頼の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月19日
- 読了時間: 10分

朝の「まちばこ」は、ふたがほんの少しだけ浮いていた。 浮いているのは、誰かの気持ちが入った印だ。
幹夫は縁側のふちで、首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。
――いき。
ふたを開けると、紙が一枚。 角が、急いだみたいに尖っている。 尖った角は、胸に刺さりやすい。
母が台所の境目から、湯気の匂いを連れて言った。
「組の紙だに。……今朝、回しとる」
父が紙を読む。 読む前に、いったん置き布の上へ置く。 置いてから、指の腹で端を撫でる。 撫でると、紙が暴れない。
さら。
父の目が、途中で止まった。
今夜 拍子木当番(○○さん) よろしく頼みます
「頼みます」。 その文字が、紙の上でちょっと重そうに座っている。
父の肩が、ふっと上がりかけた。 上がりかけて――止まる。
止まった「間」に、父は懐へ触れて、丸い角のま札を撫でた。
ふう……。
「……今夜、か」
母は頷く。 頷きは、急がない。
「うん。……順番だに。頼まれたら、断れん。けど、抱えこむのも違うだに」
抱えこむ。 抱えこむと、胸が固まる。 固まると、音が全部になる。
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「頼まれたら腹で受けて、手で分けろ。……全部、胸に入れるな。刺さる」
刺さる。 刺さらないために、分ける。 分けるために――頼る。
幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったのは、父の今夜が心配な音。 心配は走りやすい。
走る前に、息。
――いき。
「……父ちゃん」
父が幹夫を見る。 遠くへ行かない目。今ここで落ちる目。
「……なんだ」
幹夫は、言葉を急がない。 急ぐと、言葉が刃になる日がある。 だから、門を作る。
――いき。
「……頼まれた、の……いや?」
父はすぐ答えなかった。 答えないのは、逃げじゃない。 息を探す間。
ふう……。
「……いや、ってより……音がある夜は……胸が走る」
父が自分で言えた。 それだけで、幹夫の喉の奥が少し熱くなった。
熱いと走りそうだから、息。
――いき。
父は紙の上の「頼みます」を、指の腹でなぞった。
「……でも……頼まれた。……やる」
短い言葉。 短いのに、芯がある。
母が、ぶつけない声で言う。
「やるなら、頼ってええだに。……父ちゃん、ひとりで背負うと固まる。『頼む』って言えば、糸が増える」
糸。 続の糸。結の糸。 切れないための糸。
父が、ま札を撫でながら、ぽつりと言った。
「……みき坊……今夜……」
言いかけて、止まる。 止まった「間」に、息。
ふう……。
「……もし俺の肩が上がったら……『ま』って言ってくれ。……頼む」
頼む。 父の口から出た「頼む」は、押しつけじゃなく、橋みたいだった。 橋があると、向こうへ渡れる。
幹夫の胸が、ぽん、と鳴った。 鳴ったのは、うれしさと重さの混ざった音。 混ざった音は、走りやすい。
走る前に、息。
――いき。
「……うん。……言う。……ま、って」
父が、ふっと息を吐いた。
ふう……。
「……助かる」
助かる。 その言葉が、幹夫の胸をあたためた。
学校の教室は、チョークの粉の匂いがした。 乾いた匂い。 乾いた匂いは、言葉を早くさせる日がある。
先生が黒板に、大きく字を書いた。
頼
きゅっ、きゅっ。
「今日は“たのむ”の頼。頼む。頼られる。頼り。読めるな」
教室が声を出す。
「たのむ!」
声が集まると、胸が忙しくなる。 幹夫は机の端に指を置いて、“ここ”を作った。
――いき。
先生が言った。
「頼むってのは、命令じゃない。相手の手を信じて、手渡すことだ。頼るってのは、弱さじゃない。――一人で固まらないための道だ」
固まらないための道。 父の今朝の肩の止まり方が、胸に浮かんだ。
先生は黒板の字をとん、と叩いた。
「ただしな。頼むときは、押しつけるな。『やって当然』って顔をするな。頼むなら、相手の“ここまで”を守れ。断る道も残せ」
断る道。 門を閉めない。 選ばせる。 昨日の“よかったら”が、ここへ来た。
先生が続けた。
「じゃあ、練習だ。隣の人に、消しゴムを借りてみろ。――頼む練習。借りたら、返す練習。返すまでで一つだ」
教室がざわっとする。 ざわっとするのは、風みたいだ。 風が立つと、胸も立つ。
幹夫の消しゴムは小さくて、角が丸い。 でも今日は、その消しゴムを“貸す側”じゃなく、“頼む側”にならないといけない。
頼む側。 それは、少し怖い。 怖いときは、間。
――いき。
幹夫は隣の佐太郎を見た。 佐太郎は昨日「ごめん」を渡してきた子。 渡したことがある子の手は、少しだけやさしい。
幹夫は口を開く前に、息を入れた。
――いき。
「……佐太郎。……消しゴム……少し……貸して。……頼む」
頼む。 言えた。 言えた瞬間、胸の中の結び目がひとつほどけた気がした。
佐太郎はすぐ頷いて、消しゴムを“投げない”。 机の上に、そっと置いた。
とん。
小さい音。 小さい音は眠る。
「……いいよ。……はい」
幹夫は掴まずに、受ける手で受けた。 受けると、落ちない。
――いき。
「……ありがとう」
佐太郎が小さく笑った。
「……返してくれりゃ、いい」
返すまでで一つ。 先生の言葉が、ここに座った。
後ろの席の正夫が、にっと笑って小声で言った。
「みきぼー、“頼む”って言えたな!」
幹夫は少し照れて、息を入れてから小さく頷いた。
――いき。
「……ま、してから」
正夫が嬉しそうに頷く。
「頼む前のま!」
帰り道、踏切が鳴った。
カン、カン、カン。
幹夫は鐘と鐘のあいだを見つけて、息を入れた。
カン、……(いき)……カン、……(いき)……
自分の胸に、間を与える。 それも“頼り”だ。 息に頼る。 線に頼る。 ここまでに頼る。
――いき。
家が近づくと、軒下の貝殻の糸が風で揺れていた。
ちい。 ちい。
眠った音。 眠った音は、守りの音。
夕方。 空が少しだけ、鉄の色に寄ってきたころ。 父が拍子木を手に取った。 木の角は、削って丸くしてある。 丸い角は刺さらない。 でも音は、乾いている。
父の肩が、ふっと上がりかけた。 上がりかけて――止まる。
止まった「間」に、父が自分で息を吐いた。
ふう……。
「……木の音だ」
名前を置く。 置けると、音は音のままで座る。
母が黒布を畳みながら言った。
「父ちゃん、ひとりで出るな。……組の人に、歩幅合わせてもらいな。『頼む』って言えばええだに」
父は黙って、拍子木の紐を指でなぞった。 結び目の余地を確かめる。 余地があると、ほどける。 ほどけると、胸もほどける。
幹夫は、父の横に立って、父の肩を見た。 肩が上がりそうになる、その“前”を探す。
――いき。
父が戸口に立つ。 闇の匂いが、少しだけ入ってくる。 闇は怖いけれど、門を閉め切らない闇なら、息が通る。
父が幹夫を見て、ぽつりと言った。
「……みき坊。……頼む」
頼む。 言葉の中に、橋がある。
幹夫は頷く前に、息を入れた。
――いき。
「……うん。……肩、見てる」
父が、ふっと息を吐いた。
ふう……。
「……行ってくる」
「行ってらっしゃい。……帰ってくるまでが当番だに。無理すんな。頼れ」
母の声は、線だった。
父が外へ出る。 拍子木の音が、遠くで一度だけ鳴った。
カン。
その音のあとに、静かが来る。 その静かに、幹夫は息を置いた。
――いき。
夜の中で、父の足音が少し遠ざかって、やがて消えた。 消えると、胸が少し寂しくなる。 寂しさも、抱えこむと刺さる。
幹夫は、台所の境目に立つ母の背中を見て、小さく言った。
「……母ちゃん」
母が振り返る。 今ここで見る目。
「ん?」
幹夫は、言う前に息を入れた。
――いき。
「……ぼくも……ちょっと……こわい」
母の目が、やわらかくなった。 やわらかい目は、受ける目。
「うん。……言えた。えらいだに。……こわいときは、一人で抱えん。ここにおれ。……頼れ」
頼れ。 母の「頼れ」は、押しつけじゃなく、座れる場所だった。
幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
夜。 拍子木の音が、遠くから戻ってきた。
カン、……カン。
音と音のあいだに、静かがある。 静かに、息が入る。
――いき。
戸が開いて、父が戻ってきた。 顔は疲れている。 でも目が、遠くへ行っていない。
父が靴を脱ぐ前に、いちど止まって――息を吐いた。
ふう……。
「……帰った」
母が頷く。
「おかえり。……どうだった」
父は拍子木を置き布の上に、そっと置いた。
とん。
小さい音。 小さい音は眠る。
「……最初、肩、上がった。……でも、組の佐吉が、歩幅合わせてくれた。……俺、言った。『頼む』って」
言った。 父が言った。 それだけで、幹夫の喉の奥が熱くなる。
熱いと走りそうだから、息。
――いき。
父が続ける。
「……頼んだら……息が入った。……ひとりじゃなかった」
ひとりじゃなかった。 その言葉が、家の中の闇を少し薄くした。
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「頼れりゃ腹が荒れん。……よし」
よし。 よし、が落ちると、夜が少し短くなる。
飯の匂いが家の奥へ落ち着いたころ。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆。 白い継ぎ目は、今日もそこにある。 でも痛くない。
「幹夫。……今日はこれだに」
母がゆっくり書いた。
頼
幹夫はその字を見た瞬間、父の「頼む」と、佐太郎の消しゴムと、母の「頼れ」が一緒に浮かんだ。
母は字を指でなぞった。
「この字な、束みたいな形と、頭みたいな形がくっついて見えるだら」
母の“見える”は、押しつけじゃない。 一緒に見よう、の匂い。
「束はな、抱えたもん。頭はな、考えるところ。……抱えたもんを頭だけで抱えると固まる。だから、頼むって言って、抱えたもんを手渡す」
手渡す。 伝。 届。 返。 受。 与。 全部が、頼の中に座った。
母は息をひとつ入れて、低く言った。
「頼むってのはな……抱えこんだものを、相手の手の届くところへそっと渡すことだに。押しつけじゃない。命令じゃない。……相手の“ここまで”を守って、断る道も残す。頼れたら、胸が固まらん」
父がま札を指で撫でて、ぽつりと言った。
「……俺、頼むの……恥ずかしかった」
母は否定しない。 低く言った。
「うん。……恥ずかしいだに。でも恥ずかしさは、悪いもんじゃない。丁寧にする匂いだに。……今日、『頼む』って言えた。だから夜が刺さらんかった」
父が小さく息を吐いた。
ふう……。
「……みき坊にも……頼んだ。……『ま』って」
幹夫の胸が、ぽん、と鳴った。 鳴ったのは、うれしさの音。
――いき。
「……言った。……ま、って」
父が、ほんの少しだけ笑った。 笑いは刃じゃない。
「……助かった」
幹夫は鉛筆を握った。 頼を書く。
一回目の「頼」は、線が早くて、字が走りそうな顔になった。 走ると、押しつけになる。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「走りそうならな……息を入れて、間を置け。頼むってのは、間を渡すことだに」
幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。
――いき。
二回目の「頼」は、字が座って、抱えた束が手渡しに見えた。
父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。
「……俺も、書く」
父の「頼」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 最後の点を置く前に、父は一度止まって――息を吐いた。
ふう……。
吐いてから、点を置いた。
「……点、置くと……『頼む』が口から出るな」
母が小さく頷いた。
「うん。……出れば、つながるだに」
夜更け。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、震える字で書いた。
あさとうばん の かみむね 走りそう に なったでもみきぼう「ま」 っていって くれる っていったそれ がたすかったよるさきち に「たのむ」 って いえたひとり じゃ なかった頼かかえた もん をわたすいき
父がぽつりと言った。
「……みき坊。……頼むの、こわい日もある」
幹夫は頷く前に息を入れた。
――いき。
「……うん。……でも、言うと……固まらない」
父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。
ふう……。
「……固まらないの……好きだ」
母の低い声が、暗い中で落ちた。
「好きって言えりゃ頼れただに。……頼ると、胸に余地ができる」
祖母が淡々と言う。
「余地がありゃ飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」
また明日。 頼って続く明日。
幹夫は袋を押さえて、口の中で小さく言った。
――いき。
寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。
(とうちゃんへ も)
中に書く。
たのむ(頼)ってひとり で かかえた もん をわたす じ なんだねきょうとうちゃんぼく に「ま」 って たのんだぼくうれしかったとうちゃんさきち さん にたのむ って いえたひとり じゃ なかったいき
最後に、小さく「頼」。 丸をひとつ。 橋の丸。
紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは“頼まれる重さ”の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。
翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、三つ重なっていた。
一枚目、母の字。
頼 はひとり で かかえずそっと わたすおしつけるなことわる みち も のこせうん
最後に、小さな丸。
二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。
みきぼうきのう「ま」 ってたのんだいえた のすげぇおれ もさきち にたのむ って いえた頼 って じすこしおれ の むねひろいありがとう
その下に、丸がひとつ。
三枚目。 文字じゃなく――拍子木の紐の切れ端。 ほどけやすいように、結び目に余地が残してある。刺さらない結び。 紐の横に、父の震える字で小さく、
たのむ
と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。
幹夫はその紐を掌にのせて、息をひとつ入れた。
――いき。
頼む。 抱えたものを、そっと渡す。 押しつけない。 断る道も残す。 頼れたら、ひとりじゃなくなる。
蒲原に、サイレンは届かなかった。 けれど今日、父の「頼む」と、幹夫の「ま」が、ちゃんと届いて、夜の角を丸くした。 その丸さを落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、刺さらない“橋”を、そっと胸の中に座らせていった。





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