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間の字


 踏切の向こうから、音が先に来た。

 カン、カン、カン。

 金属の音。 乾いた音。 乾いた音は、胸の奥の硬いところを起こしやすい。

 幹夫は首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。

 ――いき。

 父と並んで、踏切の手前で止まる。 止まると、音が近くなる。 近くなると、肩が上がりやすい。

 父の肩が、ふっと上がりかけた。 上がりかけて――止まる。 止まった「間」に、父の指が懐へ行って、丸い角の札に触れた。

 ふう……。

「……踏切の鐘だ」

 父が口の中で言った。 名前を置く。 置けると、音は音のままで座る。

 でも鐘は、座らない。 カン、カン、カン。 小刻みに、ずっと続く。

 幹夫の胸がぽん、と鳴って、鳴ったまま忙しくなりそうだったから、息を入れた。

 ――いき。

 そのとき、幹夫は気づいた。

 鐘と鐘のあいだに、ほんのちょっと―― 音がないところがある。

 カン、……カン、……カン。

 ……のところ。 そこだけ、耳が休める。

 幹夫は小さく言った。

「……父ちゃん。……ここ」

 父が一瞬だけ幹夫を見る。 見る目が遠くへ行かない。 今ここで、見る目。

「……どこだ」

 幹夫は、言葉を急がないで、胸の中で一度置いてから言った。

 ――いき。

「……鳴ってないところ。……ちょっとだけ……静か」

 父の耳が、鐘じゃなく“静か”のほうへ傾いたみたいだった。 傾くと、肩が少し落ちる。

 ふう……。

「……あいだ、か」

 父がぽつりと言った。 あいだ。 その音が、幹夫の胸の中で丸く転がった。

 踏切の棒が下り切る。 棒は門みたいだ。 門が閉じると、向こうへ行けない。 行けないときは、待つしかない。

 でも今日は、ただ待たない。 鐘の“あいだ”を探して待つ。

 カン、……(息)……カン、……(息)……

 幹夫はその間に、息を入れた。 父も、まねをしたみたいに、ふう、と吐いた。

 ふう……。

 音はまだ続く。 でも音の中に、逃げ道ができた。

 ――いき。

 遠くから、電車の腹の音が来る。

 ごお……。

 近づく風。 近づく風は、胸の中の札を揺らす日がある。

 父の肩が、ふっと上がりかけて――止まる。 止まった「間」に、父が自分で言った。

「……ま」

 そして、鐘と鐘のあいだへ、息を置く。

 ふう……。

 電車が通る。 線路が鳴る。

 がたん、がたん。 がたん、がたん。

 線の音。 線の音は長い。 長いけれど、続く道の音だ。

 電車の最後尾が過ぎると、風が背中を撫でた。 撫でる風は、怒っていない。

 踏切の棒が、ゆっくり上がる。 上がると、門が開く。

 カン、カン、カン が止まって―― 急に、世界が広くなった。

 父が、ふう、と長く息を吐いた。

 ふう……。

「……あいだ、助かったな」

 助かった。 その言葉が、幹夫の胸をあたためた。

 幹夫は袋を押さえて、息。

 ――いき。

「……うん。……あいだ、あると……刺さらない」

 父は少し間を置いて、ほんの少しだけ笑った。

「……刺さらないための……あいだ、か」

 ふたりは線路を渡った。 木の板の上を、急がずに。 線の上の、門のあいだを。

 買い物は、駅前の雑貨屋で塩を一袋。 欠けた椀の塩皿に入れる塩。

 父はいつもみたいに、いきなり掴まない。 台の上にいったん置いて、置いてから受ける。

 とん。

 小さい音。 小さい音は眠る。

 帰り道、また踏切が鳴った。 でも今度、父の肩はすぐには跳ねなかった。 先に、息が来た。

 ふう……。

「……カンの……あいだ」

 父が言った。 言えると、胸が座る。

 幹夫の胸がぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 学校の教室は、チョークの粉の匂いがした。 乾いた匂い。 乾いた匂いは、字の角を立てやすい。

 先生が黒板に、大きく字を書いた。

 

 きゅっ、きゅっ。

 黒の上に白い線。 白いのに刺さらない。

「今日は“あいだ”の間。読めるな」

 教室が声を出す。

「ま!」

あいだ!

 いろんな声。 いろんな読み。 声が混ざると、胸が忙しくなる日がある。

 幹夫は袋を押さえて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 先生が言った。

「間(ま)ってのは、時間の間(あいだ)でもあるし、場所の間でもある。話すときの“間”もある。音の間、呼吸の間。……ここが大事だ」

 先生は黒板の字を指でとん、と叩く。

「門(もん)の中に、日(ひ)。門は入口だ。日が入ると、そこに“すきま”ができる。すきまがあると、見える。息も通る。だから間だ」

 門の中に日。 踏切の棒が門みたいで、鐘のあいだに静かがあった。 幹夫の胸の中で、朝の景色がそのまま字になった。

 先生が続けた。

「じゃあ、幹夫。これ、声に出して読んでみろ。読むとき、“間”を取れ」

 幹夫は立ち上がる前に、机の端に指を置いて“ここ”を作った。 ここ。 今ここ。

 ――いき。

 教科書の文を読む。 息を吸って、言葉を置いて、あいだに息を入れる。

「……風吹けば……(いき)……海は……(いき)……白く……(いき)……」

 先生が頷いた。 頷きは、刺さらない。

「いい。言葉が走らない。間があると、聞くほうの胸も座る」

 “座る”。 それが嬉しくて、幹夫の喉の奥が少し熱くなった。 熱いと走りそうだから、息。

 ――いき。

 後ろの席の正夫が小声で言った。

「みきぼー、読むの、やさしいな」

 やさしい。 その言葉が、幹夫の胸の中で丸く座った。

 帰り道、踏切の前で正夫が立ち止まって言った。

「カンカンって音、うるさいよね」

 うるさい。 うるさい、って言うと、胸が少し尖る。 尖る前に、息。

 ――いき。

「……うるさいけど……あいだ、ある」

 正夫が首を傾げる。

「あいだ?」

 幹夫は、踏切の鐘が鳴り始めた瞬間に、指で空をちょん、と叩いた。

「……カン、……ここ……カン。……静か」

 正夫が目を丸くする。

「ほんとだ! ちょっと静か!」

 その“ちょっと”が、守りになる。 小さい守りがあると、音は全部にならない。

 ――いき。

 正夫がにっと笑った。

「間って、逃げ道だな!」

 逃げ道。 その言い方が、幹夫の胸を少し軽くした。

 夜。 飯の匂いが家の奥へ落ち着いたころ。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆。 白い継ぎ目は、今日もそこにある。 でも痛くない。

「幹夫。……今日はこれだに」

 母がゆっくり書いた。

 間

 幹夫はその字を見た瞬間、踏切の棒と鐘と、鐘の“……のところ”が一緒に浮かんだ。

 母は外側を指でなぞった。

「ここ、門だに。……入口。境目」

 境目。 線の字の“ここまで”。 守の字の屋根。 全部、境目の匂い。

 母は中を指でなぞった。

「ここ、日だに。……あかり。明るいもん」

 明るいもんが、門の中にある。 閉め切らない門。 少し開ける門。

 母は息をひとつ入れてから、低く言った。

「間ってのはな……境目(門)の中に、明るいところ(日)を残す字だに。全部閉めると暗い。暗いと刺さる。……ちいさい明るさがあると、息が通る。息が通ると、待てる。答えられる。許せる。守れる」

 父が、ちゃぶ台の端に置いたま札を指で撫でて、ぽつりと言った。

「……今日、踏切で……それ、あった」

 母が頷く。

「あっただに。……カンカンの“あいだ”」

 父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。

 ふう……。

「……音の中に……間があるって……助かるな」

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「腹にも間ぁいる。……食うのも、飲むのも、急ぐと刺さる」

 刺さる。 刺さらないための間。

 母が続けた。

「それとな、間は“ま”だに。……みきが大事にしとる、あの“ま”。字になってる。門の中の光だに」

 字になってる。 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

「……ま、って……光なんだね」

 父が、ぽつり。

「……俺の胸にも……光、残したいな」

 残したい。 欲しいの形。 願いの形。

 幹夫は鉛筆を握った。 間を書く。

 一回目の「間」は、門が細くて、日が窮屈で、字が息苦しい顔になった。 息苦しいと、間が“閉じた箱”に見える。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「息苦しいときはな……門を広げりゃええ。光の場所を残す。……息、入れてから」

 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。

 ――いき。

 二回目の「間」は、門が少し広くなって、日が座った。 座ると、光が落ちない字になる。

 父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 父の「間」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 最後の点を置く前に、父は一度止まって――息を吐いた。

 ふう……。

 吐いてから、点を置いた。

「……点、置くと……門の中に日が座るな」

 母が小さく頷いた。

「うん。……座れば、間になる。座れば、胸も間ができる」

 母は「間」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、踏切の鐘と鐘のあいだの小さな静かみたいに見えた。

 夜更け。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、今日のページに震える字で書いた。

ふみきりかんかんびく したでもま して息 してあいだ を さがしたしずか が あった間もん の なか の ひおれ の むね に もひ を のこすいき

 父がぽつりと言った。

「……みき坊。……間がないと……俺、走りそうになる」

 幹夫は頷く前に息を入れた。

 ――いき。

「……うん。……でも、間、探せば……ある」

 父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。

 ふう……。

「……探す、って……いいな」

 母の低い声が、暗い中で落ちた。

「探せばええだに。……間は勝手に来ん日もある。けど、作れる。線引いたり、息入れたり、門を広げたり」

 祖母が淡々と言う。

「作れりゃ飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」

 また明日。 間が続く明日。

 幹夫は袋を押さえて、口の中で小さく言った。

 ――いき。

 寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。

(とうちゃんへ も)

 中に書く。

あいだ(間)ってもん の なか にひ(あかり) を のこす じ なんだねきょうふみきりかん の あいだしずか あったとうちゃんま して息 してたすかったぼくうれしかったいき

 最後に、小さく「間」。 丸をひとつ。 静かの丸。

 紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは踏切の鐘の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。

 翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、三つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

間 はもん の なか の ひくらく ならん よう にあかり と いき を のこすうん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

みきぼうきのうかんかん のあいだたすかった間 って じすこしおれ の むねあかるいありがとう

 その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。

 三枚目。 文字じゃなく――小さな紙の切り抜き。 門みたいな四角い枠の中に、小さな四角い穴がひとつ開いている。 穴に朝の光を当てると、畳に小さな明るさが落ちた。 紙の端に、父の震える字で小さく、

 と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。

 幹夫はその紙を掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 間。 門の中に、光を残す。 音の中に、静かを残す。 胸の中に、逃げ道を残す。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今日、踏切の鐘の“あいだ”にあった小さな静かと、門の中の小さな光は届いた。 届いた“ま”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、刺さらない間を、そっと胸の中に座らせていった。

 
 
 

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