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蜜柑の灯

 昭和二十五年の十二月、静岡県庵原郡蒲原町の山すそには、蜜柑畑が小さな灯をいくつもともしていた。

 海から吹いてくる風は、昼を過ぎると少しずつ冷たくなった。けれど山の斜面に並ぶ蜜柑の木々は、そんな風をものともせず、青い葉を厚く重ね、そのあいだに丸い実を抱いていた。冬の日は低く、雲の切れ目から注ぐ光は、葉の先でこまかく砕け、蜜柑の皮に金色の斑を落とした。遠くには駿河湾が見えた。海は冬の色をしていたが、ところどころ銀紙のように光り、まるで畑の蜜柑たちに返事をしているようだった。

 幹夫は七つだった。

 まだ背は低く、蜜柑の木の下にもぐりこむと、枝が天井のように頭の上で広がった。葉の匂い、土の匂い、熟れた実の甘い匂いが混ざりあい、幹夫にはそこが家の中よりも静かな、もう一つの部屋のように思えた。

 その日、幹夫は母に頼まれて、小さな竹籠を持って畑へ来ていた。

「落ちている蜜柑だけでいいからね。木になっているのは、大人が採るから」

 母はそう言って、幹夫の首に古い毛糸の襟巻きを巻いてくれた。襟巻きは少しちくちくしたが、母の手の温かさが残っていたので、幹夫は何も言わずにうなずいた。

 畑では、父と近所の人たちが収穫をしていた。はさみの音が、ちょきん、ちょきんと乾いた空気に響いた。誰かが笑う声、籠を置く音、木箱を引きずる音。そうした音はみな、山に吸い込まれて、また少しやわらかくなって戻ってきた。

 幹夫は畑の端のほうへ歩いていった。

 そこには一本、ほかの木よりも少し曲がった蜜柑の木があった。幹は斜めに伸び、片側の枝だけが海の方へ大きく張り出している。父はその木を「風の木」と呼んでいた。昔、大きな台風が来たとき、折れかけたまま、それでも枯れずに実をつけたのだという。

 幹夫はその木が好きだった。

 まっすぐではないところが、なんとなく自分に似ている気がした。幹夫は、人の声が大きすぎると胸がきゅっと縮んだ。犬が遠くで吠えただけでも、耳の奥まで震えた。けれど、誰も気にとめないようなものの声は、よく聞こえた。霜柱が朝日にほどける音。からすが飛び立つ前に羽を寄せる音。蜜柑の皮の中で、甘い水が静かに眠っている気配。

 大人たちは、幹夫を「感じやすい子」と言った。

 けれど幹夫には、それが良いことなのか、悪いことなのか分からなかった。ただ、世の中には聞こえる音と聞こえない音があって、自分の胸はその聞こえない音に、すぐ水面のように揺れてしまうのだった。

 風の木の下には、いくつか蜜柑が落ちていた。

 幹夫はしゃがんで、一つを拾った。皮に少し傷があり、土がついていた。手のひらに乗せると、蜜柑は思いのほか温かかった。

「おまえ、落ちたのか」

 幹夫は小さく言った。

 すると、蜜柑が返事をしたような気がした。

 ――落ちたのではないよ。下りてきたのだよ。

 幹夫は息を止めた。

 まわりを見ると、父たちは少し離れた畑の上段にいて、こちらには気づいていない。風が葉を揺らしているだけだった。けれど、今の声はたしかに聞こえた。耳ではなく、胸の真ん中で聞いたような声だった。

「下りてきたって、どうして」

 幹夫は蜜柑を両手で包んだ。

 ――土の近くで、きみを待つためだよ。

 幹夫は少し怖くなった。けれどその怖さは、夜道で感じるものとは違っていた。障子の向こうに灯があると分かっているときの暗がりのような、やさしい怖さだった。

 風の木の葉が、さらさらと鳴った。

 幹夫にはそれが笑い声に聞こえた。

 ――この子は、ようやく聞いたね。

 ――ずっと聞こえていたのに、聞こえないふりをしていたね。

 枝の上の蜜柑たちが、ひそひそ話をしている。幹夫は目を丸くした。蜜柑畑はさっきまでと同じ畑なのに、もう同じではなかった。葉の裏に冬の光がひそみ、土の中には根が深い声でうなずき、石垣のすきまの小さな草までもが、白い息を吐いているようだった。

「ぼく、聞こえないふりなんてしてない」

 幹夫は少しむきになって言った。

 ――していたよ。

 風の木が言った。

 その声は、蜜柑よりもずっと古く、山の奥からゆっくり降りてくるようだった。

 ――おまえは、聞こえすぎるのがこわかったのだ。

 幹夫は答えられなかった。

 たしかにそうだった。父が疲れて黙っていると、幹夫の胸まで重くなった。母が台所でため息をつくと、竈の煙まで悲しそうに見えた。近所の子がからかう声は、竹のささくれのように胸に刺さった。みんなが何でもない顔をしているものが、幹夫には何でもなくなかった。

 だから幹夫は、聞こえないふりをすることがあった。

 石ころの冷たさにも、折れた枝の痛みにも、波の遠い寂しさにも。

「聞こえると、つらいんだ」

 幹夫は言った。

 声に出したとたん、目の奥が熱くなった。泣くつもりはなかったのに、涙がひとつ、蜜柑の皮の上に落ちた。小さなしずくは、橙色の表面をころりと転がり、傷のところで止まった。

 風の木はしばらく黙っていた。

 畑の上を、ひよどりが二羽、鋭く鳴いて飛んでいった。空は淡い水色で、雲は薄く引きのばされていた。海の方からは、塩を含んだ風がやって来て、幹夫の頬をなでた。

 ――つらいものを聞く耳は、うれしいものも聞く。

 風の木が言った。

 ――痛みを知る胸は、あたたかさを逃がさない。

 幹夫は顔を上げた。

 ――見てごらん。

 風の木の枝が、ほんの少し揺れた。

 幹夫は、蜜柑を包んだ手をゆるめ、畑を見渡した。

 すると不思議なことに、一本一本の蜜柑の木が、まるで人のように見えた。年寄りの木は、腰を曲げて黙々と実を抱いていた。若い木は、葉をぴんと立てて得意そうにしていた。まだ小さな木は、少ない実を大切そうに揺らしていた。どの木も、自分の枝の重みを知っていた。風にさらされることも、虫に食われることも、夏の照りつける日差しも、冬の霜も知っていた。

 それでも木々は、実を明るくしていた。

 苦労を隠すのではなく、苦労の奥から色づくように。

 幹夫は、胸の中に小さな火がともるのを感じた。

 それは、誰かにほめられたときの火ではなかった。勝ったときの火でもなかった。もっと静かな、手をかざして確かめたくなるような火だった。

「ぼくも、こんなふうになれるかな」

 幹夫は風の木に尋ねた。

 ――まっすぐでなくてもよい。

 木は答えた。

 ――折れかけてもよい。風を受けたところから、枝は伸びる。

 幹夫は、斜めに伸びた幹を見つめた。

 風の木は、誰よりも風に押されてきたのだろう。けれどその枝先には、いちばん海に近い光が乗っていた。曲がっているからこそ、遠くまで見ている。傷があるからこそ、根を深くしている。

 幹夫は拾った蜜柑を籠に入れようとして、ふと思い直した。

「これは、ぼくが食べてもいいかな」

 ――いいとも。

 蜜柑が言った。

 ――そのために下りてきたのだから。

 幹夫は爪を立てて、皮をむいた。

 ぷつり、と皮が裂けると、甘い香りが冬の空気に広がった。白い筋が月の雲のように房にまとわりついていた。幹夫は一房を口に入れた。

 冷たく、甘かった。

 けれどただ甘いだけではなかった。夏の日の熱、雨の夜の湿り気、土の暗さ、葉の苦み、海風の塩気、それから木が黙って耐えてきた長い時間が、ひとつの小さな房の中にしまわれていた。幹夫は噛まずに、しばらく舌の上でその味を受けとめた。

 胸の中の火が、少し大きくなった。

 そのとき、上の段から父の声がした。

「幹夫、寒くないか」

 幹夫は振り返った。

 父は蜜柑の木の間に立っていた。軍手をはめた手に、収穫ばさみを持っている。日に焼けた顔には疲れがあったが、目だけはやわらかかった。

 いつもの幹夫なら、父の疲れを感じて、何か悪いことをしたような気持ちになったかもしれない。けれどその日は違った。父の疲れの奥に、畑と同じあたたかさがあるのを感じた。風に曲がった木が、それでも実を抱くように、父もまた家族を抱いているのだと思った。

「寒くない」

 幹夫は大きな声で答えた。

 そして、少し考えてから言った。

「お父ちゃん、風の木は、曲がってるから遠くが見えるんだね」

 父は一瞬きょとんとした顔をした。それから、ゆっくり笑った。

「そうかもしれんな」

 父は風の木を見た。

「曲がった木は、風を忘れんからな」

 その言葉を聞いたとき、幹夫はうれしくなった。父にも、風の木の声が少し聞こえているのかもしれないと思った。

 夕方が近づくと、畑の光はさらに濃くなった。蜜柑は昼間よりも赤みを増し、一つ一つが小さな夕日のように見えた。山の影が石垣をのぼり、葉の先に冷えた露が生まれはじめた。遠くの海では、船が黒い点になって動いていた。

 幹夫は竹籠を腕にかけ、落ちた蜜柑を拾っていった。

 ひとつ拾うたびに、心の中で声をかけた。

 おまえは、よく実ったね。

 おまえは、ここまで来たんだね。

 おまえは、土に帰る前に、誰かをあたためるんだね。

 すると蜜柑たちは黙っていたが、その沈黙は返事のようだった。幹夫にはもう、聞こえる声と聞こえない声を分ける必要がないように思えた。大切なものは、耳で聞こえなくても、胸に届くのだと分かった。

 帰り道、母が幹夫の籠をのぞきこんだ。

「ずいぶん拾ったね」

「うん」

 幹夫はうなずいた。

「みんな、待ってたんだよ」

 母は不思議そうに幹夫を見たが、何も聞かなかった。ただ、襟巻きの端を直してくれた。その指先も、蜜柑のように少し冷たく、そして温かかった。

 山を下りるころ、空には一番星が出ていた。

 蒲原の町の家々から、夕餉の煙が細く立ちのぼっていた。戦争が終わって五年、まだどの家にも足りないものは多かった。新しい服も、白い米も、楽しい菓子も、たくさんはなかった。けれど、冬の畑には蜜柑が実り、海は遠くで光り、人々は手を動かして明日を作っていた。

 幹夫は胸の中の小さな火を抱いて歩いた。

 それは、誰にも見えない火だった。けれど幹夫には分かっていた。この火があれば、怖い音を聞いたときにも、冷たい風に吹かれたときにも、自分の心をまるごと閉じてしまわずにいられる。

 感じすぎることは、弱いことではない。

 それは、世界がそっと差し出す小さな声を受けとるための、やわらかな手なのだ。

 幹夫は振り返った。

 暮れかけた山の斜面で、風の木が黒い影になって立っていた。その枝先に、まだ採られずに残った蜜柑がひとつ、夕闇の中でぼんやり光っていた。

 まるで、幹夫の胸の火と同じ色だった。

 幹夫は小さく手を振った。

 風の木も、葉を鳴らして手を振った。

 そして冬の蒲原の空に、蜜柑の香りを含んだ風が、やさしく長く吹いていった。

 
 
 

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