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蜜柑の耳

昭和二十五年の十月、蒲原の朝は、海からそっと息を吹きかけられるように始まった。

みかん畑の葉は、夜のあいだに降りた露を小さな鏡のように抱いていた。山の斜面に並ぶ木々は、まだ青みを残した実をいくつも吊るし、薄い光の中で、ひとつひとつが眠たげに揺れていた。

幹夫は七つだった。

背はまだ畑の低い枝より少し高いくらいで、歩くたびに葉の先が頬を撫でた。葉は冷たく、けれど痛くはなかった。まるで、誰かが「おはよう」と言う前に、そっと指で合図してくるようだった。

幹夫は、その合図を聞き分けることができた。

母はよく言った。

「幹夫は、風の音まで気にしすぎる子だねえ」

それは叱る声ではなかったが、幹夫には少し恥ずかしかった。風の音を気にしないでいられる人のほうが、不思議だった。風は黙っている時もあれば、急に畑じゅうを駆けて、葉の裏を一斉にめくる時もある。泣いているような日も、笑っているような日もあった。

その朝の風は、何かを探していた。

幹夫はそう思った。

父はまだ家の裏で籠を直していた。竹のささくれを小刀で削る音が、乾いた虫の声のように、ぱちり、ぱちりと聞こえていた。母は土間で昼の握り飯を包んでいる。幹夫は誰にも言わず、畑の上の方へ歩いていった。

十月のみかん畑は、夏の濃い緑と冬の明るい橙のあいだで、何かを決めかねているようだった。実はまだ固く、青と黄の境目を行ったり来たりしている。幹夫は、その迷っている色が好きだった。はっきりしたものより、これから何かになるもののほうが、胸の奥を静かに照らした。

一番上の畑へ着くと、石垣のそばに一本だけ、枝ぶりの曲がったみかんの木があった。

幹夫はその木を「耳の木」と呼んでいた。

ほかの木よりも葉がよく鳴るからだった。風がない日でも、その木だけは、かすかにしゃらしゃらと音を立てることがあった。父に言えば、虫か鳥だと言われるだろう。母に言えば、枝が古いからだと言われるだろう。

けれど幹夫は知っていた。

その木は、聞いているのだ。

山の向こうの雲のことも、海の底を通る冷たい流れのことも、土の中で眠る小石の夢のことも、みんな聞いている。そして、ときどき葉を鳴らして返事をする。

幹夫は石垣に腰を下ろし、膝を抱えた。

「おれ、昨日、嘘をついた」

葉が小さく震えた。

「母ちゃんに、学校で泣かなかったって言った。でも本当は泣いた」

風はまだ畑の下のほうにいた。にもかかわらず、耳の木の枝が、ほんの少しだけ揺れた。

幹夫は足もとの土を見つめた。乾いた土の上には、丸い鳥の足跡がいくつも残っていた。昨日の帰り道、同じ組の健一に「泣き虫」と言われた。理由は小さなことだった。校庭の隅にいた痩せた犬が、先生に追い払われた。その犬がふり返った時の目が、幹夫には忘れられなかったのだ。

犬は、何も悪いことをしていない目をしていた。

けれど、誰かに邪魔だと言われることに慣れている目でもあった。

幹夫はその目を見た瞬間、胸の中で何かがほどけて、涙が出た。すると健一が笑った。幹夫は恥ずかしくなり、悔しくなり、帰ってから母に「今日は泣かなかった」と言った。

言ってすぐ、みかんの皮をむく前のような苦い匂いが、胸の中に広がった。

「泣いたら、だめなのかな」

幹夫は耳の木に訊いた。

返事はなかった。

ただ、葉の上の露が一つ、ぽたりと落ちた。土に吸われる小さな音がした。幹夫は、その音を聞いた時、誰かが深く頷いたように感じた。

畑の下から、父の声がした。

「幹夫、どこだ」

幹夫は立ち上がったが、返事をしなかった。返事をすれば、今の話が風に割れてしまいそうだった。

その時、みかんの木の奥で、黄色いものがちらりと動いた。

実ではなかった。

幹夫は息を止めた。

葉と葉のあいだから、小さな狐のようなものが顔を出していた。けれど狐にしては耳が丸く、目はみかんの種のように黒く光っていた。体は朝の陽を集めた綿のようで、尾の先だけが青かった。

幹夫は、怖くなかった。

それがこの世のものかどうかを考えるより先に、胸の中が静かになった。泣いた後、母が黙って背中を撫でてくれる時の静けさに似ていた。

「だれ」

幹夫が小さく訊くと、それは口を開けずに答えた。

――まだ色の決まらないものだよ。

声は耳ではなく、肋骨の内側に響いた。

「みかん?」

――みかんでもあるし、風でもあるし、おまえが昨日こらえた涙でもある。

幹夫は驚いて、思わず目をこすった。けれど黄色いものは消えなかった。むしろ少し近づいて、幹夫の足もとの土を前足で掻いた。

そこには、小さな青いみかんが落ちていた。

虫に食われ、半分ほど傷んでいた。幹夫はそれを拾い上げた。実は軽かった。枝から早く落ちてしまったものは、いつもこんなふうに軽い。まだ甘くなる前に、木から離れてしまったからだ。

――それは失敗じゃない。

黄色いものが言った。

――土に戻って、根に話をする役目がある。

幹夫は青いみかんを見つめた。

「落ちたら、終わりじゃないの」

――終わりは、たいてい誰かが勝手につけた名前だよ。

その言葉は難しかった。けれど幹夫には、なんとなくわかった。昨日の涙も、終わりではなかったのかもしれない。泣いたことで自分が弱くなったのではなく、何かが土に戻り、どこかの根に届いたのかもしれない。

父の声がまた聞こえた。

「幹夫、上か」

今度は近かった。

黄色いものは、耳の木の影へ戻りかけた。

「待って」

幹夫は慌てて言った。

「泣き虫って言われたら、どうしたらいい」

黄色いものは振り向いた。目の黒さの奥に、朝の海の色が少し混じっていた。

――耳を澄ませばいい。

「何に」

――泣いたものの声に。犬でも、草でも、自分でも。泣いたものは、ただ弱いのではない。何かを知らせている。

幹夫は黙った。

――聞こえたら、逃げずに持っておいで。おまえの手で。おまえの言葉で。

そう言うと、黄色いものは葉の光にほどけるように消えた。風が上ってきて、耳の木がしゃらしゃらと鳴った。幹夫はしばらく立ち尽くした。

父が石段を上がってきた。

「こんなところにいたか。朝露で冷えるぞ」

父の手には、直した籠が下がっていた。日に焼けた指の関節に、竹の粉が白くついていた。幹夫は父を見上げた。父の顔はいつも少し厳しい。けれど畑にいる時だけ、その厳しさの奥に、木と同じ黙り方があった。

「父ちゃん」

「なんだ」

「落ちたみかんは、だめなみかん?」

父は眉を上げ、幹夫の手の中の青い実を見た。

「売り物にはならんな」

幹夫の胸が少し沈んだ。

けれど父は続けた。

「だが、畑には戻せる。土になれば、また木の腹に入る」

幹夫は目を見開いた。

耳の木が、そっと鳴った。

父はその音に気づかず、畑の斜面を見下ろした。

「人も同じかもしれん。うまくいかん日も、どこかへ戻してやれば、次の力になる」

父がそんなことを言うのは珍しかった。幹夫は、父が黄色いものを見たのではないかと思った。けれど訊かなかった。大人には、大人の見方がある。子どもには、子どもの聞き方がある。

幹夫は青いみかんを、耳の木の根もとにそっと置いた。

土の匂いがした。湿り気を含んだ、深くて暗い匂いだった。その中に、まだ生まれていない甘さが眠っているようだった。

その日、幹夫は父と一緒に畑を下りた。途中で、蜘蛛の巣に露がかかっているのを見つけた。細い糸は、朝の光を受けて小さな橋のように輝いていた。

幹夫は思った。

自分の胸の中にも、こんな糸があるのかもしれない。犬の目と、自分の涙と、みかんの木と、父の言葉とをつないでいる、細くて切れそうな糸。切れそうだからこそ、光る糸。

昼前、学校へ行く道で、昨日の犬がまたいた。

細い体を丸め、道端の草の上に座っていた。健一も数歩先にいた。幹夫を見ると、にやりと笑った。

「また泣くか」

幹夫の耳の奥で、みかんの葉が鳴った。

しゃらしゃら。

それは畑から遠く離れているはずなのに、確かに聞こえた。

幹夫は犬のそばにしゃがんだ。握り飯の包みから、梅干しのない白いところを少しだけちぎり、手のひらに乗せた。犬はすぐには食べなかった。疑うように匂いを嗅ぎ、それからそっと舌を出した。

その舌の温かさに、幹夫の目が熱くなった。

健一が何か言いかけた。

けれど幹夫は、先に言った。

「泣くかもしれない」

声は震えていた。だが、逃げなかった。

「でも、この犬、腹がへってる」

健一は黙った。

幹夫はもう一度、犬に飯粒をやった。胸の中に昨日の苦い匂いが戻ってきたが、今度はそこに、青いみかんの匂いも混じっていた。まだ甘くはない。けれど、甘くなることを知っている匂いだった。

その午後、蒲原の空は高く晴れた。

みかん畑では、葉が何度も光を返した。海からの風が山へ上り、山からの影が畑へ下りた。耳の木の根もとでは、青いみかんが静かに土へ近づいていた。

幹夫はまだ七つだった。

強くなったわけではなかった。泣かなくなったわけでもなかった。

ただ、聞こえるものから逃げずにいようと思った。

風が探しているもの。犬の目が訴えるもの。落ちたみかんが土に渡すもの。自分の涙が知らせるもの。

それらを、いつか自分の言葉で持ってこようと思った。

夕暮れ、家へ帰る前に、幹夫は畑の上を振り返った。斜面のみかんの実は、沈む日に照らされ、ほんの少しだけ橙に近づいていた。

耳の木が、遠くで鳴った。

しゃらしゃら。

幹夫にはそれが、こう言っているように聞こえた。

――急がなくていい。甘くなるには、秋がいる。

幹夫は小さく頷いた。

そして、まだ青さの残る胸を抱えたまま、十月の光の中を歩いていった。

 
 
 

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