太鼓の糸
- 山崎行政書士事務所
- 2月7日
- 読了時間: 9分

八月の終わりの蒲原は、昼の名残りをまだ肩にかけていて、夕方になるとその肩掛けを、海風にそっとほどかせます。みかん畑の葉は昼の光を少しずつ返しながら、裏の白い粉をちらちら見せ、薩埵峠の影は、だんだん長い帯になって町の端に降りてきました。波は低く、しゅう、と寄せては、ざあ、と返して、砂の上に短い縫い目を残します。
幹夫は八つ。家の土間の隅に置かれた古い下駄を、指先でひとつ、転がしてみました。ころり、と木が鳴ります。木の音は、胸の奥のどこかをくすぐるのに、今日はそのくすぐりが、ちょっとだけ痛いのです。
夕方、祖母が言いました。
「今夜は八幡さまの祭りだよ。太鼓が鳴る。幹も、こういちも、行っておいで。風に当たっておいで」
“太鼓が鳴る”という言葉は、幹夫の胸にぴん、と糸を張りました。糸は嬉しい糸です。けれど嬉しい糸ほど、すぐに切れそうで怖い。切れそうだから、握って確かめたくなる。
こういちが門のところで待っていました。袖をまくって、手首が少し日焼けしています。
「行こう」とこういちが言いました。「うん」と幹夫も言いました。
言いながら、幹夫は胸の中で、もう一人、誰かに声をかけたくなっていました。
――父さんも、来られたらよかったのに。
思った瞬間、胸の奥の空洞が、からん、と鳴りました。音は出ないのに鳴る感じだけが、いつもよりよく分かる。夕方の空気は、そういう“出ない音”まで拾ってしまうのです。
八幡さまの境内は、まだ明るいうちから人が集まっていて、砂利がざくざく鳴りました。屋台は多くはないけれど、焼きとうもろこしの匂い、みそ田楽の甘い焦げ、ラムネの瓶の冷たそうなガラスの匂いが混ざって、風にのって鼻の奥まで届きます。提灯の灯はまだ半分眠っていて、紙の中で、ぽっ、と小さく息をしていました。
太鼓は、まだ鳴っていませんでした。鳴っていない太鼓の“待っている感じ”が、境内の真ん中に座っているようでした。
幹夫は、その待っている感じが好きでもあり、苦手でもありました。待つというのは、希望の形で、同時に怖さの形だからです。
「ラムネ、飲む?」とこういちが聞きました。「……飲む」と幹夫は答えました。
二人は小さな屋台の前に並びました。瓶の中にガラス玉がころん、と入っているのを見て、幹夫はふっと“虹の切符”の海硝子のことを思い出しました。丸いものは、手の中で転がると、落ちそうで落ちない。落ちそうなまま支える感じが、今日の心に少し似ていました。
ラムネの玉を親指で押すと、ぷつん、と音がして、甘い匂いが一度に開きました。幹夫はその匂いを吸い込んで、胸の奥のざらつきが、ほんの少しだけほどけるのを感じました。
境内の端では、浴衣の女の子たちが笑っていました。笑い声は紙風船のように軽く跳ねて、提灯の下をくぐっていきます。幹夫はその輪を見て、なぜだか胸がきゅっと縮みました。
笑い声が軽いとき、自分の胸の重さが、いっそう目立つのです。
そのとき、太鼓が鳴りました。
どん。
一つの音が、地面を叩いて、叩いたあと、空気の中に丸い波紋を広げました。波紋は見えないのに、幹夫の胸は確かに揺れました。心臓の太鼓が、太鼓の音に合わせて、こつん、と返事をするのが分かりました。
どん、どどん。
太鼓の音は、境内の隅々へ走って、木の幹にも、屋台の板にも、人の背中にも触れていきます。触れたものは、ほんの少しだけ自分の輪郭を思い出したように見えました。
盆踊りの輪が、ゆっくりできはじめました。手を上げて、下げて、回って、笑って。輪は“みんなの海”みたいで、入れば浮かべるのに、入る前に、足首が冷たくなる。
「踊る?」とこういちが聞きました。「……うん」と幹夫は言いました。
でも、その「うん」は、半分だけでした。
幹夫は、踊りの輪に入ろうとして、急に足が止まりました。輪の中に、父親らしい背中が見えたからです。太い腕で小さな子の手を持ち、子の手を上げたり下げたりさせている。背中の熱が、見ているだけで伝わってくるようでした。
――ああいう背中を、ぼくも知っている。
知っているのに、今はここにない。ないものを見た瞬間、幹夫の胸の奥で、空洞がひゅっと風を吹きました。風は冷たいのに、涙は出ません。涙が出る前に、胸がいっぱいになってしまうあの感じが、また来ました。
幹夫は、踊りの輪から一歩だけ離れて、屋台の影へ移りました。影は涼しいのに、心は落ち着きませんでした。落ち着かない心は、影の中でも、熱いままです。
「幹夫?」とこういちが言いました。「……ちょっと、見てる」と幹夫は言いました。
見てる、と言いながら、見ているのは踊りではなく、自分の胸の中でした。胸の中の糸が、太鼓の音に引かれて、ぴんぴん震えている。その震えが嬉しいのに、痛い。
そのとき、屋台の方で、紙風船がふわりと空へ上がり、すぐ、紐の先で止まりました。止まる瞬間、紙が、ぷる、と震えます。震えは、逃げたいのに逃げられない震えでした。
幹夫は、なぜだかその紙風船に、自分を重ねました。
ふいに、こういちの姿が見えなくなりました。
ほんの一瞬でした。太鼓の音に気を取られて、提灯の揺れに目を取られて、その間に、こういちの白い手首が人の波に隠れました。
幹夫の胸が、すとん、と落ちました。
落ちた場所は、空洞の底でした。底は冷たい。冷たいと、身体のほうが先に驚いて、手が汗ばみ、喉がひりひりして、耳だけが妙に大きくなる。
――いない。
父がいないのと、こういちが見えないのは、違うはずなのに、胸の奥のどこかが同じところで鳴りました。いない、という感触が同じ棚に並んでしまったのです。
「こういち……?」
声は出たのに、太鼓の音に吸われて、すぐ消えました。消えると、もっと焦る。焦ると、足が勝手に早足になります。
幹夫は人の間を抜けようとして、肩が誰かにぶつかりました。浴衣の布が擦れて、さざり、と鳴りました。その音が、なぜだか責める音に聞こえて、幹夫の胸はさらに縮みました。
――迷子になる。
迷子、という言葉は、道のことだけではありません。胸の中で、自分の気持ちが行き先を失うことも、迷子です。幹夫はいま、その両方になりそうでした。
そのとき、太鼓が、また大きく鳴りました。
どん。どん。どん。
音が、境内の真ん中から放射状に広がっていく。幹夫は、その音の広がり方を見えない目で見ました。音は、線になる。線は、糸になる。糸は、道になる。
――音の地図。
前に作った“音の帳”が、胸の中でひらきました。踏切のカン、汽車のことこと、波のしゅう、そして、太鼓のどん。太鼓は、いま、いちばん大きな印。
幹夫は太鼓の音の太い糸を辿るように、境内の真ん中へ戻りました。音の糸を辿ると、不思議と息が戻ってきます。息が戻ると、目が少し落ち着いて、周りが見える。
輪のそばで、こういちがいました。
こういちは、背の低い子が転びそうになったのを支えて、子の母さんに小さく頭を下げていました。支えたあと、こういちは自分の手を見て、少し驚いた顔をしていました。驚いているのは、うまくできたことへの驚きと、うまくできたのに胸がまだ怖いことへの驚きが、混ざっている顔でした。
幹夫は、こういちの顔を見た瞬間、胸の底の冷たさが、すうっとほどけました。ほどけたところへ、熱いものがいっぺんに上がってきて、喉の奥がじん、としました。
「……いた」と幹夫は言いました。 言った声が少し震えたのが自分でも分かりました。震えは恥ではなく、戻った安心の震えでした。
こういちは幹夫を見て、ぱっと表情を変えました。
「ごめん。見えなくなった?」「……うん。ちょっと、こわかった」
こわかった、という言葉を言えた瞬間、幹夫の胸の中の空洞が、穴ではなく“息の通る筒”になりました。怖いと言えたら、怖さは少しだけ、手に持てる大きさになります。
こういちは、小さくうなずきました。
「ぼくも、こわいときある。……ここ、人が多いと、胸がうるさい」
胸がうるさい。 その言い方が、幹夫にはすとんと分かりました。胸は、静かになれないとき、うるさいのです。うるさいのは悪いことじゃない。うるさいのは、生きている合図。
太鼓が、すぐ近くで鳴りました。
どどん。
音が幹夫の足の裏から入って、膝を通って、胸の中の太鼓へ届きます。胸の太鼓が、それに合わせて、こつん、と返事をしました。
その返事が、幹夫には、父の遠い返事に似ている気がしました。実際に返事が来たわけではありません。でも、返事の“形”だけが胸の中にあると、少しだけ立てます。
「踊る?」とこういちが、もう一度聞きました。 今度の聞き方は、押すでも引くでもなく、ただ隣に置くような聞き方でした。
幹夫は、息を吸って、吐きました。
「……踊る」と幹夫は言いました。 言いながら、胸がちくりとしました。父の背中がいないまま踊るのは、裏切りのように感じる瞬間がまだある。でも、そのちくりの下に、別の小さな温かさもありました。
――父さんがいないから、踊れない、じゃなくて。 ――父さんがいないからこそ、ぼくが自分で踊ってみる。
そう思うと、ちくりは針の痛みではなく、縫い目の痛みに変わりました。心は、縫って強くなることがある。
二人は踊りの輪へ入りました。最初、幹夫の足は、少しだけ遅れました。遅れると恥ずかしい。でも、太鼓は遅れた足も置いていかない。太鼓は一定に鳴り、一定に待つ。待っている音の中にいれば、足はいつか合ってきます。
手を上げる。下げる。回る。 提灯の灯が揺れ、紙の飾りがしゃらり、と鳴りました。 波の匂いが、境内の松の匂いと混ざりました。
幹夫はふいに、笑っていました。笑ってしまった、と感じた瞬間、胸がまたちくりとしました。けれどそのちくりは、さっきより柔らかく、すぐに太鼓の音に溶けました。
こういちも笑っていました。二人の笑いは、同じ大きさではないけれど、同じ方向を向いている笑いでした。
帰り道、夜の風は少しだけ涼しく、畦道の草が、さらさらと擦れて鳴りました。踏切の音が遠くで――カン、カン、と響き、汽車のことことが、それに答えるように長く続きました。
幹夫は、胸の奥の空洞をそっと確かめました。空洞はまだあります。消えたわけではありません。でも今夜の空洞は、冷たい穴ではなく、太鼓の音が通った“太い筒”みたいでした。筒を音が通ると、胸の中の迷子が、少しだけ道を思い出します。
「幹夫」とこういちが言いました。「なに」「さっき、踊れたね」「……うん。太鼓が、引っぱってくれた」
こういちはうなずいて、少しだけ笑いました。
「太鼓、糸みたいだった」「糸」と幹夫は言いました。 その言葉を口に出したとき、幹夫は、今日いちばん最初に胸に張った糸のことを思い出しました。嬉しくて切れそうな糸。切れそうな糸は、切れないように握ると、かえって痛くなる。けれど、太鼓の糸みたいに“遠くまで伸びる糸”なら、握らなくても、そこに張っておける。
家に着くと、窓辺の青いガラスの星が、風でからり、と鳴りました。 割れた貝の星座の箱は、月の光を控えめに返し、空の蛍瓶は透明のまま“返した手触り”を抱いていました。虹の海硝子も、暗がりで薄い色を見せました。庭の竹の短冊は、さらり、と鳴りました。
幹夫は、祭りでもらった小さな紙の飾り――薄い金色の折り紙で作った星を、そっと窓辺に置きました。置くと、星は何も言わないのに、太鼓の音の“残り香”みたいなものが、そこに座った気がしました。
布団に入ると、太鼓の音がまだ耳の奥で鳴っていました。どん、どどん。どん。 胸の太鼓も、こつん、とそれに返事をしました。
幹夫は目を閉じて、胸の中でそっと言いました。
――父さん。 ――今日は、太鼓がぼくを引っぱってくれた。 ――だから、ぼくも、少しだけ歩けた。 ――糸は切れない。たぶん、音のほうが強い。
遠くで波がしゅう、と引いて、またざあ、と寄せました。 その繰り返しの中で、幹夫の眠りは、いつもより静かに、深く降りてきました。




コメント