近づく風。 近づく風は、胸の中の札を揺らす日がある。
父の肩が、ふっと上がりかけて――止まる。 止まった「間」に、父が自分で言った。
「……ま」
そして、鐘と鐘のあいだへ、息を置く。
ふう……。
電車が通る。 線路が鳴る。
がたん、がたん。 がたん、がたん。
線の音。 線の音は長い。 長いけれど、続く道の音だ。
電車の最後尾が過ぎると、風が背中を撫でた。 撫でる風は、怒っていない。
踏切の棒が、ゆっくり上がる。 上がると、門が開く。
カン、カン、カン が止まって―― 急に、世界が広くなった。
父が、ふう、と長く息を吐いた。
ふう……。
「……あいだ、助かったな」
助かった。 その言葉が、幹夫の胸をあたためた。
幹夫は袋を押さえて、息。
――いき。
「……うん。……あいだ、あると……刺さらない」
父は少し間を置いて、ほんの少しだけ笑った。
「……刺さらないための……あいだ、か」
ふたりは線路を渡った。 木の板の上を、急がずに。 線の上の、門のあいだを。
買い物は、駅前の雑貨屋で塩を一袋。 欠けた椀の塩皿に入れる塩。
父はいつもみたいに、いきなり掴まない。 台の上にいったん置いて、置いてから受ける。
とん。
小さい音。 小さい音は眠る。
帰り道、また踏切が鳴った。 でも今度、父の肩はすぐには跳ねなかった。 先に、息が来た。
ふう……。
「……カンの……あいだ」
父が言った。 言えると、胸が座る。
幹夫の胸がぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
学校の教室は、チョークの粉の匂いがした。 乾いた匂い。 乾いた匂いは、字の角を立てやすい。
先生が黒板に、大きく字を書いた。
間
きゅっ、きゅっ。
黒の上に白い線。 白いのに刺さらない。
「今日は“あいだ”の間。読めるな」
教室が声を出す。
「ま!」
「あいだ!」
いろんな声。 いろんな読み。 声が混ざると、胸が忙しくなる日がある。
幹夫は袋を押さえて、息をひとつ入れた。
――いき。
先生が言った。
「間(ま)ってのは、時間の間(あいだ)でもあるし、場所の間でもある。話すときの“間”もある。音の間、呼吸の間。……ここが大事だ」
先生は黒板の字を指でとん、と叩く。
「門(もん)の中に、日(ひ)。門は入口だ。日が入ると、そこに“すきま”ができる。すきまがあると、見える。息も通る。だから間だ」
門の中に日。 踏切の棒が門みたいで、鐘のあいだに静かがあった。 幹夫の胸の中で、朝の景色がそのまま字になった。
先生が続けた。
「じゃあ、幹夫。これ、声に出して読んでみろ。読むとき、“間”を取れ」
幹夫は立ち上がる前に、机の端に指を置いて“ここ”を作った。 ここ。 今ここ。
――いき。
教科書の文を読む。 息を吸って、言葉を置いて、あいだに息を入れる。
「……風吹けば……(いき)……海は……(いき)……白く……(いき)……」
先生が頷いた。 頷きは、刺さらない。
「いい。言葉が走らない。間があると、聞くほうの胸も座る」
“座る”。 それが嬉しくて、幹夫の喉の奥が少し熱くなった。 熱いと走りそうだから、息。
――いき。
後ろの席の正夫が小声で言った。
「みきぼー、読むの、やさしいな」
やさしい。 その言葉が、幹夫の胸の中で丸く座った。
帰り道、踏切の前で正夫が立ち止まって言った。
「カンカンって音、うるさいよね」
うるさい。 うるさい、って言うと、胸が少し尖る。 尖る前に、息。
――いき。
「……うるさいけど……あいだ、ある」
正夫が首を傾げる。
「あいだ?」
幹夫は、踏切の鐘が鳴り始めた瞬間に、指で空をちょん、と叩いた。
「……カン、……ここ……カン。……静か」
正夫が目を丸くする。
「ほんとだ! ちょっと静か!」
その“ちょっと”が、守りになる。 小さい守りがあると、音は全部にならない。
――いき。
正夫がにっと笑った。
「間って、逃げ道だな!」
逃げ道。 その言い方が、幹夫の胸を少し軽くした。
夜。 飯の匂いが家の奥へ落ち着いたころ。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆。 白い継ぎ目は、今日もそこにある。 でも痛くない。
「幹夫。……今日はこれだに」
母がゆっくり書いた。
間
幹夫はその字を見た瞬間、踏切の棒と鐘と、鐘の“……のところ”が一緒に浮かんだ。
母は外側を指でなぞった。
「ここ、門だに。……入口。境目」
境目。 線の字の“ここまで”。 守の字の屋根。 全部、境目の匂い。
母は中を指でなぞった。
「ここ、日だに。……あかり。明るいもん」
明るいもんが、門の中にある。 閉め切らない門。 少し開ける門。
母は息をひとつ入れてから、低く言った。
「間ってのはな……境目(門)の中に、明るいところ(日)を残す字だに。全部閉めると暗い。暗いと刺さる。……ちいさい明るさがあると、息が通る。息が通ると、待てる。答えられる。許せる。守れる」
父が、ちゃぶ台の端に置いたま札を指で撫でて、ぽつりと言った。
「……今日、踏切で……それ、あった」
母が頷く。
「あっただに。……カンカンの“あいだ”」
父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。
ふう……。
「……音の中に……間があるって……助かるな」
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「腹にも間ぁいる。……食うのも、飲むのも、急ぐと刺さる」
刺さる。 刺さらないための間。
母が続けた。
「それとな、間は“ま”だに。……みきが大事にしとる、あの“ま”。字になってる。門の中の光だに」
字になってる。 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
「……ま、って……光なんだね」
父が、ぽつり。
「……俺の胸にも……光、残したいな」
残したい。 欲しいの形。 願いの形。
幹夫は鉛筆を握った。 間を書く。
一回目の「間」は、門が細くて、日が窮屈で、字が息苦しい顔になった。 息苦しいと、間が“閉じた箱”に見える。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「息苦しいときはな……門を広げりゃええ。光の場所を残す。……息、入れてから」
幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。
――いき。
二回目の「間」は、門が少し広くなって、日が座った。 座ると、光が落ちない字になる。
父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。
「……俺も、書く」
父の「間」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 最後の点を置く前に、父は一度止まって――息を吐いた。
ふう……。
吐いてから、点を置いた。
「……点、置くと……門の中に日が座るな」
母が小さく頷いた。
「うん。……座れば、間になる。座れば、胸も間ができる」
母は「間」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、踏切の鐘と鐘のあいだの小さな静かみたいに見えた。
夜更け。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、今日のページに震える字で書いた。
ふみきりかんかんびく したでもま して息 してあいだ を さがしたしずか が あった間もん の なか の ひおれ の むね に もひ を のこすいき
父がぽつりと言った。
「……みき坊。……間がないと……俺、走りそうになる」
幹夫は頷く前に息を入れた。
――いき。
「……うん。……でも、間、探せば……ある」
父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。
ふう……。
「……探す、って……いいな」
母の低い声が、暗い中で落ちた。
「探せばええだに。……間は勝手に来ん日もある。けど、作れる。線引いたり、息入れたり、門を広げたり」
祖母が淡々と言う。
「作れりゃ飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」
また明日。 間が続く明日。
幹夫は袋を押さえて、口の中で小さく言った。
――いき。
寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。
(とうちゃんへ も)
中に書く。
あいだ(間)ってもん の なか にひ(あかり) を のこす じ なんだねきょうふみきりかん の あいだしずか あったとうちゃんま して息 してたすかったぼくうれしかったいき
最後に、小さく「間」。 丸をひとつ。 静かの丸。
紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは踏切の鐘の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。
翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、三つ重なっていた。
一枚目、母の字。
間 はもん の なか の ひくらく ならん よう にあかり と いき を のこすうん
最後に、小さな丸。
二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。
みきぼうきのうかんかん のあいだたすかった間 って じすこしおれ の むねあかるいありがとう
その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。
三枚目。 文字じゃなく――小さな紙の切り抜き。 門みたいな四角い枠の中に、小さな四角い穴がひとつ開いている。 穴に朝の光を当てると、畳に小さな明るさが落ちた。 紙の端に、父の震える字で小さく、
ひ
と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。
幹夫はその紙を掌にのせて、息をひとつ入れた。
――いき。
間。 門の中に、光を残す。 音の中に、静かを残す。 胸の中に、逃げ道を残す。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今日、踏切の鐘の“あいだ”にあった小さな静かと、門の中の小さな光は届いた。 届いた“ま”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、刺さらない間を、そっと胸の中に座らせていった。




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